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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『遠野物語・奇ッ怪 其ノ三』

2016年11月13日 | 観劇記/タイトルた行
 世田谷パブリックシアター、2016年11月11日19時。

 今は昔、あるいは未来の架空の日本。社会の合理化を目指す「標準化政策」により、すべてに「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除された。管理の整った首都圏は標準に染まり、地方も固有の文化を失うことで衰退しつつある。作家のヤナギダ(仲村トオル)は東北弁で書かれた散文集を自費出版したことで任意同行を求められる。方言を記述した上、内容も迷信と判断されたからだ。迷信を科学的に解明することで著名な学者、イノウエ(山内圭哉)が召還され、聴取に加わる。ヤナギダは、これはとある東北の青年、ササキ(瀬戸康史)から聴いたノンフィクションであり、いわゆる怪談とは違うと主張するが…
 原作/柳田国男『遠野物語』、構成・脚本・演出/前川知大、美術/堀尾幸男。全1幕。

 小泉八雲の『怪談』を原作に始まった『奇ッ怪』シリーズ前2作があるようですが、未見。どちらにせよ独立した物語であり、それは問題ありませんでした。
 また、私は柳田国男の『遠野物語』もタイトルしか知らず未読で、なんか民俗学的な…フィールドワークの聞き書きみたいな…程度のイメージしか持っていませんでした。教養がなくてすみません。
 そんなんでも十分おもしろく観られ、いろいろ考えさせられ、心震わせられた舞台でした。あと、舞台用にマイルドになっているのだろうし役者の技量もあるのだろうけれど、遠野弁がまったく問題なく聞き取れました。これも大きい。私は標準語者なので脳内で翻訳するワンクッションはあるんだけれど、それくらいは問題ないレベルでした。サイトーくん、勉強して。

