世田谷パブリックシアター、2016年11月11日19時。
今は昔、あるいは未来の架空の日本。社会の合理化を目指す「標準化政策」により、すべてに「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除された。管理の整った首都圏は標準に染まり、地方も固有の文化を失うことで衰退しつつある。作家のヤナギダ(仲村トオル)は東北弁で書かれた散文集を自費出版したことで任意同行を求められる。方言を記述した上、内容も迷信と判断されたからだ。迷信を科学的に解明することで著名な学者、イノウエ(山内圭哉)が召還され、聴取に加わる。ヤナギダは、これはとある東北の青年、ササキ(瀬戸康史)から聴いたノンフィクションであり、いわゆる怪談とは違うと主張するが…
原作/柳田国男『遠野物語』、構成・脚本・演出/前川知大、美術/堀尾幸男。全1幕。
小泉八雲の『怪談』を原作に始まった『奇ッ怪』シリーズ前2作があるようですが、未見。どちらにせよ独立した物語であり、それは問題ありませんでした。
また、私は柳田国男の『遠野物語』もタイトルしか知らず未読で、なんか民俗学的な…フィールドワークの聞き書きみたいな…程度のイメージしか持っていませんでした。教養がなくてすみません。
そんなんでも十分おもしろく観られ、いろいろ考えさせられ、心震わせられた舞台でした。あと、舞台用にマイルドになっているのだろうし役者の技量もあるのだろうけれど、遠野弁がまったく問題なく聞き取れました。これも大きい。私は標準語者なので脳内で翻訳するワンクッションはあるんだけれど、それくらいは問題ないレベルでした。サイトーくん、勉強して。
さて、まず自分語りをしますと、私は東京の生まれではありませんが明らかに首都圏の人間であると自分を考えているのですね。出身は神奈川県ですが、海や山があり田畑が広がるようなところではなく町中の、しかも商店街のど真ん中に両親が間借りした家で育ちました。私の両親は共働きのサラリーマンでしたが、私の遊び友達はすべて近所の「お店屋さんの子」でした。遊べるような小川や小山もあったけれど児童公演や店の裏手の空き地、屋内で遊ぶことが多く、ひとり留守番しながら家で絵を描き灯るネオンと買い物客のざわめきに夜まで浸るような暮らしでした。
両親はどちらも実家と折り合いがあまり良くなく、私は子供のころに祖父母の家にそんなに頻繁には行ったことがありませんでした。また、行ってもそれが八王子と横浜のこれまた町中だったのです。つまり私は「田舎を持たない人間」であり、わりとそれがずっとコンプレックスなのでした。友達にはみんな夏休みに行くおばあちゃんちの野山があるのに、私にはない。そういう経験もほとんどない。虫とかカエルとかヤモリとか、あるいは暗いことや汚いことが怖いし嫌いだし、それで「都会っ子はダメね」と笑われて密かに傷つくよう、そんな子供でした。河童も幽霊も見たことないし狐に化かされたこともないし神隠しにあった知り合いもいない、奇怪な体験をしたことがない、つまらない人間なのです。
確かに私は性格的に合理主義者だし現実主義者だし理性的であろうとする優等生タイプの人間です。でもだからこそ、そういう部分がないのを弱点のように感じてきたのかもしれません。そしてだからこそ憧れるというか、存在自体は信じているというようなところはあって、例えば私は遊園地のお化け屋敷が大嫌いで絶対に入らないのですが、それは脅かされるのが怖くて嫌だということ以上に、幽霊とかそうしたものを笑いものにし慰みものにし商売にしていることに畏れを感じているからです。幽霊とか霊魂とかがあると思っているかと聞かれれば、人間は死んだら終わりで遺体は焼かれて肺になって消えるんだよ炭素と水素に分解された宇宙に還るだけで脳がなくなれば意思も感情も残らないだよ、とは答えるのですが、それが答えになっていないことも知っているのです。少なくとも、科学的な意味でも、目に見えることがすべてでないことは知っています。
と、ことほどさように鬱屈した態度でこの手の問題に接している人間なので、ナチュラルに田舎に育ちそうしたものに囲まれ自然に受け入れ育ったような人に対して、なんかホントよくわからないんですけど負けた感がしてしまうのですよね。私はササキに会ってもヤナギダのようにおもしろがれないんだろうなあ、とか。
つまり私は圧倒的にイノウエ側の人間なんですね。でもこれはヤナギダが主人公の話であり、イノウエは敵方なんですよ。だからその糾弾され具合にけっこう泣きそうになりました。イノウエが事実ではないものを迷信だと切り捨てる、「それはあんたが強いからだ」とヤナギダが批判する、その矢が刺さるのです。強いですけど何か、としか私には言いようがない。
