駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

吉田修一『怒り』(中公文庫)全2巻

2016年10月20日 | 乱読記/書名あ行
 若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。犯人は山神一也、27歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航していた。そして事件から一年後の夏、房総の港町で働く槙洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母親と暮らす小宮山泉の前に、身元不明の三人の男が現われた…

 先に映画を観ました。予告などで豪華キャストだなと思って気になっていましたし、妻夫木くんと綾野剛の絡みがあるみたいだし。そのわりにはあまり騒がれていないな、観に行った人の感想とかがタイムラインに流れてこないな?と思っていました。
 観たらわかりました。ブッキーと綾野剛のBLなんか以上に広瀬すずの強姦場面がえぐかったからです。BLに騒ぐのが女子ならこのくだりに閉口するのも女子でしょう。セットだから人に勧めたりしづらくて口をつぐむのでしょう。
 そして映画自体はとても淡々としていました。役者はそれぞれ熱演というか好演していたと思うのですが、とにかく全体としてはわざと大仰にしたりドラマチックに演出したりすることはあえて避けているような、でもやはり映像的に凝った描写やこだわりなんかは随所に感じられるような、繊細なんだか大雑把なんだかよくわからない仕上がりな気がしました。ざらりとしたものも感じるけれど、振り切っていないような。
 それで、原作小説を読んでみました。
 後半を除けば映画は原作にかなり忠実に映像化していたんだな、と驚きました。特に台詞がほぼまんまで、私はこれは文学の台詞としてどうなのよ、と思いましたけれどね…
 キャラクターやエピソードも、映画では省略している部分もありますが、映画が誇張したようなところはほぼないんですね。
 でも、広瀬すずが演じた泉の強姦場面は、小説ではありませんでした。書かれていないというか、描写が途中で切り上げられているというか。あとから泉が刑事に説明するくだりでの地の文でも「暴行されかかった」という表現になっています。泉と母親、医者などのくだりからすると小説でも未遂なわきゃなかろうという感じがするのですが、とにかくぼかされているというか、ひよっていました。
 だからこそ映画のあの描写のえぐさがより印象的になりました。そりゃ日本の映画ですから、ポルノじゃありませんから、ダイレクトに映っているわけではありません。でもわかる、というかわかるようなカメラワークだったりなんたりするわけです。
 映画では、彼らが米兵かどうかはわかりませんでした。何なら人種もよくわかりませんでした。とにかく外国人の、ガタイのいい若者ふたりが、泉をとっ捕まえて引き倒し、ひとりが口をふさいで腕ごと抱え込んで背中に乗っかり、もうひとりが彼女の両足を広げてその間に自分の体を入れ、スカートをまくり上げて下着を引き剥がす様子がはっきりと窺えます。泉は泣き叫びますが声はほとんど漏れ聞こえないし、のしかかられ押さえつけられてまったく身動きできないのがよくわかります。
 醜悪なのが、泉を犯しているのであろう男の後頭部とか肩、背中の上部の大写しのカットが何回かあることで、こういうカメラワークって普通、そこに振り下ろされるバットとか角材とか殴りつけられる拳とか、要するにそういう助けの手が飛び込んでくることを予想させるものなんですよ。だけどそれはないの。監督はわかっていてそういうカットを重ねているんだと思うのです。それが本当にひどいと思うし、観ていてつらい。
 もちろん実際にこういう事件は沖縄だけでなくともたくさん起きているんだし、現実の醜悪さはこの映画で描かれるものの比ではないのだろうけれど、とにかく映画なので目の前で展開されていて目をつぶりたくてもつぶれないんですよ。つぶるべきではないと言いたくてこう描いているのでしょうが、しかし。
 辰哉が行動に出るに至る経緯とか、終盤はけっこう映画と小説では違っていて、小説の方がきれいにまとめている印象でした。エピローグがちゃんとあるというか。でも映画を観たあとからするときれいすぎて嘘っぽい気がしました。何よりタイトルにそぐわない気がしました。
 映画はもっとやりっぱなしなのです。つまりそれだけ「怒り」というものを描くことにシフトした作りだったのではなかろうか、と思います。そこに監督の意思を感じました。やるせない、行き場のない、どうしようもない怒りという感情そのものを表現すること。そこに映像化の意義をおいていたのかな、と思いました。
 でもではそれがよかったのかどうなのかと言えば、私個人は「別に…」としか言いようがないかな、とも思いました。そういうことって現実にいくらでもあることなので、フィクションではもう少し違うものを見たい、と考えているからなのかもしれません。
 それにしても人が人を愛するときに、出自を知ることはやはりそんなにも大きいことなのでしょうかね…何も知らずただツイからなんとなく友達になることが多い今、どうもぴんと来ないような、それでもやはりわかるような…ううーむ。
 私は舞台ほどには映画を観ませんが、話題のものでは『ズートピア』『シンゴジラ』『君の名は。』『怒り』と観てきて、前二者が圧倒的に好きです。
 吉田修一作品は実は他にあまり数を読んでいないので、機械があればまた読んでみて考えたいです。