 さて、まず自分語りをしますと、私は東京の生まれではありませんが明らかに首都圏の人間であると自分を考えているのですね。出身は神奈川県ですが、海や山があり田畑が広がるようなところではなく町中の、しかも商店街のど真ん中に両親が間借りした家で育ちました。私の両親は共働きのサラリーマンでしたが、私の遊び友達はすべて近所の「お店屋さんの子」でした。遊べるような小川や小山もあったけれど児童公演や店の裏手の空き地、屋内で遊ぶことが多く、ひとり留守番しながら家で絵を描き灯るネオンと買い物客のざわめきに夜まで浸るような暮らしでした。
 両親はどちらも実家と折り合いがあまり良くなく、私は子供のころに祖父母の家にそんなに頻繁には行ったことがありませんでした。また、行ってもそれが八王子と横浜のこれまた町中だったのです。つまり私は「田舎を持たない人間」であり、わりとそれがずっとコンプレックスなのでした。友達にはみんな夏休みに行くおばあちゃんちの野山があるのに、私にはない。そういう経験もほとんどない。虫とかカエルとかヤモリとか、あるいは暗いことや汚いことが怖いし嫌いだし、それで「都会っ子はダメね」と笑われて密かに傷つくよう、そんな子供でした。河童も幽霊も見たことないし狐に化かされたこともないし神隠しにあった知り合いもいない、奇怪な体験をしたことがない、つまらない人間なのです。
 確かに私は性格的に合理主義者だし現実主義者だし理性的であろうとする優等生タイプの人間です。でもだからこそ、そういう部分がないのを弱点のように感じてきたのかもしれません。そしてだからこそ憧れるというか、存在自体は信じているというようなところはあって、例えば私は遊園地のお化け屋敷が大嫌いで絶対に入らないのですが、それは脅かされるのが怖くて嫌だということ以上に、幽霊とかそうしたものを笑いものにし慰みものにし商売にしていることに畏れを感じているからです。幽霊とか霊魂とかがあると思っているかと聞かれれば、人間は死んだら終わりで遺体は焼かれて肺になって消えるんだよ炭素と水素に分解された宇宙に還るだけで脳がなくなれば意思も感情も残らないだよ、とは答えるのですが、それが答えになっていないことも知っているのです。少なくとも、科学的な意味でも、目に見えることがすべてでないことは知っています。
 と、ことほどさように鬱屈した態度でこの手の問題に接している人間なので、ナチュラルに田舎に育ちそうしたものに囲まれ自然に受け入れ育ったような人に対して、なんかホントよくわからないんですけど負けた感がしてしまうのですよね。私はササキに会ってもヤナギダのようにおもしろがれないんだろうなあ、とか。
 つまり私は圧倒的にイノウエ側の人間なんですね。でもこれはヤナギダが主人公の話であり、イノウエは敵方なんですよ。だからその糾弾され具合にけっこう泣きそうになりました。イノウエが事実ではないものを迷信だと切り捨てる、「それはあんたが強いからだ」とヤナギダが批判する、その矢が刺さるのです。強いですけど何か、としか私には言いようがない。
 私はこの舞台の「標準化政策」なるものは現実には不要だと思っていて、それはそんな政策を採らずともいずれ自然にそうなると思っているからです。地方固有の文化は消失しいずれは標準化してしまう。熱平衡の物理学と同じことです。今ふうの言葉でいえばグローバルスタンダートがどうこうってことなのでしょうし、それにも問題やひずみがあって世界各地で今年だけでも様々な問題が噴出していますがそれはまた別のこととして、そこへ向かってしまう、そうなってしまうことは避けられないと思っているのです。
 ヤナギダもそれはわかっていて、でもだからこそ少しでも食い止めたい、遅らせたい、守るべきものを守りたいと考え動いているのですよね。でも私には無駄なことのようにも思える。それは私が「標準」の側にいる強者だからなのでしょう。このご時勢に健康で大学出て正社員でいられてエンタメ享受できてるんですからね、女であることと未婚・子なしであることなんてマイナスにもならないくらい「強者」でしょうね。でもそれは私のせいじゃない。というか私だって努力しなかったわけじゃない。
 三原順『はみだしっ子』に確か、わかってもらえないと泣く人はわかってあげられなくて泣く人のことに気づかない、みたいな台詞があったかと思うのですが、こういう作品を観るときに私が思うのはいつもそれなんですよね。弱きものが主役に据えられることが物語では多いですからね。だからこその物語ですからね。
 でもでは何故自分は、そのまま物語なんか必要としないリア充に育ち上がらなかったんでしょうね? それこそ私にはイノウエのような、妻を神隠しで失うなんて奇怪な体験はなかった。そうして現実派に走るとか、イヤ奇怪派(今勝手に作りました)に転向するとかはわかりやすい。でもそんな体験がなくても、生まれながらに物語脳というか物語体質の人間ってのは、生まれ育った環境とはあまり関係なく存在するってことなんじゃないかなあ。
 だから、実は舞台の中盤はちょっと散漫に感じられて、ところでこの話ってどこに向かうの?とかどこがゴールの話なの?とか考えちゃって気が散っちゃったリしたんですけれど、終盤は主にイノウエと自分のためにダダ泣きしていました。
 ノヨ(銀粉蝶)から受け取ったものをササキが語り、ササキから受け取ったものをヤナギダが語り、ヤナギダはそれをイノウエに受け取らせて去り、物語は終わる。私は誰からも何もそういうふうには受け取っていない、でも物語を作り売ることを生業にしているし、本を読んだり漫画を読んだり映画を見たりドラマを見たり舞台を観たり音楽を聴いたりすることを楽しんで生きている、生きていく。そんなふうに思えました。
 イノウエ、というか山内さんで始まり、山内さんを残して暗転して舞台は終わり、明転後のラインナップに最初にいるのも山内さんなのに、最後の最後のハケ際に客席にひとり会釈したのが仲村トオルでびっくりしました。いやヤナギダのお話なんだしトップクレジットなんだしあたりまえなんだけど。それくらい私にとっては、イノウエと自分のお話でした。
 再現不可能なものは事実ではない、として切り捨てられてしまうあの世界は、フィクションなんて言語道断だったのでしょうか。ではどんな娯楽が存在した世界だったのでしょうか。
 舞台は、現実的に存在する板の上で、現実に存在する機材を組んで装置が作られ、現実に存在する役者がそこで実際に台詞を発して作られます。でもそこで作られる、形のないものこそが舞台作品の本質であって、それは毎日公演があろうとも再現可能なものではないし、だからあの世界では事実ではないとされて切り捨てられてしまうものだったのでしょうか。その様式で、この物語が語られていることもまた、おもしろいなと思いました。

