副題に「対話」と銘打ってあるが、正確には論集である。しかも中国側の寄稿者は、巻末のプロフィールを見ると、日本あるいは米国在住の、それも専門の研究者ばかりである。
“最近でも、『正論』二〇〇六年四月号の特集で、蒋立峰・中国社会科学院日本研究所所長が、「田中上奏文」が偽文書であると認めたことが紹介されている(八木秀次「中国知識人との対話で分かった歴史問題の『急所』」)。
しかし、これらをもって中国国内に新しい動きが出てきたと見るのは、時期尚早ではないかと、私は思う。
たとえば、「田中上奏文」については、中国社会における現実について八木秀次が特集末尾の「解説」で批評しているとおりであろう。すなわち、蒋の言うように「田中上奏文」が存在しなかったという見方が研究界の主流となりつつあるとしても、一般大衆のレベルで、たとえば学校教科書や一般国民向けの宣伝において相変わらず本物として扱われていれば、実際的な意味はほとんどないのだ” (林思雲/金谷譲『続・中国人と日本人 ホンネの対話』、日中出版、2006年5月、金谷譲「後記」、本書234-235頁。太字は引用に際して施した)
(東京大学出版会 2006年5月)
▲「YOMIURI ONLINE」2006年7月22日、「『南京事件』題材に3映画、中国で同時に計画進行」
→http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060722i401.htm
70周年を祝して来年、犠牲者数は40万の大台に乗るかもしれない。
「中国の日本研究は日本工作」
これは、毛里和子『日中関係 戦後から新時代へ』(岩波書店 2006年6月)で、ある中国人のものとして引用される言葉。至言。
“最近でも、『正論』二〇〇六年四月号の特集で、蒋立峰・中国社会科学院日本研究所所長が、「田中上奏文」が偽文書であると認めたことが紹介されている(八木秀次「中国知識人との対話で分かった歴史問題の『急所』」)。
しかし、これらをもって中国国内に新しい動きが出てきたと見るのは、時期尚早ではないかと、私は思う。
たとえば、「田中上奏文」については、中国社会における現実について八木秀次が特集末尾の「解説」で批評しているとおりであろう。すなわち、蒋の言うように「田中上奏文」が存在しなかったという見方が研究界の主流となりつつあるとしても、一般大衆のレベルで、たとえば学校教科書や一般国民向けの宣伝において相変わらず本物として扱われていれば、実際的な意味はほとんどないのだ” (林思雲/金谷譲『続・中国人と日本人 ホンネの対話』、日中出版、2006年5月、金谷譲「後記」、本書234-235頁。太字は引用に際して施した)
(東京大学出版会 2006年5月)
▲「YOMIURI ONLINE」2006年7月22日、「『南京事件』題材に3映画、中国で同時に計画進行」
→http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060722i401.htm
70周年を祝して来年、犠牲者数は40万の大台に乗るかもしれない。
「中国の日本研究は日本工作」
これは、毛里和子『日中関係 戦後から新時代へ』(岩波書店 2006年6月)で、ある中国人のものとして引用される言葉。至言。