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質侶郷と鵜田里-遠江榛原郡の成立

(夏の夕焼け、今夕の散歩道より)

午後、「島田金谷の考古学と歴史」第2回に出席した。今日のテーマは律令時代と呼ばれる、飛鳥、奈良、平安の時代である。

日本書紀で西暦645年の大化の改新で出された詔に、地方行政における国郡制を基にした言葉が入っていて、それによって大化の改新虚構論が展開されているという。その議論はさて置いて、日本書紀の書かれた720年頃の地方行政組織が、大化の改新の詔の中に紛れ込んでいるのは確かなようだ。各地から出土する木簡の記載から、7世紀には国郡制はなかったとされている。

地方行政組織は以下のように変わった。
   7世紀以前   国(くに)- 評(こおり)- 里
   8世紀以後   国(くに)- 郡(こおり)- 郷 - 里
この切り替わった時期は、701年の大宝律令の制定後と考えられている。

旧金谷町近辺は「遠江国榛原郡質侶(しとろ)郷」と呼ばれていた。正確な地域は判らないが、現在、志戸呂焼で有名な「志戸呂」と呼ばれている地域は質侶郷のほんの一部に過ぎなかったようだ。930年代に書かれた「和名抄」では、写本によって写し間違いが色々あって、「質治」「賀治」「賀沼」などと表記されているが、正しくは「質侶」で、元々は「志戸呂」と3文字で表記されていたが、地名は2文字とするように統一されたため「質侶」となった。

全国的に表示が統一されれば、木簡を書いたり色々と事務処理上、便利になったのであろう。今も昔も役人が考えることは共通しているのが面白い。ちなみに、その改定により、「球流河」が「駿河」になり、「遠淡江」が「遠江」、「近淡江」が「近江」にそれぞれなっている。いずれも読み方に少し無理があるのはそんな理由による。一文字の地名も「木」の国が「紀伊」、「井」が「井伊」となった。

近辺で名の知れた「里」は「鵜田里」である。平安時代初期に書かれた「日本霊異記」によると、

薬師仏の木像、水に流れ沙に埋もれて、霊しき表を示す縁
天平宝字三年三月、一人の僧が遠江国榛原郡鵜田里を通りかかると、河のほとりの砂の中から、「我を取れ」という声がしたので掘ってみると、耳の欠けた薬師仏であった。そこでそれを修復し、堂を創って安置したところ、仏像は光を放ち、願い事のすべてがかなった。


通説では「鵜田里」は島田市野田の「鵜田寺」とする。目の薬師さんとして、現在もある。ところがこの場所は大井川の東側で駿河国志太郡となって、「日本霊異記」とは国も郡も違う。遠江国榛原郡ならば大井川の西側になくてはならない。金谷町史によると、旧金谷町横岡は昔は「宇田」と呼ばれていて、城ノ段にあったとされる横岡城は宇田城と呼ばれていた。そのことから、「鵜田里」は、牛尾山麓の「養福寺」の潮薬師がそれだとする新説を出した。

この新説は、1590年に山内一豊によって行なわれた、「天正の瀬替え」により大井川の流路が変更されたことが無視されている。「天正の瀬替え」の前は牛尾山麓は大井川の東側にあって、当然、駿河国志太郡に所属していたと考えられる。従って、この新説はやや我田引水な説である。

大井川についてはまだまだ調べてみたいことがたくさんありそうだ。
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