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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「父の遺伝子、食べられ消滅 次世代に伝わらず ミトコンドリアで群馬大 」

2011年10月14日 | 自然科学
▲「msn 産経ニュース」2011.10.14 10:25。
 〈http://sankei.jp.msn.com/science/news/111014/scn11101410270001-n1.htm

 父親のミトコンドリアは食べられて消滅し、遺伝子は次世代には伝わらない-。細胞の中でエネルギーをつくる小器官「ミトコンドリア」で、母親のミトコンドリアの遺伝子のみが子に伝わる母性遺伝をするのは、受精卵の中で「自食」と呼ばれる作用が起き、父親のミトコンドリアを分解するためだとする研究結果を、群馬大の佐藤健教授と妻の美由紀助教(細胞生物学)が14日、米科学誌サイエンス(電子版)に発表した。

 ゲーム『パラサイト・イヴ』を想い出す。あれは、とても面白かった。

沈括著 梅原郁訳注 『夢渓筆談』 全3巻

2011年09月26日 | 自然科学
 実際には、「凡例」および「序文」で書かれているように、京都大学人文科学研究所の共同研究の産物であり、その参加者の草稿がもとになっている。寄稿者の名も明記されている。梅原氏はその草稿作成者の一人であると同時に、それらの草稿をもとに全体原稿を作成し、かつ必要箇所に注釈をつける責任を負ったとある。
 以前、『絵で見る中国の歴史』(原書房、1995年6月)の第5巻「宋・遼・金から元の時代」の翻訳を担当したときに、科学史の部分でこの書籍の名が出てきたのと、この本にしか見えない畢昇の膠泥活字の記事(第2巻183-184頁)についての言及もあったために、この平凡社刊の訳注書に当たった。しかし全巻を通読はしなった。正直あまりおもしろくなかったからである。その後も必要な部分をたびたび開きはしたが、読み通してはいない。それが今回、最初から最後まで目を通したのは、宋時代の科学者の意識や雰囲気の一端を知ることができるかという、通読へのインセンティブが、16年経ってこちらに生まれたためである。(我ながらグズだねえ。)
 そうしての通読しての感想は、あまり科学する心は感じられないというものである。沈括は科学者というよりは技術者であろう。ただし好事家の部分が多少あって、これは中国の士大夫には珍しいと思える。彼の場合、この性質は知りたいから知るその結果としての博学という形で出た。この物好きという個性は、ほぼ同時代の蘇軾においても見られるものだが(彼の場合は自由なあるいはしばしば突拍子もない発想という現れ方をした)、それが宋代――正確には北宋時代――の時代精神かと問われれば、いまの私には判らない。
 だが、故事来歴を述べた部分や区々たる考証の部分は(これがまた案外多いのだが)やはりおもしろくない。それを知っておかねばならない必要性が、まだ私にはないから。

(平凡社 1978年12月/1979年12月/1981年11月)

「人類の免疫系を強くしたのは、ネアンデルタール人らとの性交渉」 を読んで

2011年08月28日 | 自然科学
▲「AFPBB News」2011年08月26日 18:08 発信地:ワシントンD.C./米国。(部分)
 〈http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2822445/7674411

 現生人類が病気と闘う上で不可欠な遺伝子は、ネアンデルタール人やデニソワ人などの原始人類との性交渉を通じて継承されたとする米仏などの研究チームによる論文が、25日の米科学誌サイエンス(Science)に発表された。
 

 ネアンデルタール人、デニソワ人と現生人類は約40万年前に共通の祖先から分岐したと考えられているが、現生人類は約6万5000年前にアフリカからアジア、ヨーロッパへと生息域を広げていき、2つの近縁種を凌駕した。既に、ネアンデルタール人のDNAの約4%、デニソワ人のDNAの最大6%が現生人類の一部に引き継がれていることが分かっている。
 今回の研究では、新たな病原体を撃退できるよう免疫系の適応を助ける「白血球抗原(HLA)クラスI遺伝子」に着目。その結果、遺伝子変異体「HLA-B*73」の起源がデニソワ人まで遡ることを発見した。デニソワ人は西アジア付近で現生人類と交雑した可能性が高いとされているが、HLA-B*73は現代アフリカ人に見つかることはまれな一方、西アジアでは一般的だ。


 とまれ面食いは悪ということですか。

増田彰久・写真 大田省一・文 『建築のハノイ ベトナムに誕生したパリ』

2011年06月22日 | 自然科学
 仏領インドシナ時代のコロニアルスタイルを、越仏様式と呼ぶらしい。
 素人目には、それらの建物は、ベトナムに持ち込まれたフランスの建築様式が、ベトナム土着の伝統様式と融合して生まれた何かのように見える。実際にこの目で見たこのうちのいくつかはまさにそうだったし、この書に収められた見事な写真の数々で初めて目にする建物群も、そうである。ベトナムはいまは漢字をつかわないのだが、“越仏様式”という名前と字面が、実にふさわしく思えた。
 なお、個人的にはちょっと残念なことに、一般の民家については触れられていない。以前にも名を挙げたハノイの旧市街(36街)では、古い町家がまだまだ残っているが、郊外は破壊が進んでいるところもあるらしい。たしかに市内と空港の間を見ただけでも、中心から遠くなるほど町並みの印象が乱雑になった。

