平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
掛川古文書講座史跡巡り 2
午後、金谷宿大学、古文書に親しむ(経験者)講座を開く。もう9回目になり、ようやく慣れて来た。気が付いた学生さんたちが、参考資料を人数分コピーしてきて、皆さんに配ることが続いている。自分が気付かないことを、皆さんが自主的に実行してくれて、大変有難い。牛枠などの川除け御普請に関する古文書をもう3回読んできた。あと一回、1月で終れば、このブログでまとめて紹介しよう。
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先日の掛川古文書講座のフィールドワークの続きを書こうと思う。
西郷の構江地区、「構江遊園地」という公園の西側、丘陵地に、平塚古墳がある。円墳と思われていたが、平成10年の調査では方墳である可能性が出て来た。築造の時期は6世紀後半から末頃と推定されている。平成13年、市の史跡に指定された。
江戸時代の後期に編纂された「掛川誌稿」に古鏡などが出土したとあり、また昭和31年静岡大学の調査でも、たくさんの副葬品が出土したと記録にあるが、現在一部を除き、所在が不明だという。お墓を暴いておいて、出土した遺物の所在が不明になってしまうのでは、何とも無責任なことだと思う。不明にするくらいなら、調査が済んだら埋め戻しをすべきであろう。
倉真川を東に渡って、構江の集落中の「西郷氏殿屋敷跡」へ行く。現在、構江公民館のある辺りにその屋敷はあったというが、今は建物の痕跡も無く、公民館前に案内板が立てられているだけで、構え屋敷の特徴である、堀や土塁などの痕跡も全く無かった。
(弓箭八幡宮)
その後、お国文書で、西郷氏の氏神様とされた弓箭八幡宮に寄る。人家に挟まった祠がそれであった。
バスで、上西郷村にある、北條氏重の墓に参る。一代限りの掛川藩主だった北條氏重には高野山奥の院、遠州上嶽寺、それとこの地の3ヶ所にある。北條氏重は掛川藩主で亡くなり、子供が女ばかり5人あったが、当時は嗣子が無いと則改易の決めだったため、娘に婿を取り、再興を願うも叶えられず、田辺氏として上西郷村に定着した。現在、子孫の方は浜松在住と言うが、お墓は立派に整備され、毎月墓参りは欠かされないと、地元の方に聞いた。
(五社神社)
この後、バスに乗り、お国文書でこれも氏神様とされた、五社神社に行く。西郷の局が家康に仕え浜松城に入り、後に2代将軍となる、秀忠の生母となるが、その折り、局の産土神の故にここの五社神社から分霊して浜松の五社神社の始めとなったと「掛川誌稿」にある。現在、浜松で最も有名な五社神社に行って、その由緒を尋ねたところ、そんな由緒は無いと否定されてしまったと、地元の方に聞いた。
以上で、史跡巡りの帰路についた。
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