(追記※ところで私はコンドームの袋を歯で噛んで咥えて片手で引きちぎって開ける人を初めて見ました…そんなの少女漫画とかBL漫画のファンタジー表現かと思っていましたよ。両手使って普通に開けないんだ、まあちょっと普通の状況じゃなかったかもしれないけど…と、そんなことに震撼しました。こんな行為、女の、もっと言えば処女の妄想かと思っていたんですけど、普通に男性たちが演じて男性たちが撮影し編集してるんだから彼らにとってリアルってことなの…?)




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『アーサー王伝説』現時点でのダメ出し感想走り書き&プチ珠城日記

2016年10月15日 | 観劇記/タイトルあ行
 月組新トップスター・珠城さんのプレお披露目となる『アーサー王伝説』、文京シビックホール公演初日と二回目を観劇してきました。
 いやあ、お披露目っていいですね! 開演アナウンスに切る勢いで拍手しちゃいましたし、フィナーレやカテコは号泣しました。
 音楽はかなり『1789』みがあると私には感じられて、同じ組での近すぎる上演という意味では難があったかもしれない…と思いつつ、当て書きかと思わせるような、今の珠城さんに似合った演目には仕上がっていたと思うので、これもひとつの巡り合わせだし財産だし、よかったのかなとも思っています。
 てか初日はややとまどいがあったものの二回目は名作じゃね?とか思ってしまうチョロさ(笑)。
 だがもちろん言いたいことはいろいろイロイロあるのである! 私はあとはもうDCで一回観るだけなので、現時点での思いの丈をネタバレ全開、かつ観た方にしかわからないであろう覚え書き状態で書き付けておきます。ご覧になっていない方は、観劇後に読んでいただければと思います。
 また、この先演出が修正されることや、単なる私の勘違い・思い込みなんかも多いかもしれません。毎度のことですがご容赦くださいませ。

