書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

佐原康夫 「戦国諸子の士論と漢初の社会」

2013年09月07日 | 東洋史
 『東洋史研究』71-4、2013年3月、1-27頁。

 「士」とはなにかを、「古代社会の生産力が上がることによって析出されてきた生産に属さない階級」などと、馬鹿な説明が一方の通説になっていた馬鹿げた当該テーマの過去の論争史を、「(社会的習俗論と専制国家論の)すれ違い」「多くの隙間がある」で、冒頭さっさと片付けたところが小気味よい(「はじめに」2頁)。歴史学としての問題は、当時の人間が、何が士たるための条件であるかと考えたことを探ることにあろう。「諸子はそれぞれの思想的立場から士はいかにあるべきかを説いてやまなかった。」(同)。
 この場合、士は「公」に関わり、それに奉仕し、時には殉じるものであるという諸子の流派に関わらずあるべき士像の最大公約数が浮かび上がってくる。たとえば筆者も上げる『韓非子』「飾邪篇」のこのくだりにある、

 夫れ令必ず行われ、禁必ず止むは、人主の公義なり。必ずその私を行い、朋友に信あり、賞もて勧むるをなすべからず、罰もて沮むをなすべからざるは、人臣の私義なり。 (「Ⅱ 義士たちの劇場 (2) 公義と私義」13頁)

 「士にとって、公と私はどのような関係になるのだろうか」(13頁)が吟味されなければならないのである。
 しかしさらには、当時の彼らにとって公私(の義)とは何であったが明らかにされねばならないのではないか。
 当時の士には確信犯的に私義を追求した者が存在し、公義がそれを統制できないということだと、この『韓非子』の描写を基に筆者は言う。それはそうであろう。だがなぜそうであったかという考察も必要ではなかろうか。残念ながらこの論文ではそこがなされているとはいいがたい。