 仲村トオルの舞台は何度か観ていると思いますが、脚が長くて仰天しました。リアル男性のスタイルに驚くことはあまりないのですけれどね。いい役者さんですよね。
 瀬戸くんも本当に達者で、素晴らしかったです。
 あとミズノ役の安井順平の的確な胡散臭さがたまりませんでした。私はイノウエではなく彼なのかもしれません。
 イソ役の池谷のぶえも素敵でしたし、もちろんノヨは圧巻。ほっそりしたお若い女優ふたりも雰囲気があって素敵でした。シリーズに皆勤している浜田信也も感じがよかったです。
 私はイキウメは観たことがないのですが、奇怪違った機会があればぜひ観てみたいなと思いました。

 あ、一点だけ。私が聞き逃していただけかもしれませんが、この作品における「怪談」という言葉が差すものが何かをもっと明示していたらいいのではないかと思いました。単なるいわゆる怪談ではなく、世迷言というか、要するにこの作品の日本では禁じられているフィクション全般までを含むようなものとされているのかな?とも感じたので。
 どっとはらい。
(これ、どこかからの孫引きで私は使っているのですけれど、「どーんとはれ!」みたいな台詞がありましたね。語源は同じかな?)













宝塚歌劇月組『Bow Singing Workshop~月~』

2016年11月02日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚バウホール、2016年10月31日15時。

 このワークショップ・シリーズのトリ。宙組版の感想はこちら、星組はこちら、雪組はこちら。花組は観られませんでした。
 どの組も94期が長を務めていますが、今回は煌海ルイセ、スター枠は98期のありちゃんと、どこよりも若いというか知らんがなな下級生ばかりの印象…が、なかなかに健闘していたと思いました。欲目もあるかもしれませんが。
 音に聞こえた歌上手としてははーちゃんと周旺くんくらいかなと思うのですが、意外や意外、歌える子がかなりいて、たとえ歌唱力はそうでもなくても(^^;)みんな芝居心があるというか、「こう歌いたい、見せたい」「この想いを伝えたい」という意志がある生徒が多い気がして、観ていて好感を持ちました。

 オープニングは「With a Song in my Heart」、同名のショーより。このショー自体は権利関係の問題かスカステでもまったく放送されませんが、この曲は月NW!でも歌われていたし、大丈夫なのかな? ゆかしげでいい曲ですよね。
 全員による自己紹介のご挨拶のあと、トップバッターはあちくんの「情熱の翼」、『ル・ボレロ・ルージュ』より。これも最近だと月NW!でみやちゃんが歌っていましたよね。トップバッターって難しいと思うんだけれど、あちくんは舞台度胸があるタイプなのか、自分で振り付けたという踊りもキザにガンガン見せて、歌は決して上手いとは言えないと思うんだけどとにかく楽しそうにノリノリで歌っていて、パワーを感じました。その意気やよし!
 続く桃歌雪ちゃんは『ポカホンタス』より「カラー・オブ・ザ・ウインド」。歌上手娘役ちゃん枠なんだろうけれど、ちょっとパンチが足りなかったかな…宙で歌ったせとぅーの方が情景が見えた気がしました。
 続いて礼華はるくんの「夕映えの飛鳥」、選曲が渋いぞ!? でもいい歌だよね、いい声でしっとり聴かせました。てかスタイルが良くて手足が長くて明るい温かなオーラがある人ですね、垢抜けたら沼な予感しかしませんね…『A-EN』も印象的でしたもんね。
 彩音星凪くんは『アルジェの男』より「ジュリアン・クレール」! きりやんも新公のゆりちゃんもよかったよねー、名曲! いい感じでしたが燕尾服の肩が合っていなかった気がしました。がんばれ!
 麗泉里ちゃんは私は可愛い子ちゃん枠かと思っていたのですが、なんと歌えたんですねー! 「O Mio Babbino Caro」、リリカルで素敵なソプラノでした。
 続いて天紫珠李くんと結愛かれんちゃんの「君の名を呼べば」、『砂漠の黒薔薇』より。ハモり出したらきれいだったけれど、緊張していたのかちょっとつたなかったかなー。
 ぐっさんの「Paradiso」はもっとノリノリでやってもよかったと思う! でもパンチがあってよかったです。
 空城ゆうくんが『銀ちゃんの恋』より「ひとり」、これまた渋いな! これまた決して上手くないんだけれど、すごく丁寧に歌っていてハートがこもっていて、ああ好きなんだなファンなんだなって気がしました。いいことです。
 そして驚いたのが風間柚乃くんの「Where In The World」ですよ! これまた『A-EN』でのピックアップぶりが印象的でしたが、こんなに歌えるとは! 宙でもえこが歌ったけれど、個人的にはもえこより響きました。すごい!
 さらに蘭尚樹くんが「我が愛は山の彼方に」、渋い…これまたハートがこもっていていい! あと、当初変に上げられていたときよりお化粧が綺麗になって、落ち着いてきましたよね。よかよか。
 メンバー半分で「I Got Rhythm」、はーちゃんがノリノリのディーバぶり!
 そこからさくさくの「I Will Always Love You」、うーんちょっと私が期待しすぎてしまったか、もっとドカンとくるかと思っていたんだけれどそれほどでもなかった…
 続くルイセくんの「目の前の君」も、丁寧に歌っていると言うよりは探りながら歌っているようで、ああ歌の人じゃないんだな…という印象で残念。
 しかしそこからのはーちゃんの目の覚めるような「Someone Like You」の歌姫っぷり! これぞプリマドンナでしたよ、この場面だけでミュージカルになっていたもん!!
 そして畳みかけるように周旺くんが「EL VIENT」、ガンガン重なる陰コーラスにまったく負けない圧巻の歌唱!
 これで一幕トリがありちゃんって荷が重くない!?と心配していたら、かつてアサコが歌った「奇跡~大きな愛のように~」がまったく危なげないどころか上手くておおらかで素晴らしくて、なんならうっかり泣きました…! あのなんだかよくわからなかった『指針』新公はどこへやら、なんなら『FALSTAFF』のあまり冴えなかったロミオもどこへやら、素晴らしい幕の下ろし方でしたよ!!!

