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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

島田虔次 「黄宗羲・横井小楠・孫文」 (再読)

2015年07月17日 | 東洋史
 『中国思想史の研究』(京都大学学術出版会 2002年3月初版、2005年4月改装版第1刷、同書635-641頁。
 2014年09月13日より続き。

 つまり、この二人の儒教主義者〔黄と横井〕は、相互にまったく交渉がなかったにもかかわらず、儒教の教養にもとづいて、それぞれ独自に思考して、こうした共通の結論に行き着いたのである。これは、儒教が民主主義的性格を本来的に持っていたということを何よりもよく示しているのではあるまいか。男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりもせられぬかぎり、儒教だから反民主主義だ、なんてことは絶対にありえない。 (639頁)

 前半は仰る通りである。黄宗羲の『明夷待訪録』を横井が読んだという証拠はなく、その主張の驚くべき類似はこれもまた驚くべき偶然の一致なのであろう。
 だが、後半の「儒教の本来的に持つ民主主義的性格」云々は如何なものか。「男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりせられぬ限り」、つまりされたら反駁できないというのであれば、それはとりもなおさず、儒教は民主主義的ではないということではないか。
 

源了圓 「明治維新と実学思想」

2014年10月16日 | 日本史
 坂田吉雄編『明治維新史の問題点』(未来社 1962年4月)所収、同書19-118頁。

 本稿では直接に論じられてはいないものの、読後、あらためて、横井小楠の思索において「理」とは何を意味したかが気になった。なぜ横井は『大学』の「明明徳新(親)民」(注1)を、「明徳を明かにし、そうすれば次いで民を新たにできる」の通説の解釈を取らず、無理な「民を新たにするために明徳を明かにする」と解釈しようとしたのか(注2)。

 注1。大學之道,在明明,在親民,在止於至善。
   大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親(あら)たにするに在り、至善に止まるに在り。(維基文庫『大学章句』)
 注2。文法的には、「明明」「在親民」「止於至善」の三者はすべて並立の関係にあり、その間になんらの時間的前後関係も因果関係も認められない。

 ほか注目したのは、神田孝平の存在が重視されている点である。その高評価の理由は、彼が幕末蕃書調所で西洋数学を教えていた事実と、また洋学者として、日本近世思想史のなか、実学史の分野において、重要な位置を占めるという判断による。
 さらには、加藤弘之さえもが、「学問の目的」(『加藤弘之講演全集』3所収)において真理の探究そのものに価値を置く学問観を表明していることにより、著者の実学史において高い席次を与えられていることが驚きであった。

島田虔次 「黄宗羲・横井小楠・孫文」

2014年09月13日 | 東洋史
 『中国思想史の研究』(京都大学学術出版会 2002年3月初版、2005年4月改装版第1刷、同書635-641頁。
 2014年09月12日、小野和子「孫文が南方熊楠に贈った『原君原臣』について」より続き。

 『明夷待訪録』は「江戸時代の末まで日本に入ってきた形跡はない」(637頁)にも関わらず、横井小楠の「国是三論」における主張は黄のこの著におけるそれと三点で酷似している事実が指摘される。
 その三点とは、

 ①君主の血統主義の否定、
 ②暗愚な君主に対する態度(ただし氏は黄はこの点に関しては言辞が曖昧だが横井ははっきりと取り替えよと言っていると注意する)、
 ③為政者は学校へ赴いて講義を聴き、そこでの議論(=公論)に接しそれを政策に取り入れるべしという提言。

 である。
 島田氏はこの一致をすべて偶然とする。そして儒教の持つ一面の内在的発展による必然の結果という仮説を提示する。

 これは、儒教が民主主義的性格を本来的に持っていたということを何よりもよく示しているのではあるまいか。 (639頁)

 だが私は、②について、黄は別に言葉を濁してはいないと思う。「原君」で、能力のない、あるいは公をおのれの私とはき違えた君主は速やかにそうでない者に位を譲れという旨を言っている。

古賀勝次郎 『鑑の近代 「法の支配」をめぐる日本と中国』

2014年03月09日 | 東洋史
 畑違いの方の中国や中国思想の捉え方に(著者は経済学者・経済学博士)、ときに自身の盲点を突かれて面白い。
 ただ、いくつか疑問におもったこともある。知識量やその解釈の仕方にではなく、その上にたって氏が展開される論理にである。
 まず、天人相関思想が『管子』に法治主義の傾向、それも自然法的なそれを与えることになったのなら、同じく天人相関思想を大いに唱えた儒家の董仲舒にも同じ傾向が見られてよい筈ではないか。『管子』の天人相関思想を指摘して董仲舒の場合にはそれに触れないのは私から見れば不公平と感じられる。
 それから、氏の問題意識においては横井小楠と康有為をもうすこし重く扱う必要はないだろうか。前者がなぜキリスト教に強い関心を抱いたか、そして後者がなぜ孔子を神格化したのかを考えるべきでは。公羊学者だったからでは答えにならない。当時の公羊学者は彼のほかにもいたが、孔子の神格化まで踏み込んだのは彼だけだった。
 いったいに、中国儒教史における考証学から公羊学への転換あたりの情況についての考察が、やや通り一遍な気がする。

