書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『BRUTUS』 2011年 3/1号 から

2011年02月16日 | 抜き書き
 「緊急特集桑田佳祐」。

 桑田さんは、0から1を生み出すことができる人。1を10や100に膨らませるのは難しくないけど、何もないところからアイデアを出せる人はなかなかいないんです。 (佐々木将氏・『音楽寅さん』(第二期)のプロデューサー。「桑田のスガオ」本書71頁)

 “0から1を生み出せる人”と“1を10や100に膨らませることができるだけの人”との間には、互いに越えることのできない断層がある。

 話題になった『声に出して歌いたい日本文学』も、企画が決定してから10日間でオリジナル楽曲を10曲も仕上げられました。アルバムサイズだから、もの作りへの集中力には驚かされます。 (同上)

 すごいなあ。ホント、もの作りは集中力が勝負だと思う。必ずしも苦吟する必要はないが、自分を押し詰める必要はある。

 桑田さんはカット割りににも強いこだわりがあり、曲の流れに合った演出を気にされます。“ギターソロでは、ちゃんとギタリストをアップにしてる?”とミュージシャンの方々に常に気を配ります。 (同上)

 コンサートのDVD見てていつも思うけど、アップになったときの桑田さんのジェスチュアって、かなりの部分、この種のスタッフやカメラマンへの指示だね。

 それにしても、この人と私は、年齢は4歳しか違わないのだが、とても信じられん。私がただの大学1回生だったとき、この人はすでに『勝手にシンドバッド』でスーパースターだった。当時からすでに立ち位置には昔から天と地ほどの差があったし、今でも無論どころかより一層そうなのだが(なにせ相手は国民的天才である)、なぜか最近、感覚的には以前より存在として近しくなったような気もする。いい歳をしたおっさん同士ということで勝手ながらの共感かしらん。かもね。

(マガジンハウス; 月2回刊版 2011年2月)

銭穆 『中国近三百年学術史』 上下

2011年02月16日 | 東洋史
 もと商務印書館、1937年刊。
 呂思勉、銭穆、陳垣、陳寅恪を「中国四大史學家」と呼ぶそうだ(「ウィキペディア」中国語版「呂思勉」項)。その一人銭穆の中国思想史概説書。我が国にたとえて言えば、狩野直喜の『中国哲学史』に当たろう。もっともこの『中国近三百年学術史』は、通史の『中国哲学史』とは違い、もっぱら明清時代に絞った内容である。それ以前の時代については、かるく「引論(序論)」でまとめてあるのだが、これがひどい。
 「王安石は新法で小人を重用した。君子は阿らず正論を吐いて彼に盲従しなかったからである。腹を立てた王安石は君子を世間知らずの迂遠な学者先生共と見なして皆排斥し、自分にへいこら服従する奸佞な小人どもばかりを寄せ付けた。王安石は、彼らのその場限りの口から出任せの言や鼻先思案を機転が利く実務達者のしるしと勘違いしたのである。この結果、小人は私利を争い、天下に大いなる害毒を流した」云々と(少々意訳)、旧法党そのままの――つまりそれ以後の王朝中国での公式見解の――紋切り型の批判を展開している(上巻、「第一章 引論」同書5頁)。
 続く上下巻、全編この調子である。この人だけの視点も解釈もみあたらない。ひどいものである。
 この人には通史の著作もあって『国史大綱』というのだが(初版1939年、私の持っているのは1987年の修訂第13版)、これが輪をかけて平凡である。いくら一般向けの概説書として書いたにしても、あなたでなくてもこんなことなら他の人でも書けるでしょうといいたくなるような月並みさである。宮崎市定の『中国史』や和田清の『中国史概説』を読んで育った東洋(中国)史の学徒としては、そう言うしか法はない。体例(目次の建て方や構成)が、いかにも型どおりなのである。あらかじめ決めた型にあてはめて内容を整えるなど、出来は退屈、ろくなものではない。