 二幕はもう半分のメンバーの「Apasionado!!」から。やっぱりいいよね、手拍子が楽しい!
 こちらのトップバッターは結愛かれんちゃんの「グッド・バイ・マイ・ラブ」、『Misty Station』よりってなってるけど単なる歌謡曲ですよね。ちょっとアイドル歌唱チックだったかな…
 続いて天紫くんの「One Song Glory」、宙でも聴いたけれど歌自体がちょっと難しすぎる気がしました。
 桃歌雪ちゃんは今度は「夢やぶれて」、情感たっぷりで良かったです。
 そして風間くんがまたまた『A-EN』から「Le toreador」という選曲で、これがまた朗々としていてなんなんだこの下級生は…!と震撼。
 なのにさくさくがまたまた選曲で損していて、「Fruhlingsstimmen」、こういう歌は観客がおいていかれちゃうと思うんだよねー…(><)
 そして空城くん、彩音くん、礼華くんというなかなか暴力的に美しいトリオで「愛のおののく花」、名曲だよね! パートの分担具合も美しかったです。
 さらに泉里ちゃんの「You Raise Me Up」…定番の歌ではあるんだけれど、浄化されました。
 そして蘭くんがまたまた「風雲に生きる」をぶっこむ…宙NW!でずんちゃんが歌った方がそら上手かったんだけど、なんか本人がノリノリで楽しそうなのが本当に良かったです。でもカラオケチックではない、自分に酔っているわけではない。そこがいい。
 さらにあちくんが星組版の「チュシンの星のもとに」をぶっこみ、ラストのコーラス部分まで歌うもんだから愛しいやらおもしろいやら…
 で、周旺くんがハイハイ起きますと言わせんばかりの「誰も寝てはならぬ」、陰コーラスも従えて素晴らしい。
 MCは上級生四人、なんとここにありちゃんが入るんだからホント若い! 他の生徒が歌っていて自分でも歌ってみたい歌、を語り、その子たちの練習風景も語る、いいコーナーでした。
 ラストはその上級生コーナー、ありちゃんのショーヴラン「鷹のように」は迫力あったけど、ちょっと力んでいたかなー? でもいつかやれそうな気配がありました。
 ぐっさんが『夢の浮橋』より「琴時雨」。どんな歌かすっかり忘れていたんだけど、しみじみ聴かせていい歌だなーと堪能しました。こういうのって、すごい。
 そしてはーちゃんが『パパラギ』より「心はいつも」。もう号泣。はーちゃんが上手いのは知っていたけど、こんなにも甘く優しく豊かに歌えるなんて…! 一刻も早く本公演ショーで使ってくれ!! いつまでもすーちゃんに歌わせている場合じゃないですよ!!!
 ルイセくんが「愛の旅立ち」を丁寧に歌って名曲を聴かせ、フィナーレは全員で「LOVER’S GREEN」、もうほとんど卑怯。素晴らしすぎました。