(白揚社 2006年4月)

H. バターフィールド著 渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』 上下

2011年04月25日 | 自然科学
 物事をより綿密に観察するだけでは、アリストテレス的理論から逃れることはとうてい不可能であった。ことに、出だしを間違って、込み入ったアリストテレス流の諸観念に足を取られてしまっていてはなおさらのことである。 (「第一章 いきおいの理論 その歴史的重要性」上巻24頁)

 後半は先入主もしくは初学のおそるべきを説いたものであるが、ここでさらに重要なのは前半である。アリストテレス説が完全な真空の存在を否定したのは、他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提で、空気抵抗がゼロになれば物体の速さは無限大になる、すなわち完全な真空中では物体はある場所からある場所へ即時に移動することになる、それは非合理であるというものだった(同上)。
 当時は完全な真空をつくることは言うまでもなく、なおかつ上の実験をその中で行いなおかつそれを観察する環境を作り出すことはますます困難であった。しかしこの結論の誤謬は、「他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提」が誤っていたからである。そしてこの前提は、人間の日常レベルで観察をいくら注意深く細部にわたって行おうとも解決するものではないと、著者は言う。

 古い思考体系の枠内でどれほど綿密に観察しても、この問題は解決できず、どうしても思考の転換が必要とされたのである。 (同、25頁)

 著者はガリレオの偉いところは、これを行った、つまり前提(=仮説)を転換したところにあるという。実験による検証可能な仮説を設けることにしたことである。
 新しい思考への転換は(12世紀以降胎動はあったが)一般的にはなかなか起きなかった。くりかえすが、日常レベルでの観察とそこから生まれる仮説に比して現実に可能な実験とそれによる検証には水準の懸隔があったからである。
 だから、古い思考的枠組みは、中世の後半期というかなり長い間生きながらえることができた。最終的な検証が不可能であったためである。

 中世も後期になると、実験を行なって思考の領域を押し広げようとする人々も現れたが、その彼らも、多くは、いきおいの理論を唱えた人々と同じく、アリストテレスの体系の周辺で何かやっていたというだけのことであった。紀元一五〇〇年になっても、このアリストテレスの体系は、理性的な思想家の目に、十五世紀昔と同じ正当性をもっているように映ったに違いない。 (「第五章 実験的方法の確立 十七世紀における展開」上巻130頁)

 と、著者は書く。「違いない」と文飾上推測めかして書いてあるが、このことは幾多の実例のある、れっきとした歴史的事実である。その証拠に著者はこう続ける。

 中世後期には、自然を細心に観察し、その観察を大いに正確なものにしていった人々も出てきたが、そういう人たちも、純粋に記述的な事項を百科事典的に積み上げるのみであった。何か説明を要する事がらにぶつかると、これらの人々は、観察そのものから自分の理論を引き出すということはしないで、古代哲学が与えてくれた説明の全体系に頼るのであった。/十七世紀初頭にフランシス・ベイコン卿は、観察と理論がこのように遊離している状態を嘆いている。 (同。130-131頁)

 だからたとえば、古代以来中世の四元素説では、四元素の火・空気・水・土はそれぞれ異なる「徳の高さ」と「高貴さ」を持ち、その差によって格付けされていた(「第二章コペルニクスと中世の伝統」上巻42頁)。土がもっともいやしい物質とされた。だから重く、下に沈むのである(その次にいやしい水も同じ)。元素はおろか、重さ・軽さ、上(昇)・下(降)といった自然の事象や現象に価値判断がくっついている。物理法則と倫理原則が未分化の状態である。コペルニクスがプトレマイオスの天文学理論に反旗を翻したのは、プトレマイオスの天文学理論が客観的データに背馳するからではなく、彼の信念(先入主・初学)であるところの「不動性は運動よりも高貴であるというプラトン的またピタゴラス的思想と結びついた考えを持っていて」、それがゆえに太陽が動くはずはない、中心にあるべきだという結論(地動説)へと至ったのであった(同、56頁)。彼の『天球の回転について』は1540年刊行である。
 自然科学の領域でさえいわゆるパラダイムシフトにこれほどまでに(数十年、あるいは数百年)の時間がかかるとすれば、さらに実験と検証の困難な社会科学やそもそもそれが不可能というか時として不要であるようにさえ見える人文科学においては、いったん頭脳に入ってしまった思考(先入主・初学)からのパラダイムシフトというのは実現が極めて困難ではないかと思える。あるいは、思想そのものの正否や信頼性には関係なく、まさに“空気”によって一夜にして転換という極端な変わり方をするか。

(講談社 1978年11月第1刷 1990年9月第9刷/1996年4月第15刷) 

伊東俊太郎責任編集 『科学の名著』 8 「イブン・スィーナー」

2011年03月13日 | 自然科学
 『医学典範』収録(五十嵐一訳注、佐藤達夫校閲)。伊東俊太郎による序説「アラビア科学とイブン・スィーナー」、五十嵐一による解説「イブン・スィーナー」付き。