 「中国四大史學家」について、個人的な印象をいわせてもらえば、呂思勉は京大カード頭の記憶馬鹿、銭穆は考えることも言うことも型どおりの腐儒、陳垣はくそ真面目と根気だけが取りえの学者先生、陳寅恪はさすがにこの中で一頭ぬきんでた才質の人だが、その傑作『隋唐制度淵源略論稿』は、隋唐の(つまりは東晋南北朝時代からの)中国王朝(北朝)の支配者階級(皇帝家を含む)が異民族系統(関隴集団=武川鎮集団、テュルク系)であったことを曇りなき目で見、見るだけでなく憚ることなく指摘した点はたしかに凄いが、これとて日本で彼の学説をうけてさらに広めた宮崎市定のお陰で持ち上げられすぎているきらいがあると思う。彼の偉さは、みんなが当時の中国の文化的・社会的な制約のもとで様々な配慮から言わず語らずにしていたこと(中華の代表たる隋唐の皇帝が夷狄の血筋だったということ)を、あえて公言した勇気のほうにより大きくあるだろう。

(中華書局版、北京、1986年5月)

「竹島問題再燃懸念 韓国、外相会談で日本に確認へ」 から

2011年02月16日 | 抜き書き
▲「asahi.com」2011年2月16日11時42分、ソウル=牧野愛博。(部分)
 〈http://www.asahi.com/international/update/0216/TKY201102150707.html

 韓国の金星煥(キム・ソンファン)外交通商相が16日に訪日し、前原誠司外相と会談する。主な議題は北朝鮮問題だが、韓国政府は北朝鮮への対応には、日本など関係国の支援が不可欠と判断。今春の日本の教科書検定を契機に竹島(韓国名・独島〈トクト〉)の領有権を巡る議論が再燃する可能性があるなか、この問題が日韓の協力に悪影響を与えないよう外相会談を通じて確認する方針だ。

 中国の尖閣諸島(釣魚島)の領有主張は、国際法からみて論拠もなにもないことは外務省の公式見解が伝えるとおりである。始末に悪いのは、主張者のかなりの部分が、それすらわかっていないらしいことだ。自分(中国)の“常識”(common sense と common knowledge 両方を指す)と国際ルールが違えば、国際ルールのほうが間違っていると断じてそれでお終いである。それ以上考えないらしい。相手の主張のよって来たるところを理解しようという気と、自分にとってその理解することの大局的見地からみての必要性を把握する気が基本的にないのである。この点、韓国の場合はどうだろう。竹島(独島)についての主張は、国際法からして説得力に乏しい部分がかなりあるようなのは中国と似ているが、承知のうえなのか、それともそれがわからないのかどうか。持ち出してくる歴史的な“証拠”なるものの荒唐無稽さは、ときに中国以上ではある。しかし今回のように国益計算をして抑えるべきときは抑えるところなど、中国の官民の愛国人士よりもはるかに“理性”的に思える。

「人民日報:理性を持って今日の社会における公正の問題を捉えるよう訴える」 を見て

2011年02月16日 | 思考の断片
▲「新華網」2011年02月16日 07:27:07,来源:人民日报「人民日报刊文:呼吁理性看待当前的社会公正问题」。(部分)
 〈http://news.xinhuanet.com/politics/2011-02/16/c_121083850.htm

  社会公正是社会成员对社会是否“合意”的一种价值评判,其实质是要求经济、政治、文化等各种权利在社会成员之间合理分配,每个人都能得到其所应得的;各种义务由社会成员合理承担,每个人都应承担其所应承担的。而要实现这种合理的分配与承担,就要形成与之相适应的制度体系。从这个意义上说,社会公正既体现为一种价值理念,也体现为一种制度安排;既可视为一种原则和标准,也可视为一种状态和结果。 (第2頁

  看待社会公正问题,应防止落入平均主义这种无论在历史上还是在现实中都颇具诱惑力的窠臼中。虽然平均主义在某些领域是适用的,但若将其推广到所有领域尤其是分配领域,否认人的差别而要求平均分享一切,最终只会扼制人的积极性,扼杀社会发展的活力,不利于社会公正的实现。 (第3頁

 太字は引用者による。“公正”の欠如が中国の抱える問題であること、公正とは社会全体の共有する価値であるということの認識とその実現の必要性の指摘。そして公平とはみんなで平等に得をするだけでなく損をすることもあるということだという理解。かつ価値判断でなく“理性”(西洋式の形式論理)で物事をとらえようという呼びかけ。中国人は、やはり分かっている人は分かっているのである(そしてこれこれもその連関としての記事だろう。いま大挙して出てきた理由はわからないが)。
 ともあれ、中国の抱えるいまひとつの問題は、上にも下にもこの問題の重要性がどうしても解らない、解ろうとしない人間があまりに多いということなのだろう。なにせ14億人である。日本の人口のほとんど12倍である。比率から言って、日本人からすればとんでもなく多い。当の中国人から見ても、絶対的に多すぎると思っているに違いない。