●小雪アリアンロッドの出落ち感は問題ではあるまいか。
 だって『アリスの恋人』でゆめちゃん演じる赤の女王が着ていたお衣装なんですよ。ロリータな服着た一見幼女が実は邪悪で強大な力を持った残忍な神…って、まんまじゃないですか。そりゃ目新しいものではないかもしれないけれど、こんな近くで、人が作ったイメージに乗っかるってクリエイターとして最低じゃないのダーイシ? 知らないでやっていたんなら単なる不勉強だし、ちょっとあきれました。知らない人にはわからないかもしれない、でも普通に観てたらわかるんだよ少なくともここ数年ほぼ全演目観ている私にはわかった、だからイヤなんです。
 ただ、小雪ちゃんの起用法としては実に正しいとも私は思いました。私は彼女は可愛いんだけどなかなか芝居が上手くならないなあと見ていて(すみません。でもどうにも一本調子なんだよね)、『NOBUNAGA』新公ヒロインも出来としてはあまり感心しなかったので、でもこのまま埋もれさせていってしまうのももったいないだろうしなあ…とか考えていて、なのでこの配役はよかったなと思ったのです。事前に情報がなかったから素直に驚いたし、一本調子なのが浮き世離れした神様にちゃんと見えるおもしろいキャラクターになっていて、本人も健闘していて感動しました。だからこそ、このお衣装の安易な着回し、イメージ被りにげんなりしました…
 あと、ここでからんちゃんマーリンと交わすウーサー王に関する説明は、やるならもっと短く明晰に展開してもらいたいし、なんならいらないと思いました。少なくとも歌で聞かせるのはつらい。思わせぶりにうだうだ語らせても観客の耳には滑るだけだし。ウーサーが家臣の妻に手を出した、ということはわかるものの、そこに生まれた子供がアーサーだとは明言されていません。でもその設定を事前に知っている人には当然類推できるし、そうでない人にはなんのことやら?ウーサーって誰?ですよ。中途半端すぎます。ウーサー王が死んで世の中が混乱しているのでマーリンが神に助けを求めた、だけでもいいのでは?
 アーサーがこの父親の不義によって生まれた子である、というのは、あとでみやちゃんモーガンがわかばくらげの小悪魔姉妹に語ったり披露宴の余興で見せる芝居のくだりで説明することにしてもいいのではないかしらん? というのも、冒頭で明かしてしまうと、その後観客は自分たちが知っている事実を知らないで悩む主人公アーサーを見せられることになり、彼に感情移入しづらくなるからです。だって彼と同じ立ち位置にいないわけですからね。なんならアーサーが間抜けに見えちゃう危険すらある。それは避けたい事態です。観客は主人公とともに謎が明かされていくのを体験する、という形になるのがベストなのです。

●さて、子役演じるアーサーたちの少年時代場面ですが、聖剣エクスカリバーを岩から抜けるのは清らかで純粋な心を持った伝説の勇者のみ、みたいないわれがあって、少年たちはそれを目指して剣の稽古に励んでいるんですよね?
 だけどならなんで、ケイとメリアグランスが試合しているスキにアーサーが勝手にひっこぬいちゃうの? それじゃダメだろう! みんなが試合に注目している間にズルしたみたいになっちゃってるじゃん!
 そうじゃないでしょ? メリアグランスは試合中にケイに砂を投げつけて目をつぶす卑怯な真似をした、ケイはピンチに陥る、岩のそばで試合を見守っていたアーサーはメリアグランスの行為に怒り兄を救おうと、思わず近くにあった剣に手を伸ばした。それがエクスカリバーで、剣は岩から難なく抜けた、アーサーの兄を救いたいと思い正義を求める心が聖剣を抜かせたのだ、アーサーこそ王となるべき勇者だ、そしてみんながひざまずく…って流れにしなきゃダメだろう!!!
 あと、子役がセリ下がるのと同時に入れ違いで珠城さん登場!なんだけど、大劇場と違ってピンスポの数や精度に限界があるのかもしれませんが、拍手が入れやすいよう最大限の気遣いをしていただきたい。うつむいたままセリ上がって正面向いたら照明当たって拍手!とか、背中見せてセリ上がって振り返ったら照明当たって拍手!とか、なんでもいいんですよ。微妙なライトの中微妙に前向いてゆるゆるセリ上がられても、みんな席によって珠城さんの顔の見え方が違うし、このあともう一段階強いライトが当たったら拍手なの?って遠慮したりして、タイミングに迷っちゃうでしょ。観客を惑わせたらあかん!
 他の舞台ならどうでもいいことかもしれません。でも宝塚歌劇は芝居の中身を観ること以上にスターを見ることが重要だったりしてしまうジャンルなのです。ましてトップスター就任プレお披露目公演の一発目の登場シーンなんだから、バラバラッとした拍手じゃダメなんです。
 というか宝塚歌劇は観客の拍手や手拍子が立派に演出として機能しているようなところすらあるじゃん。どんな舞台も観客なしでは成立しないけれど、ことに宝塚歌劇はそうじゃん。どんな下級生の下手な演技も温かく見守る視線あってこそ生徒も育つんじゃん。ダーイシもういい加減ベテランだろう、座付き作家としてちゃんとしてください!!!

