書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

良心 ― 維基百科

2016年08月25日 | 人文科学
 「良心 - 维基百科」 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BF%83

  良心或良知,是人類辨別對與錯的能力。由於良心的影響,當人類所作的與價值觀不合時,會感到自責。良心也可以視為人類在辨別對與錯時,作為判斷基準的價值觀。

 良知はconscienceか。まあそうだろう。露語のсовестьにウィキペディアではリンクする。英語でconscienceと訳したらсовестьへと繋がるのは決まり切った話ではある。




Ум — Википедия

2016年08月25日 | 抜き書き
 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A3%D0%BC

    Ум — это совокупность способностей к восприятию, запоминанию, обобщению, оценке и принятию решения. Ум определяется ощущениями, эмоциями, пониманием, памятью, желаниями, индивидуальными особенностями и мотивами, а также подсознанием.

心 - Wikipedia

2016年08月25日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83#.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E6.A6.82.E8.A6.B3

 東洋では陸象山が「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。 (「歴史概説」)

 陸象山は「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」と述べ、また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。王陽明は、心によって理が発現する、とした。これは、それまで朱子学では理というものが客観的に存在するとしていたのに対して異を唱えたのである。心の能動的で主体的な発用を主張する内容であったため、陽明学は心学と呼ばれるようになった。 (「東洋における心の理解」“心学”)

 この意味での漢語の“心”を、西洋のシノロジストが"mind"と訳したのは、理に適っている。

Thinking, Fast and Slow - Wikipedia

2016年08月25日 | 人文科学
 https://en.wikipedia.org/wiki/Thinking,_Fast_and_Slow#Two_systems

  Kahneman uses heuristics to assert that System 1 thinking involves associating new information with existing patterns, or thoughts, rather than creating new patterns for each new experience.

 というわけで、Kahneman他編の"Heuristics and Biases: The Psychology of Intuitive Judgment"を読んでみた。
 システムが異なるのならば、そのなかで働く論理(logicではない)も各々異なるだろう。システム1にはrationality自体が存在しない(logicとともにシステム2の特性)。ヒューム式のreasonはシステム1にはあるが、この定義に従うとシステム2にはないことになる。理性はまさしく情念の奴隷であるか。
 ここまで読んで、池田信夫氏がシステム1と2について言及されていたのを思いだし、確認してみた。

 『池田信夫 blog』「行動経済学の父ヒューム

 少しのことにも先達はあらまほしき事なりという感想。

児玉 聡 「THE SLIPPERY SLOPE ARGUMENT 有効なすべり坂論法とは何か? 」

2016年08月25日 | 人文科学
 https://plaza.umin.ac.jp/kodama/bioethi

 すべり坂論法が論理学の教科書において説明されることはめったにないが、論理学においてはこの論法は誤謬として取り扱われるのが通例である。しかし、D. Waltonが詳細に論じているように、すべり坂論法はその形式によっ ては、たとえあまり有効な議論ではない(弱い議論である)にしても誤謬とは呼べないものもある。すると、実践的な観点からは、すべり坂論法を分類して誤謬である場合とそうでない場合に分け、そして誤謬でないすべり坂論法がどのていど有効な議論として機能しうるのかを考察する必要があるように思われる。


 というわけで、この引用で言及されているDouglas Waltonの"Slippery Slope Arguments" (Oxford Clarendon Press, 1992)を読んでみた。formal logicのfallacyは形式に関するものであるのに対してinformal logicのそれは内容に関わるものである。そして、このWalton著によれば、slippery slope argumentは、informal logicに属する。ならば、fallacyそのものにも二種類を認めるべきであるということになる。
 さらにいえば、validとinvalidの概念も異なるのであれば、formal logicとinformal logicはそれぞれ全く別のものとして考えるべきではないかということにもなろう。後者は前者の特殊形態とか、あるいは前者の誤謬とかといった、負の評価をもって遇するのではなく。

付記。『大学』の「修身天下治国平天下」は、あれも一種のslippery slope argumentと言えるかも知れない。フェアバンクは「連鎖論法」「前提とは関係なく生まれてくるおかしな推論」と呼んだところのものだが。

付記2。古代漢語にはformal logicもinformal logicもないから(古代中国は古代ギリシアではなく、後者の言語と思考から生まれたlogicの概念は存在しないので、当然ながらそのformalもinformalの分もまたない)、これはあくまで戯れ言の類いである。

夏目漱石 「満韓ところどころ」

2016年08月25日 | 文学
 テキストは藤井淑禎編『漱石紀行文集』(岩波書店 2016年7月)所収。

 恥ずかしいが初めて読んだ。読んでみると、山は“山”であり、宿屋は“宿屋”であり、彼地の家の部屋は“座敷”“応接間”であり、飯は”飯”である。馬車は“馬車”であり船は“サンパンと云う船”であった。これでは頭に絵が描けない。

柳田節子 「宮崎史学と近世論」

2016年08月23日 | 東洋史
 柳田節子『宋元社会経済史研究』(創文社 1995年10月)所収。

 〔内藤湖南の〕変革期の発見は、現象的把握の面が強く、必ずしも、中国史をその構造の内的発展として捉えてはいない。 (「はじめに」)

 ではその構造とはなにかといえば、唯物史観である。そしてその内容は、宮崎は内藤以来の文化史観で近代主義で近世論だから駄目、ヨーロッパ中心史観だから駄目、宋代は中世だから佃戸は農奴に決まっているのに自由民だなどと世界史の基本法則に反することを言うから駄目という論旨である。もとは1974年発表されたものだが、この文章を収録した上掲の著書が1995年刊であることから窺われるように、箱根の山の向こう側の学派では、21世紀間近になってもこの一文の論が生きて拘束力を持っていたらしい。もっともいま私が要約したような直裁な物の言い方ではない。もっとまわりくどい。私はこれを1980年代半ばに初めて読んだ。尊敬する宋代史の先輩にこの文章についての意見を聞くと、「要は所詮はブルジョア史学だと言いたいんだろう」という返事だった。それからほぼ30年がたった今、その先輩の感想を自分の解釈と言葉とで敷衍してみた。

吉田純 「清代のことばの問題をめぐって」

2016年08月23日 | 地域研究
 梅棹忠夫/栗田靖之編『知と教養の文明学』(中央公論社 1991年12月)所収、同書115-142頁。

 言うまでもなく古代中国語の研究は、当時の読書人にとってみても不要不急のことにすぎない。知とか教養とか呼ばれるものには、一面で本来こうした性質があると思われるが、ただ生命まで犠牲にしかねないかのようなこの戴震たちの自己投入は、そこから連想される「遊芸」というようなイメージとはかけはなれた印象を与える。不要不急とも思われる古代中国語の研究に戴震たちが傾けたこれほどの情熱のみなもとがどこにあったかは、熟考に値する問題と思われる。
 (132頁)

 私もそう思う。