平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「家忠日記 二」を読む 6 、「丸馬出を持つ城」諏訪原城講演会

午後、諏訪原城講演会に行く。毎年あって、この所毎年聞きに行っている。今年の講師は中井均氏である。講演のテーマは「丸馬出を持つ城 ー諏訪原城を中心にー」、論旨がはっきりしていて、大変分りやすい講演だった。
諏訪原城は大規模な丸馬出の遺構が見られる、日本で唯一と言ってよい城である。丸馬出といえば、武田流の築城術で、それがあれば武田の城とするのが、今までの城郭研究者の常識であった。諏訪原城の発掘調査では、焼け焦げの層を挟んで、上下に層が別れていることが解り、焼け焦げは武田の諏訪原城が落城し、武田が城を燃やして去ったときのもので、その後に徳川が牧野城として作り直したものであることが解る。その発掘調査では丸馬出は徳川が造ったものと判断される。一方、文献でも「家忠日記」では天正6年~9年まで、頻繁に牧野城の城普請、堀普請、塀普請などの記録が出ている。
「丸馬出」とは何か。虎口(城の入口)を援護するために、その前方に設けた塁と、その外側の堀で囲まれた地域を馬出という。その半円形のものを丸馬出という。その堀を形状によって三日月堀という。
丸馬出は武田の築城というのは、城郭研究者の間で根強く残る「神話」であるが、徳川の城でも多く造られて、近世城郭にも及んでいる。土浦城、古河城、川越城、宇都宮城、田中城、松本城、松代城など、それは東国の城に集中している。一方、西国は丸馬出の替りに角馬出が採用された。その理由は、東国が土塁の城で、西国は石垣の城と云う違いが主たる理由である。
馬出は外堀の外、つまり総構を守る手段であった。内堀には造られていない。総構に兵力を置いて闘うためで、内堀の内側では兵力を置く余地がない。
大坂冬の陣、幕府軍は真田の精鋭が守る真田丸(丸馬出)が最後まで破れなかった。だから、幕府側は、和平の条件に、その真田丸を潰すことを要求した。そして夏の陣では、難なく突破されて、大阪城は落城した。
冬の陣の家康の本陣が置かれた、摂津茶臼山御陣城にも丸馬出が造られていた。冬の陣は、御陣城の丸馬出と真田丸の丸馬出の戦いであったと言えるかもしれない。
「家忠日記 ニ」で、天正七年分の残りを解読する。
天正七年(1579)卯十ニ月
同十七日戊子 同雨降り。
同十八日己丑 卯刻まで雨降り。清田丹隼人越し候。また酉時より雨降り。
同十九日庚寅 雨降り、同日雨間有り。
竹谷備後に年礼に、松平金左衛門、(う)たいに越され候。
同廿日 辛卯 同雨降り。
同廿一日壬辰 吉田酒左へ人をこし候。卯刻まで雨降り。会下へ参り候。
同廿二日癸巳 日待ち候。会下にて、東堂同益蔵もふる舞い成され候。
同廿三日甲午
同廿四日乙未 薄雪降る。
同廿五日丙申 岡崎へ越し候。一世所に留り候。
同廿六日丁酉 平(岩)七之助、石伯所へ越し候。
鷹遣い掛りに、深溝帰し候。
同廿七日戊戌 子刻になへゆる(地震)。
同廿八日己亥 申刻より夜まで雨降り。
同廿九日庚子 浜松へ越年に越し候。浜名に留り候。
同晦日 辛丑 浜松まで越し候。丑刻より雨降り。
落ち付き、鵜殿善六にふる舞い候。
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ところが今回 「発掘調査では丸馬出は徳川が造ったものと判断される」 とあり、
その根拠として 「焼け焦げの層があり、上層部は徳川が造り直した」 とあります。
確かに地層表層部は埋め土などを行ったでしょうが、果たして堀を埋め立て、掘り直しなどしたでしょうか。
矢張りここは武田の残した縄張りを利用して、三日月堀や丸馬出を補強したと考える方が自然だと思いますが如何でしょう。
武田勝頼が諏訪原城を築いたのが天正元年、落城が天正三年で、足掛け三年に過ぎなかったのに対して、徳川はその後、天正九年頃までは造築していた記録が、家忠日記には見られます。
諏訪原城(牧野城)は当初は当然武田に対して、その後は西の秀吉に対して牧野城の増強をしていたと言います。
家忠が一ヶ月ごとの3交替で城番に来るときは、50人位城普請の要員を引き連れて来たと日記の文から想像されますから、毎日50人から100人規模の作業員が普請をしていく訳で、これが6、7年続けば、相当大規模な工事が出来ると思います。
武田は割合簡単に城を放棄していることから勘案するに、武田の築城部分は意外と小規模だったのではないかと想像されます。
空堀部分は発掘調査によると、薬研堀で、最大8メートもの深さがあったと言います。