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田子乃古道 1 平家越と、見附宿の駅替のこと

(「田子乃古道」の本文)

古文書の5冊目は「田子乃古道」を読む。「田子乃古道」は享保18年(1733)頃、姉川一夢によって書かれたもので、東海道吉原宿近辺の地誌である。吉原宿は津浪などの被害を受ける度に内陸部へ宿替えをくり返し、古文書も多く失われいるから、その経緯を記した貴重な古文書とされる。写本が何系統かあるが、この本は妙祥寺本の系統引くものだという。

この本は手書き写本、解読も少し厄介で、かなり意訳しないと意味が通じない部分もありそうだ。誤写も多いように見える。

ともあれ、さっそく解読を始めよう。

治国平天下、而(しこう)して民耕(たがや)し、風雨の順逆時の変なるべきや。旧き古えの乱に、愛鷹山に松明(たいまつ)揚げれば、浮島の水鳥羽鳴し、平家の軍兵引率すと古語あり。
※ 治国平天下 - 国をうまく治め、天下を平和にすること。
※ 順逆(じゅんぎゃく)- 良し悪し
※ 時変(ときのへん)- 時代の変化。時代の移り変わり。
※ 旧き古えの乱 - 源平合戦の中で、治承4年(1180)9月に起きた富士川の合戦。平維盛(これもり)率いる平家方は水鳥が一斉に飛び立つ羽音に驚いて逃げ去る。



(平家越の碑)

その頃の海道は、瀬古村へ掛けて通路すと云えり。今泉下の田の字(あざ)に、平家声という字あり。今泉村も下にあり。上は善徳寺村なり。
※ 平家声(平家越)- 現在、旧東海道、和田川に架かる平家越橋のたもとに、平家越の碑が建っている。この辺りは、何度か宿替えした最後の吉原宿に近い。

瀬古村、善徳寺村、今泉村の関係が、今一つ判り難い。富士市発行の広報ふじに、地名の由来について、次のような記述がある。

今泉村は源頼朝の富士の巻狩りのとき、勢子(せこ)(動物を追い出す係)を多く出したことから、勢子村と呼ばれたとされ、後に瀬古村と書かれました。戦国時代末期になると善得寺(ぜんとくじ)村と呼ばれ、寛文2年(1662)に今泉村と改名されました。この付近に泉が多かったから今泉としたとも言われています。

つまり、瀬古村、善徳寺村、今泉村はほぼ同じ地域で、時代によって違う呼び方をされたように見える。解読を続けよう。


(「富士と港の見える公園」内の、見附宿の碑)

駿河公の後、上へ村替えすと古帳にあり。ここに当駅の旧き古えは今の鈴川村続きなり。しかるに、この駅の替わる事三度、往還の替わる事五度、駅名は昔古は見附宿と言えり。鈴川村の西入口を今に元吉原という字残り、古帳面に鈴川村西灯籠川添い砂山きわに阿ち神下と有り。この辺りの字を河帳面に記す。
※ 駿河公 - 徳川頼宣。徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。慶長14年(1609)から元和5年(1619)までに駿河藩主。その後、紀州へ転封になる。

古えはこの駅中に見附を構えて、往来の人を改むる。舟渡し場なり。今、湊の渡し舟これなり。向いは前田村へ掛けて蒲原宿へ通る。海辺は富士川の裾を渡る。


(富士川対岸の吹上浜)

旅人は見附でチェックを受けて、川向うの前田村に渡し舟で渡り、さらに富士川の河口を渡って、対岸の吹上浜に着き、蒲原宿へ至ったようである。

8月24日、取材に吉原に息子の運転で出かけた。「田子乃古道」の本文では、古えの見附宿がどうなっていたのか、今一つ理解できなくて、田子の浦港を見渡す「富士と港の見える公園」内の案内板から、吉原宿の推移を見ていく。

鎌倉時代の初めに、現在の「富士と港の見える公園」の辺りに見附が構えられ、東海道の旅人を改めるとともに、吉原湊(現・田子の浦港)から対岸の前田まで舟渡しをしていた。南北朝から戦国時代になると、吉原湊の重要性が増し、見附に宿場、港町の機能が加わり、見附宿として機能するようになった。しかし、高浪や砂丘からの漂砂の害が酷く、天文年間(1532~1555)に、今の鈴川、今井地区(1キロメートルほど東)へ移転し、吉原宿と改名された。しかしこの地も、高浪や漂砂の被害を受けて、寛永16年(1639)に依田橋村西方に再度移転した。吉原宿は、この後、もう一度移転することになる。
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