prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

drunken angel(3)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 こういう日を過ごすようになって、もう一年を越す。
 収入らしい収入もなくて、よくこんな生活ができるものだと思う。そうできるのは、一応働いていた時の貯えがあるのと、親元にいて衣食住が一応足りているからだ。もっとも貯えの中から一応一定金額は家に入れてはいるが、いつまで続くことか。
 こういう生活を送るようになるとは、つまり勤めを辞めることになるとは思わなかったとも言えるし、予感はあったとも言える。
 もとより、一つの会社にずうっと勤めていられるとは、初めから思っていなかった。高校いや中学の時から、いわゆる勤めを続けられるとは思っていなかった。というより、できるわけがないという妙な確信があった。勤めるというのは、やりたくないこと意に染まないことをやるということで、それに耐えられるとは思えなかった。かといって、何がしたいというでもなく、何をしたいのかもわからなかった。ただ、嫌悪感だけがあった。
 高校も行きたかった高校ではない。大学も行きたかった大学ではない。だからといって、他に本気で行きたかったところがあったわけでもない。それでも登校拒否をするわけでもなく中退もせず落第もせず、しかしおよそぱっとしない成績だが見かけは大過なくとにかく卒業だけはした。
 面接には落ち続けた。いくらあらかじめもっともらしい答えを想定していても、面接官は意地悪くその隙を突いてきた。どこがどう悪いというより、必ずなぜうちの会社を希望したのか聞かれ、そんなことわかるか、と思い続けたのが、顔に出たのだろう。
 いくつ面接を受けても落ちた。何十社受けたか、覚えていない。業種も職種もまちまちだった。そのうち、自分はこの社会で必要のない存在だと思えてきた、というより前からそうだと思っていたのが確認できた。
 受け続けているうちに一つ、ほとんど面接らしい面接もしないで受かった会社があった。商品取引の会社だった。実のところ、商品取引とはどんなものなのか、全然知らないで受けたのだ。商社の一種かと思っていたくらいだ。
 研修はハードだった。同じグループの会社を合わせてとはいえ、100人近くが合同で合宿したのには驚いた。今どき、なんでそんな大勢雇うのか不思議だったが、後でそのわけはわかった。
 とにかく、毎日6時起床の筈が、研修生の誰かが“やる気”を見せるために5時半起きすると、すぐそれが全体の基準になって毎日5時半起きになってしまう。
 営業するためには登録外務員という資格をとらなくてはならない。そのための勉強が毎日あった。しかし、正直大して難しい試験ではなく、わかりきったことを何とも毎日反復するのにたちまち飽きた。その一方で、ソフトボールの試合をこれまた毎日やり、負けるとグラウンド10周させられたりした。一体、ソフトボールと商品取引と、何の関係があるのかと思う。要するに、やみくもな根性論と、とにかくバカげたことでも上の言うことを聞くように洗脳するための無意味なシゴキ、としか思えなかった。
 バカになれ、としきりと訓練員は繰り返した。訓練員といっても、一年前に入社した、まだ新人に近い社員たちで、これが本物の新人が何か問題を起こしたりあまり教えたことが身についていなかったりすると、たちまち上から雷が落ちる。その分、ますますこっちの管理はきつくなる。バカになれと言われなくても、いちいち物を考えていたらやっていられなかった。
 何かというと、大声を出した。「俺はーっ、どこそこの、なんとかだーっ」と名乗ってから、一日の目標、遠い目標を絶叫する。同じものを何度も使えるわけではないので、いちいち考えなくてはならず、いちいちでっちあげるのに苦労した。

  研修を終わり、仕事が始まった。まず、テレコール。電話帳や名簿をごっそり集めてきて、片端から電話をかけてまわる。中には、どこから持って来たんだと思うような名簿もたくさんあった。
