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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

桑田佳祐 『LIVE TOUR & DOCUMENT FILM「I LOVE YOU -now & forever-」』完全盤(完全生産限定盤)[DVD]

2013年03月15日 | 芸術
 ライブを観て私が感じたことを、メイキングビデオのインタビューやそこで収録された最終横浜アリーナでの「青葉城恋歌」替え歌で、桑田さん本人が、今回のライブの目的としてすべて(そうすべて!)語っているので、何も言うことがない。ただひとつ、これまでに観た桑さんのライブやコンサートのなかで(ソロ・サザンを問わず)、今回のツアーが、作りこみも歌・パフォーマンスの水準も、ダントツに最高である。

(ビクターエンタテインメント 2013年3月)

松本亮  『ジャワ舞踊バリ舞踊の花をたずねて―その文学・ものがたり背景をさぐる』

2012年08月02日 | 芸術
 装幀・紙質・活字、そして内実たる写真・文章、そのすべてが神経の行き届いた上質である。読み了えた後、美酒を飲んだような陶酔さえ感じる。とくに文体のなんともいえない豊饒さに、巻末の著者略歴を見てみると、詩人だった。金子光晴と親交があった人らしい。道理でこのような、と一人頷く。

(めこん 2011年12月)

樋口芳麻呂校注 『王朝秀歌選』

2012年06月03日 | 芸術
 冷や酒を嗜みつつ、なんとなく開く。夏の歌が少ないのかなと思いながら頁をめくっていったところ、こんな歌があった。 

  庭の面は月漏らぬまでなりにけり こずゑに夏の陰茂りつつ (「時代不合歌合」九十四番 白河院)

(岩波書店 1983年3月第1刷 1984年5月第4刷)

北大路魯山人著 平野雅章編 『新装改訂版 魯山人著作集』 3 「料理論集」

2012年05月06日 | 芸術
 日本料理は素材のもとから持っている持ち味を引き出す料理、西洋料理(とくに代表としてのフランス料理)は、良くない素材を味付けで食べられるようにする料理だそうだ。だから日本料理はよりよい素材が問題となるのであると。また不味い材料はいくら手をかけても美味くはならないとも。

(五月書房 1980年11月初版第1刷 1983年5月初版第2刷 1993年5月新装改訂版)

北大路魯山人著 平野雅章編 『新装改訂版 魯山人著作集』 2 「美術論集」

2012年05月02日 | 芸術
 斬人斬馬、実名の嵐。たまに誰かを褒めるのはその氏に取り入るためかどうかと瀬踏みせねばならぬ厄介な陥穽も所々にあるが、おおよそは額面通りに取ってよいと判断する。おのれの確乎たる審美観に照らしての断定であり断案であろう。そしてそれは基本的に正しそうである。

(五月書房 1980年11月初版第1刷 1993年9月新装改訂版)

荷田在満 『国歌八論』

2012年03月31日 | 芸術
 三枝博音編『日本哲学思想全書』第11巻「藝術 歌論篇」所収。
 印象がひどく近代的である。
 歌とは世の為にもならず、平素の役にも立たぬもの、天地を動かすなど誰が言い出したのかしらぬが出鱈目もよいところと、言いたい放題である。だが歌を貶めているわけではないことが続く行文で分かる。歌とは、ただ好きな者が少しでも上手く詠みたいと思い、他人の良き歌を見ては自分もああなりたいと努めるものである、それだけに一首でも思い通りの出来のものを作ることができれば、それはそれは楽しいものなのだ、と(「翫歌論」)。「翫」とは“もてあそぶ”意。「翫歌」とは、つまり歌をもてあそぶ。歌はむやみに有り難がったりあがめ奉るべきものではないという意味だろう。
 今日の言葉づかいでいえば、歌は芸術もしくは趣味であって、それのみに価値があるのであり、思想や道徳を宣べるための道具ではないといったところ。

(平凡社 1956年4月初版第1刷 1980年7月第2版第1刷)

藤原定家 『毎月抄』

2012年03月26日 | 芸術
 三枝博音編『日本哲学思想全書』第11巻「藝術 歌論篇」所収。
 有名な「紅旗征戎吾が事に非ず(紅旗征戎非吾事)」の句が若い頃の行蔵を弁護するために後から書き足されたものだという指摘を聞いて、卑劣な奴だと余り好きではなかったが(注)、「本歌取りは、あまり多用するものではない。一首にせいぜい二語、上と下に各一つまでにせよ」とか、歌のよしあしとはその歌自身の出来不出来のことである、作者の権威に目を眩まされるな、名のある歌詠みでも出来の悪い作もあるという教えを見て、これも一廉の人物であると見直した。

 。「ウェキペディア」で「藤原定家」を閲してみると、このエピソードについての言及がない。私の記憶違いだったのだろうか。

(平凡社 1956年4月初版第1刷 1980年7月第2版第1刷)

YouTube で田中慎弥氏ノーカット会見を見る

2012年01月19日 | 芸術
「『石原知事に逆襲』芥川賞の田中氏ノーカット会見(12/01/18」
 〈http://www.youtube.com/watch?v=E6cSNDAqJvA

 演技もあると思うが、この人は、自分でも言うように、本当に礼儀知らずなのだろうと思った。
 しかしそれだからといって、有田芳生氏のように、「シャイで正直」と褒めるのはおかしくはないだろうか。「シャイで正直」なら「無礼」でもいいというのは、違うだろう。
 もっとも、田中氏が礼儀知らずだからいけないという気は私にはない。芸術家が、世間のルールを弁えていなければならない義理はない。社会性はあったほうが何かと実生活において都合はよいが、なくても別に構わないくらいのものではないか。作品(結果)が全てだから。基本的にプロはそうだろうが、創造性至上の芸術家はとりわけそうでは。プロとは、「それで生活している人間」という定義があるが(たとえば柳沢きみお氏。『大市民』シリーズにおける)、では、勤め人を、プロのサラリーマンというか。アルバイトでとにかく暮らせている飲食店店員を、接客業のプロというか。簡単にいえば、マニュアルに従って仕事をする、考える、生きる人間を、「プロ」と呼んで良いのかと言う問題である。特に芸術家においては、かえって常識なく性格的にも破綻している人間のほうが、傑作を生み出せるかも知れない。
 そんな人間と、世間の側は厭なら会わなければいいし、芸術家のほうは迫害されたくなければ表に出なければいい。お互いに不幸な目に遇うだけだろうから。もっともこの勝負、芸術家のほうが分が悪いだろう。”末路哀れは承知の上”の道であるが故に。