●アーサーがエクスカリバーに頓着していないのはとてもいい。
 というか、彼にしてみたらたまたま抜けただけの剣で他のただの鉄でできた剣と同じだし、ただそれだけでみんなにひざまずかれ王として持ち上げられキャメロットという城まで持たされてちょっと居心地悪い、みたいなことはもっとちゃんと出しておくといいと思いました。がんばるし、できる、だから統治する、でも君臨はしない。だって実は自分に自信がないから。父も知らず(なら母のことは知っているのか?となっちゃうだろうダーイシ! 後述。)、捨て子で、肉親の愛を知らない。自分がどこの誰だかわからない…そんな不安が、仲間といても彼を常に孤独にする…
 彼は自分自身を信じられないのと同様にエクスカリバーを信じていない、とした方が、最後の最後にそのエクスカリバーでグィネヴィアとランスロットの戒めを断つ展開が生きると思うんですよね。やっとアーサーがエクスカリバーの正しい使い方を理解した、その瞬間こそが真の王の誕生の瞬間だったのである…みたいな、ね。
 なのでそれ以前の問題として、アーサーが自分自身のことをどう考えていたのかはもっと明確にしておく必要があります。捨て子、と言われているけれどヤスのケイがいて、腹違いの兄だという。ではケイの家の養子なの? ケイの父には身に覚えがあったということなの? その後、ウーサーの命令でマーリンがモーガンの母から赤子のアーサーを奪ったようなことが語られるけれど、なのにマーリンはアーサーをケイの家の門前に捨てたってことなの? それは何故? 出自に悩むアーサーに何故マーリンは真実を告げないの? 今までも告げなかったの? 何も言わずただつかず離れず成長を見守っていただけなの? それは何故?
 このあたりがザルすぎます。主人公のポジションが明快でないと観客は感情移入しづらいんだよ、そういう事態にしないようにするのは作家の基本のキだよダーイシ!

●さてその後、アーサーとグィネヴィアはいわゆるダブル不倫をやらかしてしまうワケですが、アーサーの方はまあ仕方ないと思えるんですよね。魔法でグィネヴィアに化けたモーガンに誘われてだまされるワケですから。お式の前にいけないわ王様ったら!というのはあるにせよ。
 ただ、モーガンとアーサーは母親が同じの異父姉弟なので、立派な近親相姦なんですよね。モーガン、身ごもっちゃうし。魔女だから人間外としてノーカン、ってワケにはいかなくない?
 さすが王様、必中ね!とか魔女ともなればその場で着床がわかるんかい!とかそもそもさっきのゴロゴロはただの愛撫や前戯の表現ではなく挿入・射精までもうしちゃってたんですね早!とかはさておくとして(すみません)、近親相姦ってのはスミレコード云々とは別レベルで微妙かつ重大な問題なので、『ドン・ジュアン』のDCでの変更よろしく今回もなんかあったりするのかな?とちょっと心配なような、その方がいいような…?
 ラストでモーガンがお腹の子をタテに「このままでは終わらない、まだ続きがある!」みたいにひっこむのって、たとえば下級生トップスターに対する二番手上級生の含みも感じられなくもなかったりするし、別に続編を望んでいるわけではないからTo Be Continued感はなくてもいいんだけどモーガン的には破滅して終了、とかではなくてちょっとよかったかなとか思ったので、このエピソード自体をなくしちゃうのはちょっと…とも思うのだけれど、未遂で済ませても成立するだけに、気にかかりました。
 あと、その後もアーサーがモーガンに対してナチュラルすぎるのはフォローがいると思う。マーリンがあれは幻だったと思いこませる、とかさ。今はとりあえず国力増強!じゃねーだろう。現状、家庭の不和からとりあえず目を背けるために仕事に没頭したおとーさんが、そのままホントに不和の原因が自分にあったことを調子よく忘れてる、みたいになっちゃってるじゃん。珠城さんをカッコ悪く見せるのやめてよねダーイシ!