 商品取引とは、簡単にいえば相場のことだった。株の代わりに小豆(あずき、ではなく専門用語でしょうず、と読んだ)や大豆の相場の上下を見越して売買して利鞘を稼ぐ。正確にいうと、客に利鞘が稼げますといって勧誘し、手数料を稼ぐ。
 実際に小豆や大豆などを売買するわけではなくその価格だけをやりとりする。ふと、人間も全部点数をつけて分類選別するのと同じ流れなのか、と思ったりした。しかも、取引の全額を用意する必要はなく、ずっと小額の証拠金だけ出せば、莫大な金額の取引ができる。儲かる時は大きいが、損する時も大きい、ハイリスク・ハイリターンだとしきりと上は主張した。
 だが何か新しい価値を作るわけではなく、損する者から得する者へ金を移すゼロサムゲームだ。誰か得するためには誰か損しないといけない。そして損した者は普通ニ度と手を出さない。事実、ほとんどの客が一見さんだった。要するに、元から体力のある者が、ない者から吸い上げるシステムではないか、と思い出すと、そうとしか見えなくなった。
 “良心的”だからといって、それが何か意味をもつわけもない。そういう意味のことを上に提言してみたこともあったが、「それはおまえ、愚痴だぞ」と一言で済まされた。
 損すると目をつりあげて乗り込んできたりする客もたまにいた。突然飛び込んで着て、あたりかまわず大声で喚き続ける。驚くのは新人だけだ。一年以上在社している者は、またかという視線をちらと送ったまま、無視し続ける。担当の社員が相手をする。のらりくらりと言い逃れを続ける。ラチがあかないからといって、上役を呼び出すところまでいくこともある。だが、上役というのは、のらりくらりの場数をより踏んだ者という意味だ。呼び出したところで、何らかの進展があるわけもない。むしろ逆行しているのだが、それに気付く者はいない。土台、まともな思考能力など働かない状態になってから乗り込んでくるのだ。冷静な、あるいは冷ややかな態度を崩さなければ、子供がだだをこねるのを軽くあしらうのと大して変わりはない。
 勧誘する時はおいしいことしか言わない限り、食い付いてくるわけもない。損するかもしれませんと言われて、納得して金を出す人間がどこにいるというのか。おいしいことを言わせておいて、損した時だけ文句をいうというのも勝手に思え、そのうちこちらも慣れてきた。
 先輩は、営業というのはモノを売るんじゃない、自分という人間を売り込むんだ、と酒を飲むと教えたりした。だが、登録外務員試験を受かるまでは本当は営業してはいけない。だからといって、何もしないで机につけておくわけにもいかない。そこで、先輩の名前を名乗ってテレコールを繰り返した。何回も、何十回も、自分のでない名前を名乗り続ける。自分で自分を洗脳しているようなものだ。
 そのうち、登録外務員の試験を受け、あっさり合格した。同期入社のほとんど全員が合格した。しなかった者もいたらしいが、それがどうなったかは知らない。持っていたからといって、他の業種ではおよそ何の意味のない資格だ。ただ、試験を受けに行く時だけ会社から離れられてほっとしたのはよく覚えている。試験を受けるのが嬉しかったのなど、およそなかったことだ。
 合格すると同時に、自分の名前を名乗れるようになる。それで楽になるかというと、ひたすら電話口に向かって自分の名前を繰り返していると、名前が意味のない音の連なり、記号になってしまい、これまた一種の洗脳であることに変わりはない。
 また、毎日営業日記をつけることが義務づけられていた。だが、一日中ただ電話をかけ続けていて何の成果もないのに、何を書けというのか。うんうんいいながら、なんとかもっともらしい“成果”や明日につながる反省の弁をでっちあげたりする。管轄官庁のお達しらしいが、これまた管理してますよというアリバイ作りとしか思えず、手間暇そのもの以上に徒労感にさいまなされた。
 さらに、何の意味もないのに先輩が残っているからという理由だけで定時に帰るのがはばかられた。ただ残ったところで成果が上がるわけもなく、時間をムダにする焦りから、ますます時間がおそろしく長く感じられるようになった。