 新生月組、安泰だなあ。だからイシちゃん、博多座でショーに出るにしてもソロとかなるべく遠慮してよね、若手を使ってよね…(ToT)









宝塚歌劇月組『アーサー王伝説』

2016年11月01日 | 観劇記/タイトルあ行
 文京シビックホール、2016年10月14日15時(初日)、15日11時。
 シアター・ドラマシティ、10月30日16時半。

 その昔、ブリタニアには、「岩に突き刺さった聖剣エクスカリバーを抜いたものが王となる」という伝説があったという。魔術師のマーリン(千波華蘭)が滅亡の危機に瀕する祖国ブリタニアの救済を祈っていると、神アリアンロッド(紫乃小雪)が現われ、今再び聖剣エクスカリバーを出現させることを約束する。エクスカリバーが刺さった岩山では、剣術の試合に勝った者がエクスカリバーを引き抜く権利があると知って、少年たちが稽古に励んでいた…
 脚本・作詞・作曲/ドーヴ・アチア、潤色・演出/石田昌也、音楽監督/太田健、振付/若央りさ、AYAKO。2015年パリ初演のフレンチ・ミュージカルの日本初上演。月組新トップスター・珠城りょうのプレお披露目公演。全2幕。

 初日直後に思わず走り書きしたダメ出し感想はこちら
 DCでも変わってねーじゃねーかダーイシ!
 そりゃシビック楽からほとんど間がありませんでしたけどね? というかそもそも初日前に気づいて直しとけって話ですけどね?
 箸にも棒にも、みたいな作品にはこんなことは言わないの。愛がなくて萌えがなくてただ「ああ楽しかった」ですませられる作品に対してもこんなことは言わないの。良かったから、素晴らしい作品だから、わずかな傷がもったいなくてねちねち言うの。しかもすぐ直せそうな、事前に気づいてもよかったろう、素人が1,2回観てすぐ気づくレベルの凡ミスだから言うの。雑な神経で作品を作ってほしくないの、だから言うの! わかってください。
 この時代、この作品の世界観に「ミューズ」「リスク」という言葉の使い方はそぐわない気がするし、「ご出演申し上げたく」という敬語の誤用は許しがたいです。「愛を交わす」というのはセックスすることのよくある言い換えではあるけれど、アーサー(珠城りょう)はモーガン(美弥るりか)をグィネヴィア(愛希れいか)と間違えて抱いただけであり、そこにはそういう意味での「愛」はなかったのだからこんな言い回しをさせるべきではありません(「私は姉上と寝てしまった!」とか「私は姉上を抱いてしまった!」とかの方が、ざらりとしたインパクトを残せたと思いますよ?)。あとそのあとマーリンが「国力増強が先」とか言ってアーサーもすぐその気になっちゃうのがバカっぽすぎるのでホントなんとかしてください。「あれは魔女が見せた夢です、現実のことではなかったのです」と嘘を言い聞かせる、とかにしては?
 そうそう、アーサーにカリメルドに出兵する前にやたらガタガタ理屈言わせるのもやめてほしい。自国に難民が来るのが嫌だから立ち上がるみたいになっちゃってるじゃん、もっとさっさと、隣国の危機を救うため、正義のために少ない手勢でも駆けつける!でいいんですよ。ヒーローなんだから。
 舞台はゼロから紡がれた脚本の台詞から立ち上がります。言葉の選び方には細心の注意を払うべきです。観客に無用な引っかかり方をさせて物語や登場人物への感情移入を妨げるべきではありません。校閲を入れるか第三者に事前にざっと目を通してもらうだけでも、単純な間違いやわかりづらい独りよがりは発見してもらえ訂正できるものです。自身が天才芸術家だと言い張るというならともかく、そうでないならプロとして職人として他人の手は借りましょう。その方が単純に作品のクオリティが上がります、商売として成功する可能性が高まります。宝塚歌劇団ではどうも演出家天皇説がまかり通っているようですが、それこそ天皇に失礼です。