「日本は第二次世界大戦の結果を認めなければならない」

2011年02月16日 | 思考の断片
▲「ИТАР-ТАСС」15.02.2011, 15.17, ЛОНДОН, 「Японии следует признать итоги Второй мировой для урегулирования вопроса мирного договора - Лавров」
 〈http://www.itar-tass.com/level2.html?NewsID=15956126&PageNum=0

  Японии следует признать итоги Второй мировой войны, чтобы урегулировать вопрос мирного договора, заявил сегодня глава МИД РФ Сергей Лавров. "Нет другого пути до тех пор, пока Япония не сделает того, что уже сделали другие страны, а именно признает итоги Второй мировой войны", - отметил министр, выступая в Лондонской школе экономики.

 「日本は第二次世界大戦の結果を認めなければならない」とは、「黙れ」という意味である。「これ以上いえば戦争にするぞ」という意味でもある。実際にそこまで明言する場合(あるいは人)もいる。「第三次世界大戦だ」と。中国ならこの場合、「日本がふたたび攻めてくる、軍国主義の復活だ」と、自分の道徳的優位をまず確保すべく相手に責任を転嫁するところだが、ロシアの場合、自分から戦争を開始すると言う。言葉で通じなければ力で解らせるまで、勝てば官軍という立場を隠そうとしない。どちらも正義は我にあり、相手は悪であるという立場は微塵も揺るがないのだが、表し方は正反対といえる。
 ついでに言えば、「日本は第二次世界大戦の結果を認めなければならない」は、日露戦争の結果を認めなかったのはそちらではないか、と言われて詰まるのは自分であるのはわかっていて言う言葉である。つまり自分で自分の言うことが理に適っていないと承知しつつ言う建前、国益を守るための三百代言である。言っている本人も自分の言葉が相手に何の説得力も持たないことは最初から解っているだろう。つまり今のロシア政府は、自分の正義は自分たちだけの正義、一面の正義でしかないことを承知してやっている。私はそう見ている。
 ただ、ロシア側が提案している“平和条約問題に関し、日露双方の歴史専門家による委員会を設置して議論を行う”という提案(→こちらも)は、相手が時間稼ぎのために提案している面もあるだろうという点は別として、それ自体は事態に一定の進展と効果をもたらすのではないかと思う。中国との(おそらく韓国ともかなりそうだが)同種の対話が、相手の結論が最初から決まっているがゆえにまるで不毛であるのとは異なってである。
 ただ北方領土の交渉も、チベット亡命政府と中国との交渉と同じで、中国側がダライ・ラマの死ぬのを待っているように、ロシア側は北方領土の元住民たちが死に絶えるのを待っているのは確実だから、実務家にとっては実際問題としてそんな迂遠な理想論を唱えてはいられない。

「鳥獣戯画、表裏に描かれていた…はがして巻物に」 から

2011年02月16日 | 抜き書き
▲「YOMIURI ONLINE(読売新聞)」2011年2月15日21時44分、「鳥獣戯画、表裏に描かれていた…はがして巻物に」 (部分)
 〈http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110215-OYT1T00931.htm?from=top

 現在は同館文化財保存修理所で修復中。歩くカエルを描いた19枚目に残る墨の跡が、2枚目に描かれた人物たちの烏帽子の位置と一致し、墨が裏にしみたものと確認した。1枚目と20枚目、3枚目と18枚目も、墨や汚れ、損傷が一致。20枚が和紙10枚の表裏だったと判明した。先に人物画が描かれ、後に別の人が裏に動物を描いたらしい。

 なぬ! 
 うちのプリンターはホコリよけに『鳥獣戯画』を染め出したランチョンマットを被けてある。ウサギを突っころばしたカエルが文字通り気を吐いている、あの有名な相撲の場面だ。朝な夕なにそれを目にしている『鳥獣戯画』好きとしては聞き捨てならんわ。