 やっと解放されると、とりあえず一杯やり、こわばった頭を少しでもほぐすのが習慣になった。脳が麻痺すると、一転して時間の流れがおそろしく早くなる。そのわずかな自由時間をむさぼるように、さらにアルコールを喉に流し込んだ。眠る時間も惜しんで飲んだ。
 そんなことを繰り返しているうちに、突然会社で倒れた。単なる寝不足だったのか、二日酔いだったのか、体が仕事や会社を拒絶したのか、よくわからない。
 とにかく、いきなりぶっ倒れたもので周囲も驚いて、近所の病院に担ぎこまれた。気がついてから医者の診察を受けたが、どこも悪くないというので、歩いて会社に帰った。
 今、思い出したのだが、あれは仮病だったのではないか。自分でやっておいて“ではないか”というのもおかしな話だが、どうしてもテレコールが続けられなくて、最後の手段として病気のふりをしたような気がする。そんなことをすること自体、普通ではないので広い意味の病気だったとはいえるだろう。
 とはいえ、倒れたというので一時的に「能力開発室」という人事部の一部という位置付けの部署に移された。そこで何をするかというと、何もすることはなかった。一日中机にしがみついて、新聞の切り抜きをするか、取引についての自習するか。本棚にはまとまった数の資料があった。アメリカの穀物メジャーについての解説書もあれば、登録外務員のテキストもあった。
 自分だけではなく、上司たちも普段何をするというでもなかった。一種の閑職のたまり場みたいになってたらしい。それでも時々思い出したようにテレコールしていた。ただ、相手は学生のようだった。就職の決まらない学生に電話し、あわよくば会社に呼び出して、そこそこの相手だったらさっさと内定を出してしまう。自分がそうだったように、いやに簡単に内定が出てしまう。こんなに簡単に出していいのたろうかと思ったら、すぐそれでいいことがわかってきた。
 人事に来てすぐ、研修で一緒だった連中が次々と辞めていくのがわかった。作ったばかりの名刺が、百枚揃ったまま一枚も使われることなく、シュレッダーにかけられて粉々になっていくのを、何度も見た。見覚えのある名前ばかりだった。まだ配属になって三ヶ月と経っていないのに、続々と辞めていく。
 要するに、とにかく人数を揃えるのが大事なのだ。もともと歩留まりが悪いのだから、どんどん採用して、辞める者は辞めてもらって結構、というより全部残られたらむしろムダに人件費がかかっていけない、という態度なのだろう。客がほとんど新規の客ばかりで、リピーターはほとんど出ないから常に幅広くテレコールしてまわって新規客を開拓しなくてはいけないのと、同様だ。
 使い捨てか、と今更ながら思ったのを覚えている。
 能力開発室勤めは間もなく解かれ、元の営業部に戻された。同期の中には、すでに新規を開拓した者もいた。
 気を取り直してテレコールに取り組んではみたが、かけた相手がすでに死んでいて、夫人らしい年輩の女性に何を親しそうに電話してるんだと罵られ、すぐめげた。あるいは、相場は家訓で禁じられてます、という者、黙って電話を切る者、詐欺師扱いする者、とにかく全滅だった。
 しまいには、うちの会社と取引して大損したという相手が出てきた。古い名簿を何度も使っているのだから、そういうこともあると、後になって思ったが、そう受話器越しにそう言われた時はびびった。それでも、その番号を控えておき、後で家に帰ってからかけてみた。会社の人間ではなくて、個人としてどんな状況だったのか、知りたかったからだ。ふざけるなと断られるかと思ったが、意外にも会ってくれるというので、いいかげん遅い時間だったが待ち合わせて喫茶店に入り、話を聞いた。
 特に話自体に新味はなかった。しつこく粘られて一枚(いうのが、売買の単位)だけのつもりで買ったら上がったから買えの、下がったがここが頑張りどころだから買えの、で契約を増やされ(つまり手数料も増やされ)百万単位の損をしたという。まあ、致命的になる損ではなかったが、二度とごめんだ、と。
 不思議とあやまる気はしなかった。理屈からいくとあやまるいわれはないのだが、普通こういう時は頭下げるものではないかと頭では思ったが、あやまりはしなかった。会社の代表あるいは代わりという意識がまったくなかったからだろう。普通に礼を言い、勘定は自分が持って、それで話は終わった。相手もこっちに対して、文句もアドバイスもしなかった。

