駒子の備忘録

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入院日記

2011年10月26日 | 日記
 昨年暮れからナゾの腹痛に悩まされてきましたが、なんとこのたび人生初入院をしてしまいました…

 そもそもは去年の12月中旬、深夜と言うか朝方に腸がねじ切れるような痛みに飛び起きたこと。
 うんうん唸っていましたが一向に痛みは引かず、引っ越したばかりで近所の救急病院に心当たりもなかったので、人生初の救急車を呼んでしまいました。
 近所の救急センターもある某大学病院に運び込まれ、レントゲンなどの検査を受け、結果を待っているうちに、しかし痛みは徐々に引いていきました。
 で、レントゲンでも大腸にちょっとガスの偏りが見られるので、広い意味での便秘というか、それで腸が動いて痛みが感じられたのではないか、というような診断でした。
 私は便通は毎日あるわけではないのですが、数日おきでも自分では詰まっているとかでなくて苦しいと感じたことはなく、これが自分のペースで自分では便秘だと思ったことはなかったので、ちょっと首をかしげたのですが、痛みも引いたこと出しまあいいか、と朝方帰宅しました。

 そのきっかり二週間後、やはり朝方にまた同じような痛みで目が覚めました。
 しかしこのときは、我慢していれば2,3時間で痛みは引くと学習していたので、病院にもいかずにそのままじっとしていました。
 で、痛みは引いて、寝なおしたわけですが、やはりこうも続くのではなんかおかしいんだろうな、と思いました。

 なので春になってからですが、以前に喉の嚢包のことでかかったことのあるやはり大きな病院に行ってみて相談し、婦人科の検査や大腸カメラ検査を受けました。
 しかしこのときもさしたる異常はなく、その後も痛みはずっと出ていなかったので、じゃあまあいいか、と一応安心することにしておいたのでした。

 ところが七月になって、またも深夜に痛みが出ました。
 しかもこのときは痛みが全然引きませんでした。なので朝方まで我慢して、最初の病院の救急に行きました。
 またまたレントゲンだのCTだのの検査に行くのに、私があまりに痛がるものだから、ついに車椅子で運ばれました…人生初車椅子でした。
 さらに痛み止めを点滴で入れたので、人生初点滴…
 このときは本来なら小腸には見られないはずのガスがレントゲンで見えたとのことで、やはり腸の動きによる痛みだろう、と診断されました。
 しかしこの痛みはその後もずっと場所を変えながら頻発し、薬をもらっても鈍痛としてずっと続きました。
 外来でMRI検査や再度の大腸カメラ検査、胃カメラ検査などにかかっているうちにやっと一月ほどで痛みはなくなりましたが、結果はやはり異常なし。
 血液検査に炎症反応が見られるものの、下痢もしていないし発熱もしていないので症状とは合わず、原因不明のままでした。
 で、この次に痛みが出たらもう検査入院してもらうしかないね、と言われてはいました。
 なので心の準備はできていたのです、一応。
 両親にも職場にも報告していましたしね。

 8月には人間ドックがあり、ひととおり診てもらいましたがやはり異常なし。
 二年ほど前から胆石の所見は出ていたのですが、小さいし、油っぽい食事を控えるよう意識する程度でいいでしょう、とのことでした。

 9月の末になって、今度は明らかに腸というより胃が痛いというか重く、鈍く痛むように感じられるようになりました。
 食べても食べなくても鈍痛がある。吐いたり下したりはしない、ただ重くじんわり痛い。
 なので、今度は会社の近くの消化器内科クリニックにかかってみました。胃カメラの評判が良かったからです。
 もらった薬を飲んだら痛みは治まり、胃カメラの結果も異常はなく、流行の逆流性食道炎だろうから薬は飲み続けてみたら、みたいなことを言われて帰社し、そのまま普通に数時間働きました。
 で、夜に急に具合が悪くなりました。
 職場のデスクを抜け出して休憩室で横になっていたのですが、ついにトイレで吐きました。
 クリニックがまだ開いている時間だったので、歩いて数分なので携帯と財布だけ持って向かったのですが、吐いて脱水症状を起こしていたのかフラフラでした。
 病院に着いたときには吐き気のほかに激しい腹痛も起きていて、血管が締まってしまって点滴も打てないということだったので、またしても救急車が呼ばれてしまいました。