 そしてグィネヴィアとランスロット側の浮気というか恋、ですが…うーん、こちらも、未遂で済ませても成立した気がしたなー。なんか珠城さんに、というか女性であるタカラジェンヌに「寝取られた」って言わせたいだけなんじゃねーのダーイシ?って気がしました。
 私は、モーガンが魔法でふたりを出会わせ恋に落とさせ…みたいな形になるのかな、と想像していたのですよ。でもモーガンが指輪や手紙の姦計を巡らせるのはけっこうあとで、ふたりはあくまで自然に出会い自然に恋に落ちちゃってますよね。というかグィネヴィアの方が「素敵な殿方ね!」なんて言っちゃって、かなり積極的に接近しています。嫁入り直前の身だというのに、これでいいの?
 恋愛ものにおいて、ヒロインの処女性というかフィデリティってけっこうタイトに求められがちなものだと思うんですよね。そこに抵触して、結果的に中の人であるちゃぴが悪く見える事態は避けてほしいわけですよ。
 イヤ実はちゃぴグィネヴィアってアーサーに近づくときもけっこう最初っから積極的だし、だから若干恋に恋するところがある浮かれたイマドキの女の子、ビッチぎりぎりの腰の据わらないでも実はいたってフツーの女子、って作りもあるような気はするんですよね。で、それはそれでホントは女性の理想的な生き方のひとつだったりするところもあると思うので、そういう新しいヒロイン像をつきつめるって手もあるとは思うのです。でもダーイシにそれが書けるとは思えないし、ちゃぴにやりきれるかというとかなり危ない綱渡りだと思う。
 そして宝塚歌劇は男役偏重、トップスター至上主義という意味で、現代では奇異なくらい男尊女卑な世界なワケですよ、だからそんな新しいヒロイン像が観客に受け入れられるかというとけっこう難しい気がします。というかそういうのはよそで観るから、タカラヅカはクラシカルであってほしい、というような要請の空気があると思うんですよね。
 だから、未遂にすればよかった。キスくらいでよかった。命を助けてもらって感極まって抱きついちゃったりキスしちゃったリするくらいは仕方ないじゃん、それをガウェインやウリエンに目撃され誤解されても仕方ないじゃん。でも不義、姦通の事実はなかった、とした方がよかったのではないかと私は思いました。まあ、どこからが浮気かなんて線引きは不可能なんですけれどね。
 ランスロットは王への忠義を選択して聖杯探しの旅に出ることで、グィネヴィアから距離を取ろうとしています。なのにすがりつくグィネヴィアの台詞が意味不明瞭なのが脚本としてかなり痛い。あなたが死のうとするなんて、それはふたりの罪、みたいなことを言わされちゃってるんだけど、あーさランスロットはそのときはそんな話してませんよ? 昼ドラみたいなメロドラマにだって理屈は必要なんだよダーイシ!
 グィネヴィアはアーサーのこともちゃんと愛していたのか、それとも実は尊敬していただけだったのか、彼に対して罪悪感を感じていたのか、自分としては自分の思いを留めようとしていたのか、もうちょっと丁寧に描いてほしかったです。
 それでもグイネヴィアを信じようとするアーサーの愚直さは、珠城さんのニンです。ホント上手い、似合う、泣かせる。監修グッズのモチーフは大型犬ですが、そら雨に濡れた子犬もかくやですよ。寂しいと歌う彼を抱きしめてやりたくならない観客がいようか? いやない(反語)。