 ついに、電話をかけるふりをして受話器に向かって一人芝居を始めた。名簿を見ながら、実は存在しない番号にかける。あるいは、#ボタンや*ボタンをさりげなく押す。そしてどこにもつながらない電話に向かい、いかにも誰かと話しているようなふりをする。これで一応、仕事をやっているように見えるはずだった。
 しかしそうしているうちにも、先輩同僚の何人かは実際に電話ではなく会って話を聞いてくれる誰かをひっかけていく。先輩には、行って帰ってきて、びっしり札束が詰まった鞄を持って帰ってくる者もいた。あるところにはあるものだ、と思った。
 そういう成績はもちろんグラフになり、表になり、一目で誰がどんな成績をあげているかわかる。底にぴったりへばりついているのが、自分も含めて数人いた。
 そのうち、これまた嘘の相手をでっちあげて、会ってくると称して外出した。だが、外出して一息ついたはいいが、もちろん相手がいないのだから契約などとれるわけがない。携帯の電源を切り、あてもなく街を歩き回った。コンビニに入り、焼酎の小瓶を買い、ビールをチェイサー代わりにして飲み干した。
 よくこんな最低の社員を雇ったものだ、と思った。この程度の奴を雇うのだから、この程度の会社なのだろう、とも思った。
 気が大きくなったのか、何も考えなくなったのか、時間を潰した後会社に戻り、適当に言い訳したが、もちろんさんざん怒られた。だが、それは契約が取れなかったことを怒られたのであって、電話に向かって芝居したことや、嘘をついて外出したことはバレなかった。不思議なことに、酒を飲んでいることも怒られなかった。まさかそんなことはするまい、と思っていたからだろうか。
 詳しい報告書も提出させられた。もちろんその中身はすべてでっちあげだった。もしそこに書いた電話番号に確認の電話一本入れられればすぐばれただろう。だが、誰も逃した魚を再び追うようなムダな手間をかけようとはしなかった。
 この程度のウソやデタラメも見破れないのか、とまた傲慢にも思ったのを覚えている。帰ってから、あまり迷わず辞表を書き、翌朝早く出て行ってあまり出勤する者がいないうちに提出した。もちろん遺留はされなかった。
 家族には、会社を辞めたことは知らせなかった。正社員と同じ時間帯で働くバイトの口を探し、それまでとほぼ同じように朝出て夜帰る生活を続けた。食費だけはなんとか入れ続けた。正社員の口も一応探したが、また落ち続けたので、すぐやる気をなくした。
  それも30を過ぎると、次第に口がなくなってきた。そのたびにアルコールの量が増えた。それでも、それが原因で首を切られることはなかった、と思う。少なくとも、表だっては。
 そうこうするうち、ついにまったく働き口がなくなった。本気で何でもするつもりならまだあったかもしれないが、そこそこ食えるとなるとイヤな思いをしてまでやってられるか、という気になる。
 国民年金は、払っていない。会社を辞めるとともに支払いは自分でするようになったのだが、もちろんそんなのを払っていられる余裕はない。減免制度といって、収入が少ない場合は申告すれば半額にしたり全額減免にしたりできて、その期間は未払い扱いにならないというので申告したのだが、ふざけたことに却下された。個人の収入ではなく、世帯の収入で審査するので、夫婦で年金収入があるうちの家族は対象にならないというのだ。年金を払っておいて、その中からまた払い返せというのだろうか。人をバカにするのもいいかげんにしろ、と思って確信的に払うのをやめた。
 どっちにしても、こっちが年金を受け取ることがあるとして、雀の涙ほどの支払いしかないのは、はっきりしている。それ以上に、支払いがある歳まで生きているものだろうか。それまでの長い長い、おそらく無為な時間を想像すると、その長さに押し潰されそうになり、改めて酒に手が伸びた。

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