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川根線竣工碑・地蔵峠・「了玄の経橋」

(地蔵峠の地蔵堂)

「川根超散歩」で歩く途中に、川根街道の険しさ、大井川の剣呑さを現した三つのモニュメントを見た。

最初は金谷の横岡から少し登った瓦屋さんの先、国道端で茶畑に隠れるように小さな石碑が立っていた。刻まれているのは漢詩で、道路が出来るまでこの峠越えが如何に大変であったかが書き記されている。難所に道が完成したことを祝う漢詩のようだ。意味を訳して記したけれども、もう一つぴんと来ない。

   降即川照巻砂塵  降りるとすぐ川が照り輝き、砂塵が巻く
   嶮溢万里川根線  険しくて流れの溢れる、万里の川根線
   竣難路方迎黎明  難路がおわり、いま黎明を迎える
   挿入一石爲紀念  石碑を建てて、紀念とする 
                     昭和四十五年三月十日

昭和四十五年の日付は竣工した日なんだろうが、後述の地蔵峠の案内板には「昭和六年頃、川根街道が県道として二間半の自動車道に改修」されたと書かれているから、道路は何回か改修、付替、拡幅が行われたのであろう。

川根街道で最大の難所は地蔵峠である。国道でそれほど大きな斜度はないが、少しずつの登りが加わって大井川の流れからは随分高いところまで上る。地蔵峠には新道が切割りで短絡したため、取り残された旧道の、神尾集落へ分岐する三叉路に、小さな地蔵堂がある。背後にぴょっこりと八高山が見えた。

地蔵堂について「延命地蔵大菩薩」として由緒が書かれていた。

‥‥‥川根道を、この山峰に開鑿するに当り、道祖神の石像を建立し、其の後又地蔵尊の石像を建立せしが、未だ堂宇を建立するに至らざりき。然るに頼朝公、各地の仏舎建立に心念を懸けらるるに当り、当地蔵尊も亦堂宇建設費として若干金の寄進有り。是に於て地方の信徒も亦浄財を喜捨して、堂宇始めて成る。位置は現今地に同じ。ただし、昭和六年頃、川根街道が県道として二間半の自動車道に改修の時、県道上より現在地に移転せり‥‥‥
現時、地蔵堂に木像有り。これは慶長年間肥後、細川公の寄進せられたるものと言う。慶長中、村内失火の際、類焼して古記録も悉く皆烏有に帰せりと古老の口碑にあり。而して徳川時代諸大名、東海道通行の際は必ず当地蔵尊へ代参を立てられ、交通の安全を祈願せりと云う‥‥‥


川根街道を歩いて行き来した往時は、山の斜面を削って通した道で、転落の危険と隣り合わせの大変な旅であったと想像できる。道中の無事は切実な願いであった。


(了玄了順地蔵堂)

川根の桜トンネルに至る直前に「了玄了順地蔵堂」があった。そして、「了玄の経橋」というこの地に伝わる昔話が記されていた。

昔、この場所に京都の名僧。夢窓国師の開いた正福寺があった。しばらくこの寺に滞在した国師は、やがてこの地を去るにあたって大井川に経橋をつくり、これを踏んで川を渡って駿河の国へ行った。
国師の弟子に了玄・了順という僧がいて、国師に倣って経橋を渡ろうとしたが、どうしたことか法力が国師に及ばず、橋の中頃に至って濁流に落ちてしまい、其の死骸は下流の金谷町高熊の川岸に着いたと伝えられている。
了玄・了順のお堂は、百五十米程離れて別々にあったが道路改良により、このお堂に共に祀られるようになった。
(「経橋」というのは、橋板の裏に経文を書いて橋の安全を祈ったもの。)

かつての大井川は、増水時には上流にダムが出来た現在では想像出来ないほどの激しい流れがあり、大井川に橋が無かった理由に、作ってもすぐに流されてしまうという、架橋技術の問題があったという説もあるくらいである。この伝説はその辺りの事情を教訓として語ったものだと思った。
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