私はこの舞台の「標準化政策」なるものは現実には不要だと思っていて、それはそんな政策を採らずともいずれ自然にそうなると思っているからです。地方固有の文化は消失しいずれは標準化してしまう。熱平衡の物理学と同じことです。今ふうの言葉でいえばグローバルスタンダートがどうこうってことなのでしょうし、それにも問題やひずみがあって世界各地で今年だけでも様々な問題が噴出していますがそれはまた別のこととして、そこへ向かってしまう、そうなってしまうことは避けられないと思っているのです。
ヤナギダもそれはわかっていて、でもだからこそ少しでも食い止めたい、遅らせたい、守るべきものを守りたいと考え動いているのですよね。でも私には無駄なことのようにも思える。それは私が「標準」の側にいる強者だからなのでしょう。このご時勢に健康で大学出て正社員でいられてエンタメ享受できてるんですからね、女であることと未婚・子なしであることなんてマイナスにもならないくらい「強者」でしょうね。でもそれは私のせいじゃない。というか私だって努力しなかったわけじゃない。
三原順『はみだしっ子』に確か、わかってもらえないと泣く人はわかってあげられなくて泣く人のことに気づかない、みたいな台詞があったかと思うのですが、こういう作品を観るときに私が思うのはいつもそれなんですよね。弱きものが主役に据えられることが物語では多いですからね。だからこその物語ですからね。
でもでは何故自分は、そのまま物語なんか必要としないリア充に育ち上がらなかったんでしょうね? それこそ私にはイノウエのような、妻を神隠しで失うなんて奇怪な体験はなかった。そうして現実派に走るとか、イヤ奇怪派(今勝手に作りました)に転向するとかはわかりやすい。でもそんな体験がなくても、生まれながらに物語脳というか物語体質の人間ってのは、生まれ育った環境とはあまり関係なく存在するってことなんじゃないかなあ。
だから、実は舞台の中盤はちょっと散漫に感じられて、ところでこの話ってどこに向かうの?とかどこがゴールの話なの?とか考えちゃって気が散っちゃったリしたんですけれど、終盤は主にイノウエと自分のためにダダ泣きしていました。
ノヨ(銀粉蝶)から受け取ったものをササキが語り、ササキから受け取ったものをヤナギダが語り、ヤナギダはそれをイノウエに受け取らせて去り、物語は終わる。私は誰からも何もそういうふうには受け取っていない、でも物語を作り売ることを生業にしているし、本を読んだり漫画を読んだり映画を見たりドラマを見たり舞台を観たり音楽を聴いたりすることを楽しんで生きている、生きていく。そんなふうに思えました。
イノウエ、というか山内さんで始まり、山内さんを残して暗転して舞台は終わり、明転後のラインナップに最初にいるのも山内さんなのに、最後の最後のハケ際に客席にひとり会釈したのが仲村トオルでびっくりしました。いやヤナギダのお話なんだしトップクレジットなんだしあたりまえなんだけど。それくらい私にとっては、イノウエと自分のお話でした。
再現不可能なものは事実ではない、として切り捨てられてしまうあの世界は、フィクションなんて言語道断だったのでしょうか。ではどんな娯楽が存在した世界だったのでしょうか。
舞台は、現実的に存在する板の上で、現実に存在する機材を組んで装置が作られ、現実に存在する役者がそこで実際に台詞を発して作られます。でもそこで作られる、形のないものこそが舞台作品の本質であって、それは毎日公演があろうとも再現可能なものではないし、だからあの世界では事実ではないとされて切り捨てられてしまうものだったのでしょうか。その様式で、この物語が語られていることもまた、おもしろいなと思いました。
仲村トオルの舞台は何度か観ていると思いますが、脚が長くて仰天しました。リアル男性のスタイルに驚くことはあまりないのですけれどね。いい役者さんですよね。
瀬戸くんも本当に達者で、素晴らしかったです。
あとミズノ役の安井順平の的確な胡散臭さがたまりませんでした。私はイノウエではなく彼なのかもしれません。
イソ役の池谷のぶえも素敵でしたし、もちろんノヨは圧巻。ほっそりしたお若い女優ふたりも雰囲気があって素敵でした。シリーズに皆勤している浜田信也も感じがよかったです。
私はイキウメは観たことがないのですが、奇怪違った機会があればぜひ観てみたいなと思いました。
あ、一点だけ。私が聞き逃していただけかもしれませんが、この作品における「怪談」という言葉が差すものが何かをもっと明示していたらいいのではないかと思いました。単なるいわゆる怪談ではなく、世迷言というか、要するにこの作品の日本では禁じられているフィクション全般までを含むようなものとされているのかな?とも感じたので。
どっとはらい。
(これ、どこかからの孫引きで私は使っているのですけれど、「どーんとはれ!」みたいな台詞がありましたね。語源は同じかな?)
