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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『ロマンアルバム アニメージュスペシャル 宮崎駿と庵野秀明』

2014年05月02日 | 芸術
 御両所の対談部分はそれほどの量ではない。面白いが、お二人とも親しいせいか言葉が簡単で、第三者には発言のそれぞれが水面上に浮かんでいる氷のようにも思え、こちらで想像力を働かせて裾を何倍にも拡大しないと本当の意味がわかりにくい感じがある。

(徳間書店 1998年6月)

世阿弥著 市村宏訳注 『風姿花伝』

2014年04月14日 | 芸術
 当方無識に加え諸本毎のテキストの異同もあって読みにくい。『花鏡』も収録、ただし原文のみ。有名な「初心忘るべからず」は、まず「心」は藝の境地であること、そして昔があって今があるのだから過去の出発点を忘れれば現在自分がいる場所も判らなくなることだと理解した。

(講談社学術文庫版 2011年9月)

山崎努 『俳優のノート 凄烈な役作りの記録』

2014年02月17日 | 芸術
 再読。著者がトミー・リー・ジョーンズと共演するCMを見て。
 本当に面白い本。リー・ストラスバーグやステラ・アドラー、またスタニスラフスキーの同種の著作とは違い、方法論を並べたものではない。よって、読者は「学習する」のではなく「感得する」ことを求められる。
 役者だけでなく訳者にも役立つ本である。いま名前を挙げた三人の著作がそうだったのと同様に、少なくとも私にはそうだった。ただ他の人にもそうであるかどうかはわからない。
 小笠原水軍の文献が秋山真之以外の海軍作戦家に役に立ったかどうかわからないのと同じく。丁字戦法は山屋他人も考えついた。

(文藝春秋 2003年8月。いま2013年10月の増補新装版あり)。

『藝能史研究』 202号 「特集・近世日本・琉球・中国の藝能交流」(2013年7月)

2013年12月05日 | 芸術
 同号収録の武井協三「江戸薩摩藩邸における唐躍りの上演」、紙屋敦之「寛政八年琉球使節の江戸上りについて」、板谷徹「唐躍台本『琉球劇文和解』」で学ぶ。三氏への感謝の念をまず。以下はその内容の、私の興味と観点からする咀嚼である。

 琉球の演劇には、日本の歌舞伎を手本に琉球で作られた琉球語で演じられる組踊(くみおどり)のほかに、中国の話劇がそのまま中国語(漢語)で演じられる唐躍(とうおどり)が存在した。「おどり」と名が付くがどちらも舞踏ではなく劇である。
 前者は中国から歴代琉球王を冊封に訪れる冊封使の前で上演され、後者はもともと王府で王家たる尚氏の観覧に供されたものであるが、琉球王国の薩摩藩従属後、在国中または江戸参府中の藩主島津家一族の前で演じられるようになった。ただし薩摩・江戸のいずれの土地でも、演者は本来の伝承者である中国系琉球人の久米村(唐栄)住民ではなく、彼らから特訓を受けた首里の士族であった。薩摩本国あるいは江戸の藩邸で上演される唐躍の出演者は、唐栄の伝承者を師匠に、本番の一年前から稽古を積んだという。自身も中国語を解し、『南山俗語考』を編んだ島津重豪などは、とりわけ観賞に熱心だったとされる。
 組踊が冊封使の前で上演される際には、漢語で筋書きを記したものが言葉を解さぬ観客に配布されたのと同様、唐躍の場合も、日本語での同様の解説が作られた。それを「戯文和解」という。現在、『琉球劇文和解』(おそらく18世紀末、寛政年間成立。作者は大槻玄沢?)と呼ばれる物が遺っている。
 板谷徹「唐躍台本『琉球劇文和解』の成立と島津重豪」に、東大総合図書館蔵線装本『琉球劇文和解』の表紙および収録された演目の一つ「餞夫」の冒頭部分二頁(一頁は中国語原文、もう一頁はその和訳)の写真が収録されているが、前者を見ると、言語の各行の右側に片仮名で発音が書かれている(左側は同じく片仮名で逐語日本語訳)。それを見るとおもしろいのは、南方系の方言ではなく、北方語であり、j音がkである点を除けば、ほぼ現在の普通話の発音であることだ。つまりそこに書かれている原語もまたそうということである。

 以下は私の感想。
 ただし唐躍が最初からそうだったかどうかは分からない。1579(明万暦7)年には久米村で演じられていたことが謝傑『琉球録撮要補遺』という史料に見える(上記板谷論文。ちなみに謝傑は明の上述年尚永王冊封時の副使)。同記録において久米村人は「閩子弟」と表現されているが、これは久米村の中国系琉球人(所謂三十六姓)が、閩=福建から来琉した人々の子孫だったことによる。つまり彼らの母語は元来、福建系の南方方言(のち北京の国子監に留学して北京語も学ぶようになるが→参考)であり、いまの普通話(北京語)ではないからだ。

鄭問 『鄭問画集―鄭問之三国誌』

2013年11月17日 | 芸術
 劉備と曹操、鬚の形と髪型が異なるだけで、あまり見分けがつきません。この人ならもっと書き分けられるはずなのに(他の人物の肖像でそれは窺える。あるいはこの人の『東周英雄伝』の毎回多種多様な風采の主人公からも)。「美男にしてくれ」という要請があったのか。

(角川書店 2002年8月)。

犬塚弘/佐藤利明 『最後のクレージー 犬塚弘 ホンダラ一代、ここにあり!』

2013年10月23日 | 芸術
 植木等『夢を食いつづけた男』(朝日新聞社 1984年4月)は前に読んでいたが、あれは父親の伝記である。小林信彦『植木等と藤山寛美』(新潮社 1992年3月)で描かれるのはあくまで他人の目からみた植木等とクレージーキャッツ像でしかない。初めて当事者の回想を聴く。

(講談社 2013年6月)

宮崎駿 「『風立ちぬ』企画書」 (2011年1月10日)

2013年06月28日 | 芸術
 〈http://kazetachinu.jp/message.html〉

 私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。


 テーマを他人の目の届く作品の表面に露出させないどころか、自分にさえ言語化を許さず分節も曖昧な儘、むりやり無意識の裡に押さえ込んでおくというのは、尋常でない意思の力が必要だろう。その圧力はもはや狂気といってもいいかもしれない。


大塚康生 『作画汗まみれ 改訂最新版』

2013年04月18日 | 芸術
 『カリオストロの城』(1979年)のアフレコ現場で、最初横柄な態度を取っていた故・山田康雄がラッシュを見たあと態度を一変させて非礼を謝ったという逸話は、この本が出所なのだが、文庫化にあたり増補改訂版を経てさらに加筆修正されたこの版でも、そのまま残っている。(ウィキペディアの同項で、その場にいた小林清志氏が「そんな記憶はない」と言っているという記述が、これも出典つきで示されている。)
 好きかと言えばそれはやや違うのだが、『龍の子太郎』(1979年)は、他のアニメ映画とちょっと異なる雰囲気と世界で、一見以来忘れられない作品である。監督の浦山桐郎が単なるお飾りの地位に収まらず原画やレイアウトチェックに至るまで自ら手を染めていたことを知る。

(文藝春秋 2013年4月)