 で、またもさる某大学病院の救命救急センターに運ばれてしまいました。
 痛みに転げまわりながらも、医者とか看護師とかが五人も六人もストレッチャーの周りを囲んであれこれ作業してくれるのを見て
「わー医療ドラマみたい」
 とか思ったりもしました。

 実家は神奈川県なので、同じく東京でひとり暮らしをしている親友と、何かあったときにはパジャマと下着を持って駆けつける役をお互いにしようね、と約束していたのですが、救命救急だったからか肉親にしか連絡を取ってくれませんでした。
 なのですでに21時を回っていたかと思いますが、両親が呼び出されたのでした。
 何も言わないまま職場を抜け出してきてしまい、そしてとても一泊では帰れない雰囲気があったので、それだけ電話してもらいました。
 この救命救急センターは病院のICU(集中治療室)も兼ねていることもあり、病院は職場への電話で
「救急車で運ばれてICUで治療中」
 とだけ伝えたようです。それ以上の安否はプライバシー保護の問題もあって言えなかったようなので、職場の方ではややパニックになったそうでした。
 職場においてきた手帳や鞄、携帯充電コードなどを気の利く後輩が届けてくれたのですが、面会は肉親のみで預けただけ。これは心配かけましたよね…
 親への電話でも、電話ではくわしいことは言えないと言われ、ただ意識はあるとだけ伝えられたそうでした。
 23時過ぎに両親が到着し、まだ原因がわからないのでどんな痛み止めを使っていいかもわからず生理食塩水の点滴だけで痛みに唸っている状態で会いました。
 こんな時間じゃ帰宅するのに終電逃しちゃうよ、私のマンションに泊まっていったら…みたいなことを必死で言った覚えがあります。
 結局この夜は痛みでほとんど眠れないうちに明けて、朝方やっととろとろしたかなあ、という感じでした。
 ただしもう四半世紀使っているハードコンタクトレンズを入れたままだったので、両親がマンションから眼鏡を持ってきてくれるまでは熟睡しちゃうとまずいかも…みたいなことを心配していたので、そのせいもあって眠れなかったのかもしれません。

 血液検査では肝機能の数値が跳ね上がっていて、でもエコーだのCTだのMRIだのをやっていってもなかなか原因がわかりませんでした。胆嚢が丸々と腫れていたので胆嚢炎という所見がとりあえず出ました。
 次の夜には、運び込まれたベッドがエアマットでやわらかすぎて腰が痛くなり、眠れませんでした。入院ってこんなに大変なんだ、寝たきりってこんなにつらいんだ(トイレには車椅子ないしもう歩いて行っていましたが)、とすっかり疲れてしまいました。
 しかしこれは硬い普通のマットレスのベッドに変えてもらったところすぐに解消し、三日目の夜には普通に熟睡していました。私って図太いな、意外に元気で健康なんだな、と我ながら感心しました(^^;)。
 このころには点滴が効いて痛みが取れており、かなり楽になっていました。部屋も救命救急センターの中では緊急度が低いのであろう部屋に移り、絶食にもかかわらず日に三度歯磨きさせられるのは何故だろうとか思いつつ、あれこれ検査に担ぎ出されるので退屈する暇もなく過ぎていました。
 入院翌日の昼には廊下でメールをさせてもらえたので、職場や仕事の担当先、週末に会う予定のあった友人知人にひととおりの連絡もすませました。
 ただしベッドの周りは機械だらけで、自分も心電図だの血中酸素だのなんだののコードにつながれていたので、電波はやはりあまりよくない気がする、と携帯はほとんど使わないでいました。
 
 仕事を押し付けてしまうとあきらめがついて、わりとのんびりまな板の上の鯉状態になりました。
 やはり非日常すぎるというのか、食べていないのが効いているのか脳内スピードというか考えるスピードが落ちていて、難しいことが考えられないのですね。だから逆にくよくよ考えたり退屈したりすることもなく、まったりとすごしていました。
 両親は最初の三日は毎日来てくれて、下着だパジャマだ歯ブラシだと運んでくれました。逆に言うとそれくらいで身の回りのものは十分だったなあ。

 連休もあったので、五日たってやっと一般病棟に移りました。
 このときはかなり黄疸が出ていたらしく(自分では顔色が悪いなとは思っても黄色いなとは思わなかったのですが)、黄疸は症状が進んで敗血症を起こしたら致死率は五割だというので、ますますおとなしくしていよう、と神妙になりました。
 一般病棟に移って二度目のエコー検査をすると、結石と詰まって太くなった胆管がバッチリ映りました。やっと原因が判明した瞬間でした。

