映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

関心領域(2023年)

2024-06-02 | 【か】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85290/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 青い空の下、皆が笑顔を浮かべ、子どもたちは楽しそうな声を上げるなど、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグら家族は穏やかな日々を送っている。そして、窓から見える壁の向こうでは、大きな建物が黒い煙を上げている。

 1945年、一家が幸せに暮らしていたのは、強制収容所とは壁一枚で隔たれた屋敷だった。

=====ここまで。


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 公開前から話題沸騰(言い過ぎ?)な本作。公開してまだ10日なのに、既にネットには専門家から一般ピープルに至るまで、考察やらレビューやらが氾濫しており、内容については今さらなので、思ったことをつらつらと備忘録的に書き留めておきます。

 あんまし本作のストレートな感想文になっていないので、悪しからず。


◆描かないことで描く

 タイトルでもある「関心領域」は、アウシュビッツ収容所そのものを指すナチの隠語だったとか。そこで何が行われていたかを知ると、「関心領域」ってスゴい言葉だよなぁ。

 しかし、ヘスの妻ヘートヴィヒ(上記あらすじとは表記が違うけど、字幕では「ヘートヴィヒ」だったので、こちらを使用)にとって、夫の仕事場であり、夫の属する組織にとっての関心領域は、「無関心領域」だった。……まあ、敢えて無関心を決め込んだ、と言った方が正確か。

 序盤で、ヘートヴィヒが鏡に向かって口紅を試すように塗るシーンがあって、最初、ん??となったが、その口紅は収容所から“カナダ”に収められた収奪品であったと分かって、吐き気がしそうになった。本作とは全然関係ない映画だが、かつて「わたしのお母さん」(2022)という邦画の感想文の中で、私は「嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。」と書いたが、このヘートヴィヒの行動は、もう私の想像の範疇をはるかに超えており、本作のっけからKOされた気分だった。

 でもまぁ、本作の鍵となる“音”もそうだが、どんな非人間的な事象も、それが“日常”となると、人間、案外簡単に慣れるものなのかもしれない。私は本作を見ながら、あの環境で“臭い”はどうだったのだろうか?というのがずっと気になっていた。あれだけ、煙突から黒煙が上がり、川にも人骨灰が流れてきている環境で、全く臭いがしなかったとは考えにくい。

 けれど、臭いって一番慣れやすいのかも知れないと思い当たった。中学生の時にアメリカにホームスティしたのだが、ホストファミリーが農家で、飼っている牛を州の大きな品評会に出すとかで、その会場横に設営されていためちゃくちゃ大きな厩舎に牛と寝泊まりしたことがある。で、その厩舎に入った瞬間は、鼻がもげそうなくらい臭いが酷いと感じるのだが、30分もすると気にならなくなり、何かの用事で厩舎を出て戻ってくると、再度、臭いの酷さを実感したのだった。その時に、臭いってすぐに慣れてしまうのだな、、、何となく怖いな、、、とぼんやり思った。それを思い出して、ヘス一家も、臭いに慣れているのかも知れない、、、、私が子供心に「怖い」と感じたのは、こういうことだったのではないか、、、と思い当たり、ゾッとなった。

 とにかく、ヘートヴィヒにとっての無関心領域である「関心領域」を直截的に描かないことで、その存在感を圧倒的に描写するという、これまでにないホロコースト映画である。


◆“関心領域”で満たされていることに感謝しろ!

 本作が公開される2週間前の、某全国紙に、「世界の理不尽に我慢できない」というタイトルで50代男性の人生相談が載っていた。今、世界で起きているあれこれについて縷々述べた後「こうした報道に接するたび、激しい憎悪を覚えるとともに、その後にもたらされる世界の大混乱を思うと、絶望的な気分になり、夜も眠れません」と書いてあって、「今後、ますますひどい状況になることが想定される中、どのように気持ちを保っていけばよいか、アドバイスいただ」きたいという〆であった。

 この回答者が野沢直子(敬称略)で、これはその後プチ炎上したのでご存じの方も多いだろうが、正直言って、私は野沢の回答を読んで不快感を覚えた。まあ、相談者の文面もちょっと仰々しい感はあるものの、現状に憂えている人間は少なくないはずだ。

 で、野沢の回答である。回答のタイトルは「自分の目で確かめたらどうでしょう」で、出だしから「このお悩みを読んで、まず最初に思ったことは、そんなに心配なさっているのなら実際に戦場に出向いて最前線で戦ってくればいいのにな、ということです。」といきなりのカウンター。トランプ前大統領はそんなに酷い大統領じゃなかった云々が述べられた後「あなたがそこまで心配しているなら、その地に行って自分の目で確かめてくるべきだと思います。/おそらく、あなたは今、とても幸せなのだと思います。/人間とはないものねだりな生き物で、あまり幸せだと『心配の種』が欲しくなってくるのだと思います。失礼ですが、それなのではないでしょうか?」と、ホントに失礼なことを書き連ね、トドメは「世の中が酷くなるかどうかは誰にもわかりません。そんなことを嘆く前に、今自分が幸せなことに感謝して自分の周りにいる人たちを大切にしましょう。/いつも寄るコンビニの店員さんに声をかける、近所の人に挨拶をする。そんな小さなことから連鎖して、世の中は明るくなっていくと思うし、そんなに捨てたもんでもないんじゃないでしょうか。」である。

 これ、まさに「関心領域」そのものなんである。もう、まんま過ぎて呆れるくらいに「関心領域」だけで生きてろ!と。

 そら、世界中のあらゆる悲劇全てには誰もコミット出来ませんよ。アタリマエだ。でも、見聞きすれば、不安になったり、哀しんだり、嘆いたりはする。その度合いは人によるだろうが、この相談者のように「夜も眠れ」ないほどに考える人もいるわけだ。それを「てめぇの生存圏だけ見て生きてろ!」ってのは、そもそも回答になっていない。

 私が不快になったのは、野沢の回答だけではない。これを載せた編集者の感度の鈍さに対して、不快というよりは、嫌悪感を覚えた。半径数十メートルのことだけに満足して感謝していれば良いって、それがどういう結果を招いたか、少なくとも歴史を学んだものなら知っているはずである。ましてや、新聞社の編集者なら、自身の役割に自覚的であって然るべきなのに、まさしく「関心領域」を地で行く紙面に唖然とさせられた。

 野沢はこうも書いている。「報道されていることと反対側の考えにある人たちがいることを、いちいち想像していただきたいと思います。/ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません。」そして、「あなたがそこまで心配しているなら~」につながっている。

 野沢には、だったら、関心領域が広い人がいて、そういう人のことも「いちいち想像していただきたい」と言いたい。少なくともあなたの回答は、相談者の感情を「想像していない」としか思えない。

 そして、新聞社には「ニュースというのは起きている事柄の紹介だけで、その裏にある人々の声や本当の感情というものを100%伝えきれているとは思えません」などと書かれていることを少しは恥ずかしいと思え!と言いたい。喜んで載せている場合か。

 本作が公開される折も折、こんな迷回答が全国紙に堂々と掲載され、無関心領域を広げることに一役買っているのが皮肉である。

 

 

 

 

 

タイトルに「ナチス」とか付いていないのが良い。

 

 

 

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コメント (2)
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