 DCに来て、あーさのランスロット(朝美絢)のさわやかなチャラさが増したように見えました。これはキャラクターとして正解だと思います。
 それに対して、やっぱりグィネヴィアの役作りが見えないままではあったかなー。ダーイシは「弱きもの、汝の名は女」とばかりにグィネヴィアを尻軽な浮気女にしようとしていて、そういう女は天罰を受けて発狂するのも当然だ、社会的に抹殺されて当然だ、と無意識にせよ考えていてこう作っているような気が私はしています(冤罪だったらすみません、元々のフランス版がそもそもそうだったらすみません)。でもちゃぴなら、そういう女をいじらしく可愛らしく演じてみせることはできたと思うんですよね。仕方ない、と思わせられるような。そこが、まあ私は珠城さん贔屓でアーサー王主眼で観ているからかもしれませんが、ギリギリ駄目だった気がします。ちゃぴのことも好きだし、アーサーが選んだグィネヴィアという女性のことも嫌いになりたくないから、なんとか好意的に観ようとするのだけれど、でもギリギリやっぱりアウトだったかなー、と思ってしまうのです。「もっとなんとかならなかったのか」みたいな意見も多く聞きますし。で、これはやっぱり脚本に起因すると私は思う。
 まず、ランスロットを見たグィネヴィアに安易に「素敵な殿方ね!」なんて言わせてはいけません。侍女たちはキャイキャイ言ってるけれど、そりゃ確かにちょっとハンサムかもしれないけれど、でも大事なのは中身だわ、円卓の騎士にふさわしいか、私の愛する夫の部下となるにふさわしい人物かどうかが大事なんだわ、だから私がちょっとからかって、見定めてやるわ…という流れが必要なんです。彼女の方はあくまで好奇心と茶目っ気から始まり、片やランスロットの方はキャメロットに恋と冒険と栄誉を求めてやってきたようなところがある青年だから、美しい貴婦人と出会って舞い上がってしまいあっさり恋に落ちてしまう…とならないと。だけどその後グィネヴィアの方もなんとなく彼が気になって、アーサーとの婚礼の間もちらちらと彼を盗み見てしまう…
 だからヘラヴィーサ(海乃美月)にグイネヴィアが語る恋心もちょっと直截にすぎます。この段階ではまだもうちょっとぼかしたい。彼は聖杯探しの旅に出るという、離れるのがつらい、彼の姿がもう見られなくなってしまうなんて悲しい、この気持ちは何…?くらいに納めておきたい。
 別離の場面で、ランスロットはけじめや分別を持ち出して、彼女との間に一線を引こうとしています。王妃と知らなかったとはいえ彼女に戯れかけた自分を、責めたりせずおおらかに許してくれたアーサー王に心酔しているから。彼のために身命を賭して働きたいと心底思っているから。それに対してグィネヴィアが急に彼を平手打ちしたり(ダーイシのDV祭りは今の時代において完全にアウトだと思う。すべてやめさせるべきです。唯一ギリギリ演出としてあってもいいかなと思えたのはレオデグランスがグィネヴィアを殴るくだりでしょうか。しかしそれも自身の保身も込めた男としての情けなさも出てしまうもので、せりちゃんのためにもカットしていいところだと思う)、「あなたは死ににいくと言う、それはもうふたりの罪」とかなんとか言う台詞がもう完全に意味不明なのは本当になんとかしていただきたい。だって別にランスロットはそんなことは言っていないもん。一死をもって報いたい、と言ったのはもっと前で、それはアーサーによってすでに止められているのです。
 単にグィネヴィアはランスロットの身の安全を案じてすがりつき、せめてもの友情の印に指輪を贈る、だけでも十分だったと思うのですよ…シビックでは暗転前にふたりがキスしているように見えたけれど、DCでは見つめ合っただけだったように見えました。これは正解。一線を越えるのはグィネヴィアがメリアグランス(輝月ゆうま)の手からランスロットによって助け出されたときにすべきです。そしてそれをウリエン(貴千碧)とガウェイン(紫門ゆりや)が見咎める…これはよくできた流れでした。
 「一線を越える」と言いましたが、ここでキスしたくらいで、ふたりは実は寝てはいないのではないかしらん…のちにアーサーは「妻を寝取られ」と言いますが、そんな機会は実際にはなかったというか。
 アーサーはグィネヴィアと寝ている、夫婦だから。グィネヴィアは夫婦の寝床で夫の隣に身を横たえながら、ランスロットを想って枕を涙で濡らしている…それがせつなくて萌えるんですよね。
 お互い振り切ろうとして、でも会いたくて、手紙で呼ばれれば出向いてしまう。それはとてもよくわかります、それは仕方ない。罪悪感、背徳感がなおさら恋心をつのらせてしまうこともあるのでしょう。モーガンの指輪の魔力がそれを煽っているところもある。そして現場に踏み込むのはそのモーガンです。そしてアーサーにその場を見せつけ、処分を迫る。
 ここで本当はモーガンこそがアーサーの愛を欲しているんだと私には思えました。モーガンはアーサーに復讐を誓っている、けれど簡単に殺すのではなく幸せを味わわせてから突き落とす、だのなんだのメリアグランスに言っていますが、それは本当はむしろ愛情の証しなんですよね。
 彼女は姉として赤ん坊のアーサーを本当に愛し親身に世話を焼いていたのでしょう。それが奪われて悲しくて、家族が崩壊してショックで、取り返したくて執着している。冥界と契約し魔女となってでも取り返したい幸せ、その執心。それはもうほとんど愛なのです。彼女はアーサーの愛を取り戻したいのです、アーサーに愛されたいのです。妻は去り部下は離反する、あなたのそばに永遠に変わらずずっといてあげるのは私だけよ、だって私はあなたの家族だもの、姉だもの…と言いたいのです。萌える!
 モーガンは自分に宿っている「物語の続き」を予告して退場しますが、生まれた子供に愛情を注ぐことで報われ癒され、恨みを忘れ幸せになれるといいな…と願わないではいられません。
 アーサーは罠にかかり、しかしエクスカリバーを自ら振るって迷いを断ち切り、ランスロットとグィネヴィアを許します。神は人間に幸福を与えるのではなく試練を与える。人間はその試練に耐えて心を鍛え、強くなり、いつしか自らの手で幸福をつかみ取れるようになる。聖剣は持つ者に幸福を与えない、むしろ権力とそれに付随する孤独を与える。そして持つ者の心の平穏と真理を反映する。ただ兄を想う清らかな心で剣を抜いた少年は、幾多の試練ののちに剣の真の主となり、国と民のため孤独に耐えて生きようと決心する。その未来にはきっと幸福が待っている…そんなことが信じられる、美しい物語の終わり方なのでした。
 いい話です、よくできている。当て書きみたいで素晴らしい、それが石田先生の翻案なら本当に褒め称えたい。だからこそ小さな傷をひとつずつ潰していただきたかったのですよ…!

