駒子の備忘録

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『ラブ・ネバー・ダイ』

2014年04月05日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日生劇場、2014年4月2日マチネ。

 パリ・オペラ座から姿を消して10年、ファントム(この日は鹿賀丈史、市村正親とダブルキャスト)はニューヨークのコニー・アイランド一帯の経営者として財をなしていた。彼を支えたのはオペラ座の元教師マダム・ジリー(この日は鳳蘭、香寿たつきとダブルキャスト)とその娘で踊り子のメグ(この日は彩吹真央、笹本玲奈とダブルキャスト)だった。一方、ラウル(この日は橘慶太、田代万里生とダブルキャスト)と結婚したクリスティーヌ(この日は濱田めぐみ、平原綾香とダブルキャスト)はパリでプリマドンナとして活躍中。息子グスタフ(この日は山田瑛瑠、加藤清史郎、松井月杜とトリプルキャスト)にも恵まれ、順風満帆なはずだった…
 音楽/アンドリュー・ロイド=ウェバー、歌詞/グレン・スレイター、脚本/アンドリュー・ロイド=ウェバー、ベン・エルトン、グレン・スレイター、フレデリック・フォーサイス、追加歌詞/チャールズ・ハート、翻訳・訳詞/竜真知子、演出/サイモン・フィリップス、美術・衣装/ガブリエラ・ディルゾーヴァ。2010年ロンドン初演、2011年オーストラリア版を日本初演。全2幕。

 『オペラ座~』もたとえば『ファントム』も、好きではありますがやはりヒロイン・クリスティーヌのあり方としてはずっとひっかかっています。彼女はファントムを異性として愛していたのか、師弟愛や同情、憐憫みたいなものしか持っていなかったのか。最初に素顔を見たとき、どうしてこらえられなかったのか。醜さとか怖ろしさとか、そんなものを越えられるのが愛ではないのか。ラウルないしフィリップは都合がいいだけの優男に描かれてしまっていいのか。
 そういうことになんとなくすわりの悪さを感じていて、全面的に支持できないでいるのですが、でも楽曲がすばらしいとかそういうことでは評価している作品ではあります。
 その続編、ということで、まあたいていパート2ものは失敗するものですが、それでもまあ一応は観ておこう、と出かけました。

 そんなワケで私はクリスティーヌになかなか感情移入できないまま見始めたわけですが、あまりきちんと説明されていませんが、とにかくクリスティーヌはラウルと結婚して息子にも恵まれているらしい。しかしラウルはギャンブルに溺れ酒と借金にまみれているらしい。私はクリスティーヌは家庭に入ったのかとなんとなく思っていたのですが、マスコミに追われるくらいにはネームバリューのあるスターらしい。
 とにかく小金を求めてニューヨークに来た。そしてファントムと再会する。それはまあいい、定番の展開ですし、また鏡から現れたリしてちょっとにやりとさせられました。
 でもなんかクリスティーヌが最初からヒステリックにわめき立て相手を攻め立てるのには閉口しました。だってもう昔のことじゃん。死んだと思っていた人が生きていたとして、驚くのはともかくとして、その後なんだって急にきゃんきゃんわめかなくちゃいけないんだろう?とぽかんとしました。
 で、だんだんわかってくるのですが、まずクリスティーヌは現在あまり幸せではないわけですね。夫が身を持ち崩しかけているからです。そしてそれは何故かと言えば…ごく簡単に言うと、息子グスタフがラウルの子ではなくファントムの子で、クリスティーヌはラウルにはそれを隠しているけれどやはり心に屈託があって、それで夫婦仲が上手くいっていないということなのですね。
 だからその原因である男、ファントムが目の前に現われて逆上したんですね。
 でもだったらその前振りが欲しかった。息子の父親は実は…というフラグが欲しかった。
 というのも私はクリスティーヌとファントムというのは実際にそこにあった感情がなんだったのであれ、肉体的にはプラトニックだったのだと思っていたからです。そんな時間なかったしそんな描写なかったよね?
 だからふたりが再会してすぐヒステリックに言い合いしてなおかつ「あの夜」云々と歌い出したときに仰天して、ついていきづらいものを感じてしまったのです。そ、そうだったの!?みたいな。
 だからもうちょっとゆっくり外堀を埋めてもらいたかったのです。それでからなら、このメロドラマ感も楽しめたのかもしれないけれどな。
 でもますますクリスティーヌという女がわからなくなりましたけれどね、私は…というのは私はラウルというキャラクターがけっこう好きなんですね。だからこそこういう男とおなかの子の父親を偽って結婚し、かつ愛したり尽くしたりもせず円満な家庭生活も送れず不幸にするなんて、なんひどいことを!と言いたい。ひとりで生きていってもよかったろう、全部捨ててラウルと一緒になるならおなかのこの父親は変えられないにしてもちゃんとファントムを忘れてラウルを愛しつくし幸せにしてやれよ、と思う。そうできないのが人間なのだとしても、私は潔くない人間は好きじゃないのです。