 そうかと思えば「君は幸せかい?」なんて聞いちゃって、出生の秘密がわかっても自分に自信がないままで、自分が彼女を幸せにできているか不安で、はいと答えてもらいたくてすがりつくように聞いてしまう。『激情』でエスカミリオのことを「そんなにいい男か」と言ったりアメリカに行こうとか言ったりしたホセに通じる、珠城さんの愛ゆえの重さ、弱さ、せつなさがたまりません。
 だから彼の選択は、全部許すこと。愛する人を自分の手で幸せにできないのなら、それが妻であろうと別の男に託す。世に笑われようとその不名誉は甘んじて引き受ける。そもそも自分が父親の不義で生まれた子供であり、はからずも姉を苦しめてしまった過去がある、だから妻の不義をも受け入れる、しょっぱいことは全部飲み込んで引き受けて、背負い込み、その上で前を向いて進んで行く。もう迷わない、どちらが前かはわかっている。
 というか彼が向いた方向が前なんだよ、それが真の王者たるものなんですよ。こうして新生月組は誕生するのですよ…!
 もちろん珠城さんの相手役はちゃぴだしちゃぴはこれでサヨナラとかではなくしばらくはいてくれますよ、でもたとえお披露目作品であろうとヒロインとラブラブハッピーエンドという展開ばかりではないことはメロドラマではごくありがちなことです(最近だとみちふうプレお披露目『大海賊』だってヒロインが死に主人公が再出発するラストでした)。だから別に仕方ないと思うんですよね。
 そしてグィネヴィア自身の顛末としては…気がふれてしまうことになるのですが、死への恐怖からではないですよね? それ以前に自ら死を受け入れますと宣言していますものね。だから夫を裏切りランスロットを愛してしまった自責の念、国を混乱に陥らせ民を不安にさせた、王妃として婦女子の模範となるべき生き方をできなかった、恋の前に自制が利かなかったことを悔やみ自分を責めるあまりに、ついに心を壊した…んですよね? そう見える流れがもう少し、欲しかったです。
 ここでアーサーがランスロットに言う言葉は、フラれた男が腹いせに病人の介護を押し付けるようなものでは全然ないのでした。彼が結婚すると言ったら共白髪まで添い遂げること、老老介護して見取り合うことを意味していたに決まっているのです、最初っから。彼はそういうふうに結婚を考えていたのです、そういうふうに妻を愛していたのです。でも妻の心は自分にはない、だからランスロットに託した、だからランスロットにも彼女の面倒を最後まで見ることを求めた。それだけのことであり、かつそれだけの信頼なのです。グィネヴィアを抱き寄せる表情といい、号泣したなあ…ホント誠実な男ですよ、結婚して珠城さん!!!(女性です)
 しかし実は意地悪な私がここで密かに引っかかっているのは、ダーイシって浮気するような女には天罰が下って当然とか考えてグィネヴィアを発狂させたんじゃねーだろうな、ってことです。冤罪だったらホントにすみません、でも私はこの脚本家をまったく信用していませんし、この人の作品に通奏低音のようにあるミソジニーを本当に嫌っているので、そうだったりしたらホントやだホント許さない、とだけは言っておきたいです。