 そしてフィナーレ、デュエダンの前のちゃぴのソロの歌詞はだから「♪王でも王妃でもないふたり」と言い換えてほしかったです。元の歌のまま「騎士でも王妃でもないふたり」と歌ってしまったらそれはランスロットとグィネヴィアのことになってしまう。でもこのデュエダンはアーサーとグィネヴィアの本来あったであろう幸福な未来の、その中の人の、新トップコンビの幸福を踊るものなのです。神経を使ってほしかった。
 あと、すごくいいデュエダンなだけに、リフトがないのは私は寂しかったけれどなー。いかにもありそうなところでちゃぴがただくるくる回るだけなのが、みりかのとかえりあゆとかがリフトしたくてもできなくてごまかしていたときの振りそっくりで、ちょっとしょんぼりでした。
 男役群舞もお衣装が新調でなかったのは残念だったけれど、振りは超絶カッコいいので満足です。ちゃぴわかばうみのキャンディーズ(笑)も、ちゃぴのお衣装の飾りはもっと増やしてあげてくださいよもう在歴四年の大トップ娘役さまなんですよ!?と思いましたがまあ目をつぶります。
 いいプレお披露目でした、今の新生月組の船出にふさわしく、素晴らしい。楽曲もいい。早くDVDで何度も見返したいなー、ちゃんと発売してくださいね。

