映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

少女ムシェット(1974年)

2020-11-12 | 【し】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12423/

 

 ろくに働かない父親と、同じく生活力のない兄、病気の母親、そして乳飲み子の妹と暮らす少女ムシェット。

 わずかばかりのバイト代も、もらった先から父親が奪っていく。学校でも先生に辛く当たられ、友人もおらず、正門前の草むらに身を潜めてクラスメイトに土塊を投げつけるのが、せめてものムシェットの憂さ晴らし。

 もうこんな生活イヤだ!! と家出して行った森の中で密猟師に出会い、雨をしのげる小屋に入れてもらう。優しいおじさんかと思いきや、案の定、犯される。逃げるように家に帰ると、母親は亡くなり、父親には怒鳴られ、赤ん坊のミルクを買いに行った店の女主人には亡き母のことを慰められるものの、胸の傷を見咎められ、罵られる。

 どこへ行っても、ムシェットが心落ち着く場所が、この世にはないのだ。そう気が付いた彼女は……。

 ブレッソン監督作品の中では恐らく『ラルジャン』と双璧な、“ザ・救いのない映画”。 


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 先日、シネマ・カリテで組まれていたブレッソン特集にて鑑賞。本作と、『バルタザールどこへ行く』の2本同時上映。1日の「映画の日」だったから、満員でした。満員の劇場はイヤだったけど、ブレッソン作品をスクリーンで見られる機会などそうそうないので意を決して行ってまいりました。


◆相変わらずのブレッソン節炸裂

 ブレッソン作品は、好き嫌いがかなり分かれると思うが、私は、こういう一見愛想のない、見る者を突き放すような作品は嫌いじゃない。

 「見る者を」と書いたけれど、本当に突き放されるのは、映画の中の主人公なんだよね。もう、とことん突き放す。これ、創作者としてはかなり難しいことだと思うんだが、ホントにブレッソン監督は容赦がない。

 ブレッソン映画に通底しているものは、私は“お金”だといつも感じるのだけれど、本作もそうだった。

 ムシェットの家の極度の貧しさは、本来ムシェットには何の責任もないのに、ムシェットは貧しさ故に周囲から“粗末に”扱われる。まるで、貧しいことが罪であるかのように。そして、貧しさがムシェットをさらなる不幸に誘うのだ。

 ブレッソンは、こういう、どうしようもない絶望的な状況に静かな怒りを抱いていたんだと思う。ローチみたいに、怒りを前面に出すことはないけれど、やはりローチと同じように「こんなことがあっていいのか?」という思いがあったに違いない。

 こういう映画を見ると、同じく貧困や格差を描く是枝作品は、シビアさを回避した“貧乏ファンタジー”に思えてしまう。

 『万引き家族』にしろ、『誰も知らない』にしろ、貧乏と絶望を描いてはいるが、そこに“人情”を入れるのを忘れないのが是枝作品だと思う。けれど、やっぱり「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、貧しさって(程度によるが)自分以外の誰かを思いやる余裕を決定的に奪うモノだと思うのよね。だから、貧しくても人情を忘れずに、っていう理想を描きたいのは分かるけれども、それは理想を超えた妄想なんじゃないか? 現実は、『ラルジャン』だったり、『少女ムシェット』だったりするんじゃないか、、、と。

 そりゃ、見る方にしてみれば、ブレッソン映画の方が心がヒリヒリするし、眉間に皺が寄るし、見終わってグッタリするしで、精神的にも美容的にもよろしくない。でも、私はやはりこっちの方がグッとくるのだよね。辛いシーンが続いても涙も出ないが、安っぽい涙を拒絶する、そんなシビア感が響くんだと思う。


◆ムシェットよ、どうして、、、

 本作では、印象的なシーンが色々あるが、辛いシーンが多い中、ムシェットが唯一笑顔を見せるシーンがある。

 移動遊園地のバンパーカーで楽しそうに遊ぶムシェット。ある少年に何度もカートをぶつけられるが、それが学校のイジワル男子の下品なイタズラなんかと違って、彼女に対する好奇心(もっと言えば一種の好意)からくるものだと、ムシェットも何となく感じている。だから、嬉しそうなのだ。ムシェットも負けじと少年のカートにぶつけたりもする。

 カートが終わると、少年と一緒に射的に向かうが、そこでいきなり横から父親が現れたかと思うと、少年の目の前でムシェットの横面を張るという、、、。こんな、束の間のささやかな天国から、一気に現実の地獄に突き落とされる描写が、実に痛いのである。

 密猟師の小屋で陵辱されるときは、ムシェットは逃げ回るが、最終的には密猟師の背に手を回し、彼を受け容れたかのような描写になっている。……ハレ??と思って見ていたら、その後に、雑貨屋の女主人に胸の傷のことで罵られた際、何とムシェットは「私はアルセーヌ(密猟師の名前)の愛人よ!」と言い返すのだ。

 これをどう見ればよいのか、、、。彼女の精一杯の存在アピールだったのか。あんな男でも、自分を必要としてくれる人がいるんだ! と言いたかったのか。

 しかし、それに続くラストシーンでは、彼女はその女主人がくれたヒラヒラのドレスを身体に巻き付けて、池に向かってゴロゴロと転がり落ちるのである。一度目では、池の手前で止まってしまう。するとまた土手を上って、再度ゴロゴロと転がる。また止まる。また転がる、、、。そして遂に、転がった挙げ句ドボ~ンと音がして、画面が切り替わると、波紋の広がる水面が映っている、、、で、ジ・エンド。

 ムシェットの自殺だと書いてあるものが多いが、果たして自殺なのか。もちろん、そこは見る者の判断に委ねられているのだが、明確に自殺の意思を持って転がったのではないだろう。何度も転がったのは、遊び心もあっただろう。もちろん、どれくらい加速すれば池に落ちるか、という試みもあったに違いない。その先に死を見ていたかどうかは分からない。死んでもイイ、くらいには思っていたかも知れない。

 いずれにせよ、自殺がタブーとされるキリスト教の地で、この結末というのは、神に対する問い掛けもあるだろう、という気がする。宗教的な素養がまるでない私には、この結末の意味することをこれ以上、考察することは難しいが、本作は、お金だけではなく、“神”も感じたのは確か。

 ……あの後、普通に泳いで池からムシェットが上がってきたら、、、それはそれで、もの凄いシビアなサバイバル物語でもあるけれど。そういう展開も見てみたい気はするが、ムシェットにとっては、過酷すぎるよね。
 

 

 

 

 

 

 


授業では音を外してしか歌えないのに、同じ曲を密猟師には美しく歌うムシェットだが、、、。嗚呼、無情。

 

 

 

 


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