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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山崎正和 「人間にとって藝術とは何か 近代の藝術論の発見したもの」

2017年02月20日 | 芸術
 『世界の名著』続15「近代の芸術論」(中央公論社 1974年8月)所収、同書5-56頁。

 もちろん、人間のあらゆる営みは理性と感性の両方にまたがっているが、藝術の場合、その両極にたいする関わり方はたんにまたがっているというようなものではない。藝術のなかに理性と感性が混在しているというのも不正確であって、藝術はある意味でたんなる理性以上にものの本質に深入りし、その反面、たんなる感性以上にものの表面に拘泥する性格を持っている。いわば理性以上に理性らしく、管制上に感性らしい性格を兼ねそなえた藝術は、どう見ても人間精神の素朴な二元論にはなじまない存在であるように見えるのである。 (「人間にとっての藝術とは何か」同書25頁)

 ここでの“藝術”をもっと広く“文系学問”もしくは“文学部”と置き換えれば、現在の問題としてそのまま考えることができるのではないか。

 「百万人の餓えた子供にとって、いったい文学には何の意味があるか」 (論文冒頭に引かれるサルトルの問題提起。同書7頁)
 「いったい百万人の餓えた子供は、私の文学にとって何の意味があるか」 (上のサルトルの言葉に続いて紹介される、ある“若いフランスの作家”による、「木で鼻をくくったような」返答。同頁)

コロナ・ブックス編集部編 『日本の笑い 遊び、洒落、風刺の日本美術』

2017年01月21日 | 芸術
 出版社による紹介

 絵的に(対象のとらえ方、デッサン、描法が)未来へ突き抜けていて、時代のほうがあとから追いついた感のあるのは、ひとり耳鳥斎だけではない。義梵・広重もまた。北斎は時代における天才であるようだ。大津絵は先端が時代(一般)と折れ合った姿か。蕪村はそもそも時代が眼中になさそうな。若冲と破笠は無時代というかすこしおかしいのでは。それぞれ瞥見の印象。

(平凡社 2011年12月)

ロビン・トンプソン 『琉楽百控 琉球古典音楽野村流工工四百選 楽譜と解説』

2016年12月26日 | 芸術
 出版社による紹介。 伝統的な楽譜「工工四」の内容を、五線譜では掬いきれない部分があり、反対に「工工四」では、五線譜で示せることが示せない所もあるという、言ってみれば当たり前の消息を知る。実際の演奏を聴いてみたい。

(榕樹書林 2016年9月)

笠智衆 『小津安二郎先生の思い出』

2015年12月11日 | 芸術
 私がこの役者さんを一個の役者さんとして認識したのは、伊丹十三監督『マルサの女2』(1988年)での廃業した元僧侶である。いまにして思えば、このひとにとってはセルフパロディのような役だったので、実に失礼なことをしたものである。無知不覚はおそろしい。

(朝日文庫 2007年5月)

辻聴花 『支那芝居(上・下)』

2014年06月10日 | 芸術
 大空社複刻版、2000年4月。
 面白かった。体裁・記述ともに、とても整理されていて解りやすい。歴史的な沿革も要領よく押さえられている。数年前に崑曲関係の翻訳仕事をしたときに、この書のことを知って読んでいれば、もっとはかが行ったろうと思った。
 閑話休題、しかし、大正12/13年刊の原書になく、この複刻版で巻末参考資料としてあらたに付された中村忠行氏の「中国劇評家としての辻聴花」からうかがえる、著者の聴花若しくは剣堂・辻武雄の為人とその生涯が、書に劣らず興味深い。