ツイッターのほうで、半可通が近世の文章語を現代日本の語と人の(形式)論理で読んで解釈しようとしてその時代の専門家に窘められている図を見た。言葉というものを軽視すべきでない。言語ごと、また同じ言語でも時代によって論理を含めた生理(=人の思惟)が異なるから、文法の知識を弁えていても、“今”の頭で“昔”を覧たら大意すらとりきれない。
かとって、これは素人にかぎらず、専門家と呼ばれている者のあいだでも難しいことである。いま『荘子』の「牛馬四足,是謂天」の天を「自然・天然という意味である」と
その言葉の専門家が作ったはずの辞書が解釈しているのを見てたまげているところだ。これは、“そこでは”、そう解釈しなければ、解釈者の言語とその言語によって思考する解釈者の思考では理解も翻訳もできないからそう解釈・翻訳する、せざるをえないだけのことである。「天」という語または字そのもののもつ意味ではない。すくなくともダイレクトにそう断じることはできないと私は考える。この個所だけではない。