今は昔、あるいは未来の架空の日本。社会の合理化を目指す「標準化政策」により、すべてに「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除された。管理の整った首都圏は標準に染まり、地方も固有の文化を失うことで衰退しつつある。作家のヤナギダ(仲村トオル)は東北弁で書かれた散文集を自費出版したことで任意同行を求められる。方言を記述した上、内容も迷信と判断されたからだ。迷信を科学的に解明することで著名な学者、イノウエ(山内圭哉)が召還され、聴取に加わる。ヤナギダは、これはとある東北の青年、ササキ(瀬戸康史)から聴いたノンフィクションであり、いわゆる怪談とは違うと主張するが…
原作/柳田国男『遠野物語』、構成・脚本・演出/前川知大、美術/堀尾幸男。全1幕。
小泉八雲の『怪談』を原作に始まった『奇ッ怪』シリーズ前2作があるようですが、未見。どちらにせよ独立した物語であり、それは問題ありませんでした。
また、私は柳田国男の『遠野物語』もタイトルしか知らず未読で、なんか民俗学的な…フィールドワークの聞き書きみたいな…程度のイメージしか持っていませんでした。教養がなくてすみません。
そんなんでも十分おもしろく観られ、いろいろ考えさせられ、心震わせられた舞台でした。あと、舞台用にマイルドになっているのだろうし役者の技量もあるのだろうけれど、遠野弁がまったく問題なく聞き取れました。これも大きい。私は標準語者なので脳内で翻訳するワンクッションはあるんだけれど、それくらいは問題ないレベルでした。サイトーくん、勉強して。
さて、まず自分語りをしますと、私は東京の生まれではありませんが明らかに首都圏の人間であると自分を考えているのですね。出身は神奈川県ですが、海や山があり田畑が広がるようなところではなく町中の、しかも商店街のど真ん中に両親が間借りした家で育ちました。私の両親は共働きのサラリーマンでしたが、私の遊び友達はすべて近所の「お店屋さんの子」でした。遊べるような小川や小山もあったけれど児童公演や店の裏手の空き地、屋内で遊ぶことが多く、ひとり留守番しながら家で絵を描き灯るネオンと買い物客のざわめきに夜まで浸るような暮らしでした。
両親はどちらも実家と折り合いがあまり良くなく、私は子供のころに祖父母の家にそんなに頻繁には行ったことがありませんでした。また、行ってもそれが八王子と横浜のこれまた町中だったのです。つまり私は「田舎を持たない人間」であり、わりとそれがずっとコンプレックスなのでした。友達にはみんな夏休みに行くおばあちゃんちの野山があるのに、私にはない。そういう経験もほとんどない。虫とかカエルとかヤモリとか、あるいは暗いことや汚いことが怖いし嫌いだし、それで「都会っ子はダメね」と笑われて密かに傷つくよう、そんな子供でした。河童も幽霊も見たことないし狐に化かされたこともないし神隠しにあった知り合いもいない、奇怪な体験をしたことがない、つまらない人間なのです。
確かに私は性格的に合理主義者だし現実主義者だし理性的であろうとする優等生タイプの人間です。でもだからこそ、そういう部分がないのを弱点のように感じてきたのかもしれません。そしてだからこそ憧れるというか、存在自体は信じているというようなところはあって、例えば私は遊園地のお化け屋敷が大嫌いで絶対に入らないのですが、それは脅かされるのが怖くて嫌だということ以上に、幽霊とかそうしたものを笑いものにし慰みものにし商売にしていることに畏れを感じているからです。幽霊とか霊魂とかがあると思っているかと聞かれれば、人間は死んだら終わりで遺体は焼かれて肺になって消えるんだよ炭素と水素に分解された宇宙に還るだけで脳がなくなれば意思も感情も残らないだよ、とは答えるのですが、それが答えになっていないことも知っているのです。少なくとも、科学的な意味でも、目に見えることがすべてでないことは知っています。
と、ことほどさように鬱屈した態度でこの手の問題に接している人間なので、ナチュラルに田舎に育ちそうしたものに囲まれ自然に受け入れ育ったような人に対して、なんかホントよくわからないんですけど負けた感がしてしまうのですよね。私はササキに会ってもヤナギダのようにおもしろがれないんだろうなあ、とか。
つまり私は圧倒的にイノウエ側の人間なんですね。でもこれはヤナギダが主人公の話であり、イノウエは敵方なんですよ。だからその糾弾され具合にけっこう泣きそうになりました。イノウエが事実ではないものを迷信だと切り捨てる、「それはあんたが強いからだ」とヤナギダが批判する、その矢が刺さるのです。強いですけど何か、としか私には言いようがない。