 また組子がみんな適材適所で大活躍なのが素晴らしい。
 モーガンはみやちゃんでないとちょっとできないと思うし、これを「娘役の役を取るな」みたく言う人はまずいないと思います。アルトワ伯なんかの経験もあってのことだと思うけれど、本当にいい役だし当たり役だと思いました。そして満を持しての初単独主演決定、東上つき、素晴らしいことです。「だが原田」だけが心配ですが、楽しみです。間の『グラホ』は男役同士として珠城さんとがっつり組みますね、これも楽しみ!
 まゆぽんがまた素晴らしい、この役も他の生徒ではちょっとできない。歌も本当に素晴らしい。劇団は将来、彼女に新公主演をさせておかなかったことを絶対に後悔すると思います。ただの仇役役者じゃないんですよ、真ん中力もある人なんですよ。メリアグランスは彼なりにグィネヴィアを愛していた、アーサーにいろんなものを理不尽に奪い取られたと考えていた、そのせつなさ、悲しい歪みを観客は確かに愛しましたよ。それはただの悪役にはできないことなんです。こう感じさせたまゆぽんの力量あってのことなのです。
 それで言うとランスロットはとりあえず二枚目であればいいようなところもあるから、ある程度の若手スターなら誰でも上手く演じられるのかもしれません。たとえば今度組替えしてくるれいこだったら、とか考えるとあわわわしつつもちょっと楽しかったりしますけれどね。でも私はあーさは『Bandito』が忘れがたい。あれもものすごくいい役で難しい役だったと思っていますし、今度の雪組への異動は大きなチャンスになると思っています。羽ばたいてほしいな。
 そしてまんちゃん、ゆりちゃんの助さん格さん感がまたたまらなくてねえ…いいコンビだしいい対照だったし、ゆりちゃんが本当に素敵でした。
 そしてそしてやすね! 彼女ができる子なのは組ファンはみんな知っていたろうけれど、ダーイシが起用してくるとは思わなかったので仰天でしたね。でもこれでもう誰も「佳城葵って誰?」とか言わなくなったんじゃないかなあ、素晴らしかったです。
 新副組長のせりちゃんがまた、いい父親いいオヤジをやるようになっていてこちらも素晴らしい。からんちゃんか素晴らしいのはもちろん、にこりともしないわかばが美しいしブリブリのくらげがまた素晴らしい。いいよいいよ、こういう仕事をしていくべきだと思うよー。
 ちゃぴはもうなんでもできるプリマドンナになっているので、安心感安定感が絶大です。そしてまだまだ新鮮で愛らしい。もっとしょうもない役に見えかねなかったところをギリギリなんとかしているように見えました。珠城さんとの映りもいいし、新トップコンビの今後が本当に楽しみです。
 そして珠城さん、本当にぴったりなお役で、作品運の強さを思わないではいられません。イヤ運も実力のうちだし、作品を自分色に染める強さがあるってことなんでしょうけれどね。
 そして本当の珠城さんはアーサー王よりももっとずっとお茶目で甘えたなところもあって、下級生に対してお兄さんぶる部分もあるんだけれど実はけっこう抜けていてそういうところを愛され慕われていて、上級生たちも可愛がり支え従い盛り立てそして自分たちも輝こうとしている、そんな新しい組になっていっているとファンはみんな知っています。大丈夫、孤独じゃないよ。がんばってるのも大変なのも知ってるよ、でもみんながついてるからね。肩肘はらずに、自由に、なんでも、やってみるといいですよ。楽しみしかありません。期待しています。
 『長崎しぐれ坂』は私は未見なのですが、その次はアタマ悪い感じのベタ甘のラブコメとかも観てみたいし、うっわ似合わなさそうどうするの!?みたいな役や作品も観てみたいです。幅広くいろいろ演じてみせてくれるといいなあ、そしてファンを増やし世界を広げてくれるといいなあ。若いってことはそれだけ可能性があるってことです。何度でも言いますが、期待しています。
 タカスペのトップスター最下級生っぷりが生で観たい! チケットの神様に祈って待ちたいと思います。