 ともあれ、「怖れられる王でなく、愛される王」目指して、半分ではありますが新生月組が船出しました。もう半分のバウ公演も楽しみです。そして来年元旦初日のお披露目本公演が本当に楽しみです。
 珠城さんの、というか今の月組の布陣のショーが特に楽しみ! 今回もフィナーレがとてもよかったです。観たい場面観たい踊り聴きたい歌がたくさんありますよ、見たいスターがたくさんいますよ!
 珠城さんは大丈夫、全然まったく問題ない。楽しみしかありません。今までと変わらず、ひとつひとつ確実に、楽しんで、ものにして。大きな花火が打ちあがる気配はもう十分にあります。花火の月組、楽しみです!!!








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『キンキーブーツ』

2016年10月09日 | 観劇記/タイトルか行
 シアターオーブ、2016年10月5日18時半(初日)。

 イギリス中東部の田舎町ノーサンプトン。老舗の靴工場「プライス&サン」では社長のプライス氏(トム・スラーダ)が幼い息子チャーリー(この日はハリソン・ライト)に靴の美しさを語っていた。しかし大人になったチャーリー(アダム・カプラン)は家業を継がず、フィアンセのニコラ(カリッサ・ホグラント)とロンドンへ。その矢先にプライス氏が亡くなり、次期社長として帰郷したチャーリーの前には大量の返品と契約キャンセルが…
 脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン、音楽・作詞/シンディ・ローパー、演出・振付/ジェリー・ミッチェル。実話を基にした2005年の英米合作映画を原作に13年ブロードウェイ初演。トニー賞受賞。先日日本版も初演された、USナショナルツアー版。全2幕。
 
 映画は未見で、日本版を観たいなと思っていたのですがチケットを取りはぐれ、どこかから回ってくるだろうと高をくくっていたら大人気で玉砕していたところ、来日版の初日チケットが振ってきたので出かけてきました。楽しかったー!
 私は字幕は苦手なのですが、そんなにバリバリ踊るミュージカルではなく、歌がメインの印象だったので、それほど気になりませんでした。でも日本版は芝居をもうちょっとこまかくつけていたんだったらいいな、とは思いました。
 ベッタベタなんだけど普遍的なメッセージがあって、いい作品ですね。女性観客としては「父と息子」の物語にはそれほどピンとは来ませんが、「母と娘」の物語とはまた違った鬱屈があることは十分に想像がつくので、泣かされました。
 あと、なんの小説だったかな、「女が望んでいることは何を望んでいるのか尋ねられること」というような台詞だか文章だかがあって、至言だなと私はずっと思っていたのですが、そういうくだりもありましたね。「What a Woman Wants」。男は女を対等に見ないから、女に問うことすらせずに一方的に決めつけてくる。望みは叶えられなくてもいいの、でも何が望みなのかをまず尋ねてほしいの、勝手に決めつけないでほしいの、何かを望んでいる独立した存在だと認識してほしいの。まだ、まずそこからなんだよね、21世紀になってもね…
 ドン(アーロン・ウォルポール)のキャラクターとエピソードは類型的だけれど、一見リベラルに見えた主人公チャーリーにだって偏見はあって…という展開も、残念ですがやはりよくわかります。女性というマイノリティとして(数だけなら男と同じだけいるのだが)マイノリティ差別に敏感で理解があるつもりの私たちもまた、きっと同じようなことをして他のマイノリティを傷つけることがあるでしょう。それをなるべく減らしたい、傷つけたら謝って正したい。愛で世界を変えたい、自分を変えたい…「You Change the Worlo When You change Your Mind!」
 ラストに、ニコラもシニアもジュニアも、みんなが再登場して一緒に踊る構成なのがすごくよかったです。宝塚歌劇ばかり観ていると、普通の舞台に男性がいること、というか美男美女ばかりでない物語に仰天するのだけれど、多様性を認めていくってこういうことですしね。ニコラはすらりと長身のスレンダー美女だけどいわゆる仇役になり、真のヒロインのローレン(ティファニー・エンゲン)がちょっとぽっちゃりさん、というのがホントはとてもいいんですよね。
 そしてなんと言ってもローラ゜(J.ハリソン・ジー)の華とインパクト! ものすごい長身で男装姿はとてもスマート、でもやっぱり赤いドレスとヒールがお似合い。すばらしい! 私は彼女が(ドラァグクイーンなだけであってゲイではないかもしれないし性自認が何かはわからないからこの代名詞が正しいかわかりませんが。というかこういうときに性別の無意味さを痛感しますよね)出身地と本名を名乗るくだりに爆泣きしました。もともと呼称フェチなので誰が誰をどう呼ぶかにうるさいんだけど、それで言ったら一人称とか名乗りってのは一番大きな問題ですからね。
 スタッフ陣は大好きな『トーチソング・トリロジー』やとてもおもしろかった『フル・モンティ』のメンバーなのですね、さもありなん。たくさんの人に観てもらえて、愛される作品に育ちますように。そして世界が少しでも優しく美しく変わりますように、願わないではいられません。