 冒頭すぐ、アリストテレスの「四原因説」が全体の基本的視座――医学に限らず学問全般の目的は諸原因の探究でありその知識の獲得であるという――として出てくる(「第一教則」「第二章 医学の諸課題について」)。そこから見るかぎり、イブン・スィーナーは、原因を、主として目的因としてとらえているようである。こんにちでは原因とは作用因(起動因・動力因)のことであるという理解が一般的である。因果関係の原因など、まさにそれだ。この彼我の違いについて訳注、序説、解説のいずれにも説明がないが、私なりの推測としては、この世のすべてを作ったのは神(アッラー)であり、それしかなく、さらにはそのことを疑える余地がなかったからであろう。すべてが神の御業ということであるなら、これでは力学が発達するはずはないと思える。

(朝日新聞社 1981年11月)

三田博雄責任編集 『科学の名著』 7 「ギルバート」

2011年03月03日 | 自然科学
 ウィリアム・ギルバート
 巻頭吉田忠氏解説「ギルバートの磁気哲学」に付けられた「参考文献」と、本巻「月報」に寄せられた板倉聖宣氏の文章「科学の古典の読み方 ギルバートとデカルトの磁石論」から、板倉氏が『磁石論』の抄訳を出版されていることを知る(仮説社、1978年)。調べてみると2008年に新版が出ていた。

(朝日新聞社 1981年3月)

『科学の名著』 2 「中国天文学・数学集」

2011年01月31日 | 自然科学
 収録文献は「劉徽注九章算術」(川原秀城訳)、「周髀算経」(橋本敬造訳)、「霊憲」(橋本敬造訳)、「渾天儀」(橋本敬造訳)、「晋書天文志」(橋本敬造訳)。

 中国では論証的な幾何学がまったく発達しなかった。論証幾何学はギリシア数学の大きな成果であって、西暦前三世紀のユークリッドの『幾何原論』に展開された。定義、公理、公準より出発し、その基礎の上に立って定理の証明が行なわれる。一九五三年のころアインシュタインは次のような手紙を書き送った。
 「西洋科学の発展は二つの大きな成果に本づいている。すなわちギリシア哲学者による形式論理の体系の発明(ユークリッド幾何学に見られる)と系統的な実験による原因・結果の関係をみつける可能性の発見(ルネサンス期における)である。私の考えでは中国の賢人たちがこの順序を踏まなかったことに驚く必要はない。驚くべきことは、これらの発明がすこしもなされなかったことである。」
 中国で近代科学が発達しなかった理由の一つとして、アインシュタインは論証幾何学が存在しなかったことを挙げている。
 (藪内清氏の解説「中国の数学と天文学」本書19頁)

 太字は引用者による。この太字部分は、林思雲氏が『新・中国人と日本人 ホンネの対話』(日中出版 2010年11月)で引用されたアインシュタインの発言と同じ箇所であろう。ただ、林氏の引かれた中国語訳からの引用文は、最後の部分が異なって、「驚くべきなのは、近代科学が西洋で誕生しえたことこそなのだ」となっている。

 「西洋科学の発展は、ふたつの偉大な達成の上に築かれている。それは、ギリシャ哲学家の発明した形式論理体系(ユークリッドの幾何学における)と、系統的な実験を通して見いだされた因果関係の発見(ルネサンス時期)である。中国の賢人たちは、この二つの道を歩まなかった。中国に近代科学が生まれなかったのは驚くに当たらない。驚くべきなのは、近代科学が西洋で誕生しえたことこそなのだ」(『アインシュタイン文集』、中国語版、商務印書館、一九七六年から)
 (林思雲「総論 中国人の思考様式」、同書257頁、金谷譲日本語訳。太字は引用者)

 どちらか、あるいは両方が間違っている。「双方意訳」で収まる範囲内ではない。

(朝日新聞社 1980年11月)

青木靖三 『ガリレイの道 近代科学の源流』

2011年01月20日 | 自然科学
 本質的な原理は命題ではなく事物である。そしてまたこの本質的原理はあらかじめ知られておらねばならないものではない。・・・・・・そしてこの原理が証明されるのは後天的にであって、先天的にではない。(下線部原文傍点)
 
 著者は、16世紀後半にパドヴァ大学教授であったツァバレラの言葉の以上の言葉を引きながら、次のように主張する。

 自然現象の数量的規定といわれる近代的科学方法論も、もし論証的方法がその絶対的優位を占めつづけ、アリストテレスの原理が先天的に承認され、結果より原因が、事物より原理が、感覚的知覚より抽象的原理が本質的であると考えられているかぎり、いかなる観察、いかなる実験と同じようにその真の威力を発揮することはできないであろう。 (以上「ガリレイとアリストテレス説」本書46-47頁から)
 
 その“原理”とは、アリストテレスのそれに限らない。「先天的に承認される抽象的原理」であるかぎり、その何であるかを問わないであろう。つまりイデオロギー、ドグマということだ。

(平凡社 1980年12月)