(春秋社 2014年1月)

高田淳 『中国の近代と儒教 戊戌変法の思想』

2013年08月01日 | 東洋史
 王先謙が康有為の事を、「変法=西洋化という自分の主張のダシに先哲を使っている(みだりに西教に託してその邪説を行うもの)」と批判していたことを知る(「Ⅰ 孔子教と西欧――康有為」63頁)。同時代の目にもそう見えたか。解釈が強引すぎる。
 だが梁啓超の「欧州のキリスト教を尊ぶことが治強の本だと誤認したがゆえに、常に孔子をキリストと同じ位置に置こうとした」という『清代学術概論』の批判(58頁)は、当たっていないかもしれない。誤認ではなく、今人の私には、却って正しい洞察だったかもしれないと思えるのである。孔子をキリストと同じ位置に置こうとした行為自体の妥当であったか否かは別として、この理解の上では当然の帰結であったと、私は考える。そしてそれはたぶん、横井小楠の西洋理解、なかでも彼が示したキリスト教への強い関心と、同じ根に発するものではないか。

(紀伊國屋書店 1981年8月)

マリオン・ウィリアム・スティール著 高山芳樹訳 「勝海舟と横井小楠 公議政治を目指す二つの道」

2013年07月17日 | 日本史
 勝は明治になってから横井のことを訊ねられて、

 太鼓持ちの親方のような人で、何をいうやら、取りとめたことがなかった。

 と評したという。この言葉は有名な、勝から米国の政体の説明を聴いて、「(それは)堯舜の政治ですな」と言下に評したという有名な逸話と同じ場所にあるらしい。
 らしい、というのは、私の持っている講談社版『氷川清話』の横井小楠項(注)には、前後似たくだりはあるが、「太鼓持ちの親方のような人で」という言葉はないからである。

 。江藤淳/松浦玲編、講談社学術文庫、2000年12月第1刷、2001年1月第2刷、76-77頁。

 それはとりあえずは措くことにして、著者はこの逸話を紹介したうえで、「小楠を『太鼓持ちの親方』と表現した勝の真意はどこにあったのだろうか」と問題提起を行い、「勝は横井の柔軟性に深く感じ入っていたのである」と自答する。こちらを考えたい。
 この断定には根拠が示されていないために、その判断の理由はわからない。しかし結論に関しては、私にもそうではないかと思える。村田氏寿の『関西巡回記』に出てくる横井の口吻には、もしそれが彼の口調を忠実に写した物であればという限定が付くが、滑脱さが談話のふしぶしからうかがえる。そしてそれは、語句の柔らかさよりもそれが表すところの思想の円転さによるものである。ものの見方が堅苦しくないのである。
 実際、上記講談社版の『氷川清話』でも、勝は横井を「元来物事に凝滞せぬ人であつた」「それゆゑに一個の定見といふものはなかつたけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった」と評している。つまり柔軟ということだ。

(『季刊 日本思想史』37、1991年5月、61-79頁)

 追記。巌本善治編/勝部真長校注『新訂海舟座談』(岩波書店1983年2月第1刷、1994年2月第24刷)の横井関連部分にも「太鼓持ちの親方のような人で」という句は見られない。同書102頁。

堤克彦 「肥後の幕末 福井藩士村田氏寿の『関西巡回記』を読む」

2013年07月12日 | 日本史
 『肥後学講座Ⅲ(第25回~36回)』(熊本日日新聞社 2009年7月)所収、171-199頁。

 堤氏の指摘によって、村田が筆記した意見のなかで、横井小楠は熊沢蕃山をひどく高く評価していたことにあらためて気づいた。熊沢蕃山は陽明学者だが(横井は朱子学者)、どこに共鳴したのだろうか。

林竹二 『林竹二著作集』 5 「開国をめぐって」

2013年06月25日 | 日本史
 「第二章 共和政治を構想した横井小楠」を特に。村田氏寿が『関西巡回記』で横井から聞き書きしたという言葉のなかにある「道」、あるいは「仁義」とは、「公正なる正義」の同意語なのかもしれない。

 道は天地の道なり。我国の外国のと云う事はない。道の有る所は外夷といえども中国なり。我国支那と云えども夷なり。(略)ここで日本に仁義の大道を起さには〔=ねば〕ならぬ。強国に為るではならぬ。(略)この道を明にして世界の世話やきに為らにはならぬ。

 
(筑摩書房 1984年2月)