『中国思想史の研究』(京都大学学術出版会 2002年3月初版、2005年4月改装版第1刷、同書635-641頁。
2014年09月13日より続き。
つまり、この二人の儒教主義者〔黄と横井〕は、相互にまったく交渉がなかったにもかかわらず、儒教の教養にもとづいて、それぞれ独自に思考して、こうした共通の結論に行き着いたのである。これは、儒教が民主主義的性格を本来的に持っていたということを何よりもよく示しているのではあるまいか。男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりもせられぬかぎり、儒教だから反民主主義だ、なんてことは絶対にありえない。 (639頁)
前半は仰る通りである。黄宗羲の『明夷待訪録』を横井が読んだという証拠はなく、その主張の驚くべき類似はこれもまた驚くべき偶然の一致なのであろう。
だが、後半の「儒教の本来的に持つ民主主義的性格」云々は如何なものか。「男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりせられぬ限り」、つまりされたら反駁できないというのであれば、それはとりもなおさず、儒教は民主主義的ではないということではないか。
2014年09月13日より続き。
つまり、この二人の儒教主義者〔黄と横井〕は、相互にまったく交渉がなかったにもかかわらず、儒教の教養にもとづいて、それぞれ独自に思考して、こうした共通の結論に行き着いたのである。これは、儒教が民主主義的性格を本来的に持っていたということを何よりもよく示しているのではあるまいか。男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりもせられぬかぎり、儒教だから反民主主義だ、なんてことは絶対にありえない。 (639頁)
前半は仰る通りである。黄宗羲の『明夷待訪録』を横井が読んだという証拠はなく、その主張の驚くべき類似はこれもまた驚くべき偶然の一致なのであろう。
だが、後半の「儒教の本来的に持つ民主主義的性格」云々は如何なものか。「男女平等観念の欠如を持ち出して難詰したりせられぬ限り」、つまりされたら反駁できないというのであれば、それはとりもなおさず、儒教は民主主義的ではないということではないか。