私はこの舞台の「標準化政策」なるものは現実には不要だと思っていて、それはそんな政策を採らずともいずれ自然にそうなると思っているからです。地方固有の文化は消失しいずれは標準化してしまう。熱平衡の物理学と同じことです。今ふうの言葉でいえばグローバルスタンダートがどうこうってことなのでしょうし、それにも問題やひずみがあって世界各地で今年だけでも様々な問題が噴出していますがそれはまた別のこととして、そこへ向かってしまう、そうなってしまうことは避けられないと思っているのです。
ヤナギダもそれはわかっていて、でもだからこそ少しでも食い止めたい、遅らせたい、守るべきものを守りたいと考え動いているのですよね。でも私には無駄なことのようにも思える。それは私が「標準」の側にいる強者だからなのでしょう。このご時勢に健康で大学出て正社員でいられてエンタメ享受できてるんですからね、女であることと未婚・子なしであることなんてマイナスにもならないくらい「強者」でしょうね。でもそれは私のせいじゃない。というか私だって努力しなかったわけじゃない。
三原順『はみだしっ子』に確か、わかってもらえないと泣く人はわかってあげられなくて泣く人のことに気づかない、みたいな台詞があったかと思うのですが、こういう作品を観るときに私が思うのはいつもそれなんですよね。弱きものが主役に据えられることが物語では多いですからね。だからこその物語ですからね。
でもでは何故自分は、そのまま物語なんか必要としないリア充に育ち上がらなかったんでしょうね? それこそ私にはイノウエのような、妻を神隠しで失うなんて奇怪な体験はなかった。そうして現実派に走るとか、イヤ奇怪派(今勝手に作りました)に転向するとかはわかりやすい。でもそんな体験がなくても、生まれながらに物語脳というか物語体質の人間ってのは、生まれ育った環境とはあまり関係なく存在するってことなんじゃないかなあ。
だから、実は舞台の中盤はちょっと散漫に感じられて、ところでこの話ってどこに向かうの?とかどこがゴールの話なの?とか考えちゃって気が散っちゃったリしたんですけれど、終盤は主にイノウエと自分のためにダダ泣きしていました。
ノヨ(銀粉蝶)から受け取ったものをササキが語り、ササキから受け取ったものをヤナギダが語り、ヤナギダはそれをイノウエに受け取らせて去り、物語は終わる。私は誰からも何もそういうふうには受け取っていない、でも物語を作り売ることを生業にしているし、本を読んだり漫画を読んだり映画を見たりドラマを見たり舞台を観たり音楽を聴いたりすることを楽しんで生きている、生きていく。そんなふうに思えました。
イノウエ、というか山内さんで始まり、山内さんを残して暗転して舞台は終わり、明転後のラインナップに最初にいるのも山内さんなのに、最後の最後のハケ際に客席にひとり会釈したのが仲村トオルでびっくりしました。いやヤナギダのお話なんだしトップクレジットなんだしあたりまえなんだけど。それくらい私にとっては、イノウエと自分のお話でした。
再現不可能なものは事実ではない、として切り捨てられてしまうあの世界は、フィクションなんて言語道断だったのでしょうか。ではどんな娯楽が存在した世界だったのでしょうか。
舞台は、現実的に存在する板の上で、現実に存在する機材を組んで装置が作られ、現実に存在する役者がそこで実際に台詞を発して作られます。でもそこで作られる、形のないものこそが舞台作品の本質であって、それは毎日公演があろうとも再現可能なものではないし、だからあの世界では事実ではないとされて切り捨てられてしまうものだったのでしょうか。その様式で、この物語が語られていることもまた、おもしろいなと思いました。
仲村トオルの舞台は何度か観ていると思いますが、脚が長くて仰天しました。リアル男性のスタイルに驚くことはあまりないのですけれどね。いい役者さんですよね。
瀬戸くんも本当に達者で、素晴らしかったです。
あとミズノ役の安井順平の的確な胡散臭さがたまりませんでした。私はイノウエではなく彼なのかもしれません。
イソ役の池谷のぶえも素敵でしたし、もちろんノヨは圧巻。ほっそりしたお若い女優ふたりも雰囲気があって素敵でした。シリーズに皆勤している浜田信也も感じがよかったです。
私はイキウメは観たことがないのですが、奇怪違った機会があればぜひ観てみたいなと思いました。
あ、一点だけ。私が聞き逃していただけかもしれませんが、この作品における「怪談」という言葉が差すものが何かをもっと明示していたらいいのではないかと思いました。単なるいわゆる怪談ではなく、世迷言というか、要するにこの作品の日本では禁じられているフィクション全般までを含むようなものとされているのかな?とも感じたので。
どっとはらい。
(これ、どこかからの孫引きで私は使っているのですけれど、「どーんとはれ!」みたいな台詞がありましたね。語源は同じかな?)