書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

柿沼陽平 「『漢書』をめぐる読書行為と読者共同体 顔師古注以前を中心に」

2014年04月11日 | 東洋史
 『帝京史学』29、2014/2、29-68頁。こちらからも。

 『漢書』はもともと、古字を含む点で難解であったが、その内容・文章・理は豊かで、典雅な文辞を兼ね備え、後漢以来読者と注釈者を惹きつけてやまない漢籍だった。 (「おわりに」46頁)

 読めないのに「内容・文章・(論)理は豊か」だとどうして解ったのか。そして注とは読めないものを読めるために付けるものだが、「内容・文章・(論)理は豊か」で「典雅な文辞を兼ね備え」ているとすでに判明しているものに、どうして諸家がわざわざ注を付けたのか。よくわからない。
 すべては注を付けたがゆえのこと、つまり前ではなく後の話ではなかろうか。この説明は原因と結果とが逆立ちしているのではないか。
 とすれば後漢から唐まで、つまり魏晋南北朝時代において『史記』よりも『漢書』が好まれよく読まれたのはこれとは別の理由によるものだということになる。筆者が証拠としてあげる司馬貞『史記索隠』の「後序」は事実を伝えたものではないということだ。筆者もその他の理由として挙げる、『史記』は私撰であり『漢書』は官撰だったという点が、より大きいのではないか。