 というワケで、その翌々日には内視鏡でこの結石を取ることになりました。特殊な胃カメラみたいなものの先から針金みたいなものが出る仕組みになっていて、それで詰まっているところに切りこみを入れて結石が出るようにする、というのですね。
 処置は寝ている間に終わりました。ただし黄疸を治めるために胆汁を体外に出す管を喉を通って鼻から出すのですが、その作業がつらく、それも寝ている間にやっておいてくれたらよかったのに~(><)という感じでした。
 この管のせいもあり、その翌日くらいから始まった食事は本当に液体のみの流動食からでした。それでも10日ぶりくらいに何かを食道とか胃とかに入れることになるので、なんかものすごく慎重にゆっくり飲み下したことを覚えています。
 食事は徐々に三分粥、五分粥と進化していきましたが、おかずのほうは最後まで肝機能が悪い人向けの油っけのないものばかりで、さびしかったなあ…

 鼻の管は五日ほどして外してもらい、やっとお見舞いが受けられる体になりました。
 また点滴スタンドがお友達でしたが、足腰もしっかりしていてどこへでもスタスタ歩いていましたし、入浴許可が出なくて看護師さんに二度ほど洗髪してもらっただけで全体に薄汚れている意外はかなり元気でした。
 持ってきてもらった本も読んでいたし、一般病棟に移ってからはこっそり携帯もいじれていたし、かなり精神状態が復活していた感じでした。
 お見舞いに来てくれた職場のメンバーはもっと枕も上がらぬような態を想像していたらしく、驚いていましたが…(^^;)

 このころには、血液検査で肝機能の数値が正常に戻れば2週間目くらいでの退院が見える、と言われていたのですが、これがなかなか下がらず、最後はかなりイライラさせられました。
 点滴も取れて入浴許可が出て患者というよりは旅館の泊まり客みたいで、なのに読む本がなくなりすることがなくなりイライラする…みたいな。
 見かねたのか週末には外出許可が出てので、マンションに一時帰宅しました。
 届いていた郵便や宅配便を片付けたり、タカラツガスカイステージの録画予約をしたりできたので、かなり気が済みました。
 で、数値が完全には正常ではないものの下がり気味である、ということで、やっと退院許可が出ました。
 19泊20日の長旅でした…

 胆管結石は取れたものの胆石はまだいくつか胆嚢にあって、胆嚢炎が慢性化する前に胆嚢を取ってしまった方がいいと言われていて(胆嚢とは胆汁を貯めておくだけの袋で、盲腸のように取ってしまっても問題ない器官なんだそうです)、12月には外科に再入院して処置してもらう予定なのですが、そちらは順調に行けば3泊4日ですむということですし、準備と心構えができていくので小旅行みたいなものです。
 再入院までは肝機能を助ける薬を飲み続け、禁酒と粗食を心がけること、と言われています。

 そんなこんなで10月はほとんど働いていません(^^;)。有休がたくさん取ってあってよかったよ!

 とにかく40数年間どちらかというと無事故無違反できたので…と書きかけて思いましたが、そういえば私は小さいころは体が弱い子供だったのでした。
 レントゲンで心臓だか肺だかに影が映るとか言われていて、毎月血液検査とレントゲンに通っていたし、体育の授業ではマラソンとプールはお休みしていました。
 しかし基本的には症状は特になく、おてんばな子供で普通に遊んで駆け回っていましたね…そして検査もいつの間にかなし崩しになり、小学校高学年で水泳も始めたんじゃなかったかな。
 それ以来は病気知らず、病院かからずできていたわけですが、まあいい勉強になりました。
 大部屋でお互いの病状が筒抜けのような環境でも平気でいられる図太さを発見したりとか、身の回りのものも最低限のものがあれば全然平気でいられることがわかったりとか、基本的にはベッドの上で暮らしていてもそんなに簡単に足腰がなまるような歳でなくてよかったなと思ったこととか…
 いずれ両親が老齢で病院のお世話になることがあったりしたときの心構えができたり、とか。
 仕事も趣味も大事だけれど、やはり健康あってのもので、そのためには断念できないものはないんだ、ということがわかったりとか。
 そんな経験が積めた、今回の体験なのでした…

 セカンドオピニオンとか言いますが、実質的には四軒目の病院でやっと原因がわかって処置もしてもらえて助かりました。
 来年の箱根駅伝はこの大学を応援せんといかんと思っております(^^;)。




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