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ジェイン・ロジャーズ『世界を変える日に』(ハヤカワ文庫SF)

2016年10月06日 | 乱読記/書名さ行
 バイオテロのため、子供が生まれなくなる疫病に世界中が感染してしまった。このままではいずれ人類は絶滅する。科学の横暴を訴えて暴動に走る者、宗教にすがる者…十六歳のジェシーは慣れ親しんだ世界の崩壊を目撃する。彼女の父親ら研究者は治療薬開発に取り組むが、かろうじて見出されたワクチンには大きな問題があった。それを知った彼女が下した決断とは…アーサー・C・クラーク賞受賞作。

 すごくタイムリーなネタだなと思いましたし、クラーク賞受賞作ということで期待して読んだのですが、肩すかしだったかな…先日感想を書いた『AWAY』に印象が近いかもしれません。今日的すぎる問題を描ききれていない感じがする点とか、ティーンエイジャーのヒロインが好感度高く描けていない点とか。
 全人類が奇病に罹患し、けれど妊婦だけが発病し、致死率100パーセントになる。だから全世界で女性は妊娠しようとしなくなり、子供はあっという間に生まれなくなり、社会に閉塞感が漂う。病気の原因はなんなのか、治療薬はあるのか、いろいろと議論されたり研究が進められたりする一方で、ウーマンリブだのエコ活動だのテロだのが横行するようになる…そのとき、少女は何をどう選択するのか? それは正しいのか? それをどう描くのか?
 すごくおもしろい題材だと思ったのですが、中途半端で放り出したようにしか終わっていないと思いました。残念です。
 ただ、実際にこんなような事態になったとして、今の地球文明社会がどんなことになるかなと思うと、なかなかに怖ろしいです。私は思春期に50年代アメリカ黄金期SFをたくさん読んでSF者になったようなところがあるので、人類なんていずれ滅びる、というか滅びなかった社会も文明も種族も未だかつてない、すべてのものがいずれ滅びる、爛熟し退廃し進化の行き着く先までいったらあとは停滞し後退し落ちるだけなのはあたりまえ、たとえそうでなかったとしてもいずれは太陽が膨張して地球も飲み込んで恒星としての死を迎えるのだから…というビジョンというか死生観?が自分の中に根づいてしまっているので、そりゃ抵抗することとか努力することとかも大事だけれど、無駄なことするよりは残りの日々を大事に暮らして静かに滅んでいった方がいいと思うよ、と言いたい、というところがあるのでした。
 だから、そうでないというのならどんなドラマがあり展望がありオチがありどんな物語になるのか…それを、読ませてもらいたかったんだけれど、なあ…残念。



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荻原浩『金魚姫』(角川書店)

2016年10月01日 | 乱読記/書名か行
 ブラック企業、失恋と人生の窮地に立たされた僕と金魚の化身との、奇妙な同居生活が始まった…

 これまたなんかすごくベタなんだけれど、違うタイプのお話を勝手に予想していて、意外に思いながら楽しく読んでしまいました。普通だったらもっとイライラしながら読んだだろうけどな…
 でも、復讐は何も生まない、愛した者を殺した相手を殺し返しても愛した者は帰らない、どこかであきらめて忘れるしかない…という、悲しいメッセージがある気がして、響きました。リュウは何代にも渡る復讐に疲れて徐々に記憶をなくし、だから仇の子孫を愛してしまい、それでやっと解放されたんだろうな…というような。センチメンタルすぎるかもしれませんが。
 リリカルな、いいタイトルですよね。旅情もあるし、ものすごい深みのある文芸大作、とかではないだけに、すぐさま映像化されそうだなとかも思ったりしました。


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