 クリスティーヌはファントムのためにもう一度歌うのか否か。これまでファントムを支えてきたジリー母娘はクリスティーヌの出現に今までの日々の終わりの始まりを予感し、ある種の呪いのような歌を歌います。そして一幕は終わる。ここまでほとんど起承転結の起、ですね。

 二幕冒頭で、酔ったラウルはクリスティーヌへの愛を歌います。彼は貴族のボンボンで芸術のパトロンで、でも彼自身は歌手でもないし作曲家でもない。音楽家ではないのです。だからクリスティーヌの音楽への愛を真に理解することはない。
 でも男女の愛ってそういうことではないと私は思うのですよ。確かにファントムとクリスティーヌは音楽への愛において完全なる同士なのかもしれないし似合いの一対なのかもしれないけれど、だから恋愛も生まれるとかそういうのは別だと思う。要するにラウルは音楽がわからなくてもクリスティーヌを愛したのだから、クリスティーヌもまたラウルを愛してやることができたはずなのであり、それを怠った彼女の方が悪いのではないか、と私には思えました。
 いやんラウルせつないわ!

 一方、メグは一座の看板スタートしてファントムの興行を支えながら、ファントムに想いを捧げていますが、はっきり言って鼻も引っ掛けてもらえていません。
 私はメグはもうちょっと年増の女に作るべきだったのではないかと思っています。あれから10年たっているわけで、ぶっちゃけいい歳になっているんですよ。それでも水着で踊るショーなんかやっていて、その場末感が痛々しい、という側面がもっとあるべきだったと思います。
 ファントムが今もなおクリスティーヌのおもかげを追っているのは知っている、でも今彼のそばにいるのは私だ、いつか絶対に彼は振り向いてくれる、それまでがんばるのよ…としがみついている悲しさ、浅ましさがあるべき役だったと思う。
 そこに綺麗なマダム然としたクリスティーヌが現われ、メインを務めると知って逆上する…という流れであるべきなのでは? ユミコの芝居のせいなのかなんなのか、中途半端でもったいなかったです。

 で、カタストロフが訪れるわけですが…
 オペラの定番とはいえクリスティーヌが死ぬよりやはりファントムが死ぬべきだったのではないでしょうか? 少なくとも後追い自殺して終わり、でもよかったのでは?
 だってファントムが生きていると、またここを去ってどこかに行って、でもまたジリー母娘が支えちゃうよ? それじゃ彼女たちは幸せになれないよ? まあ今度はクリスティーヌが現われることはもう二度とないのだからいつか報われることもあるのかもしれないけれど、無理そうじゃない? そんな不幸、見たくないなー。
 ラウルはグスタフがファントムの子だとわかっても、大事にいつくしんで育てると思いますけれどね。だから彼に息子が残されたのはよかったなと思うのだけれど。
 ところでファントムの仮面を取るのはクリスティーヌで、そこでキスして息絶え、そのあと戻ってきたグスタフが彼の素顔にキスするといいのではないかと私は思いましたけれどね…
 でもなんにせよクリスティーヌが死ななければならない意味が私にはよくわかりませんでした。別の男の子を身ごもったまま別の男と結婚したのが罪だったということ? それは命でないと贖えない罪なのか? そしてこの父である男の方は生きながらえることが許されるなんて理不尽では?
 大愁嘆場の大クライマックスに気持ちよく泣けず残念ではありました。
 でも豪華な装置が楽しい、素敵な舞台ではありました。再演を重ねられていくでしょうし、これからもう少しブラッシュアップされていくかな?
 いつかすわりのいい演出に出会えることを夢見て、また観に出かけてしまいそうではあります。




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