2016年01月21日「ガザーリー著 中村廣治郎訳注 『哲学者の自己矛盾』」より続き。
出版社による紹介。
ここでは、ウィキペディア「ガザーリー」項の“イスラーム哲学”で紹介されている通りに、人間における「理性」の存在が当然の前提として措定されている。
それはまさに、「動物」と「理性的」(nāţiq)の語が、人間の本質を形成するものを示すようなものである。というのは、人間は動物であり、理性的であり、人間の中の「動物」の指示内容は、「理性的」のそれとは異なるからである。 (「第一部 第五問題」本書147頁)
つまり著者は人間とそれ以外の動物とを本質において分かつ標識として、理性の存在の有無を立てている。ただしこの書でガザーリーは、理性に限界があることも認めた。あるいは因果律を否定する。つまり、第一原因としての神の力のみを認め、作用因を認めないのである(「第二部 第十七問題」本書264-280頁)。(注)
注。質料因と形相因は神の力のもとでその存在を認められている。
さらにいえば、原子論は認めるがそれと同時に神とその力の存在を「理性的」な判断として認めるなど、非常に興味深い議論が続く。
ところで該書で「理性」と訳される"nāţiq"は、漢語では「代言先知」という訳語が与えられている(『中文伊斯兰学术城』「伊斯兰词汇对照表(中-英)」)。別のウェブ辞書では「世界理性的体现」という説明がある。この「代言先知」という漢語はいかなる意味だろう。
出版社による紹介。
ここでは、ウィキペディア「ガザーリー」項の“イスラーム哲学”で紹介されている通りに、人間における「理性」の存在が当然の前提として措定されている。
それはまさに、「動物」と「理性的」(nāţiq)の語が、人間の本質を形成するものを示すようなものである。というのは、人間は動物であり、理性的であり、人間の中の「動物」の指示内容は、「理性的」のそれとは異なるからである。 (「第一部 第五問題」本書147頁)
つまり著者は人間とそれ以外の動物とを本質において分かつ標識として、理性の存在の有無を立てている。ただしこの書でガザーリーは、理性に限界があることも認めた。あるいは因果律を否定する。つまり、第一原因としての神の力のみを認め、作用因を認めないのである(「第二部 第十七問題」本書264-280頁)。(注)
注。質料因と形相因は神の力のもとでその存在を認められている。
さらにいえば、原子論は認めるがそれと同時に神とその力の存在を「理性的」な判断として認めるなど、非常に興味深い議論が続く。
ところで該書で「理性」と訳される"nāţiq"は、漢語では「代言先知」という訳語が与えられている(『中文伊斯兰学术城』「伊斯兰词汇对照表(中-英)」)。別のウェブ辞書では「世界理性的体现」という説明がある。この「代言先知」という漢語はいかなる意味だろう。