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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

リチャード・ファインマン著 大貫昌子訳 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』 Ⅱ

2005年12月14日 | 自然科学
(本日、田端光永/田端佐和子訳『天雲山伝奇 中国告発小説集』より続く)
 再読。
 巻末の「カーゴ・カルト・サイエンス」から。

“ですからここでわれわれは実際に役に立たない理論や、真の科学でない科学をもっときびしく吟味する必要がありそうです。
 今あげたこういう教育上のまたは心理学上の研究は、実は私が「カーゴ・カルト・サイエンス(積荷信仰式科学)と呼びたいと思っているえせ科学の例なのです。南洋の島の住民の中には積荷信仰ともいえるものがある。戦争中軍用機が、たくさんのすばらしい物資を運んできては次々に着陸するのを見てきたこの連中は、今でもまだこれが続いてほしいものだと考えて、妙なことをやっているのです。つまり滑走路らしきものを造り、その両側に火をおいたり、木の小屋を作って、アンテナを模した竹の棒がつったっているヘッドホンみたいな格好のもの頭につけた男(フライトコントローラーのつもり)をその中に座らせたりして、一心に飛行機が来るのを待っている。形の上では何もかもがちゃんと整い、いかにも昔通りの姿が再現されたかのように見えます。
 ところが全然その効果はなく、期待する飛行機はいつまで待ってもやってきません。このようなことを私は「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼ぶのです。つまりこのえせ科学は研究の一応の法則と形式に完全に従ってはいるが、南洋の孤島に肝心の飛行機がやってこないように、何か一番大切な本質がぽかっとぬけているのです。
 むろんここで私は何がぬけているのかを申し上げる義務があるわけですが、これはそうなかなか一口で言えるようなものではありません。それは実際に彼らの社会組織に富を導入するにはどうすればよいかを、この南洋の原住民たちに説明するのと同じくらい難しいことなのです。単にイヤホーンの格好をもう少し改善しろというようなわけにはいきません。ただ私の見るところでは、このカーゴ・カルト・サイエンスで必ずぬけているものが一つあります。それは諸君が学校で科学を学んでいるうちに、きっと体得してくれただろうとわれわれが皆望んでいる「あるもの」なのです。その場でそれが何であるかは取り立てて説明しないけれども、とにかくたくさんの科学研究の例を見て、暗黙のうちに理解してくれるだろうとわれわれが心から願っている「そのもの」です。ですから今これをはっきり明るみに出して、具体的にお話するのは有意義なことだと思います。その「もの」とはいったい何かといえば、それは一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、言うなれば何ものもいとわず「誠意を尽す」姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも、一つ残らず報告すべきなのです。その実験に関して正しいと思われることだけではなく、その実験の結果を説明できるかもしれない他の原因や、他の実験の結果から説明できるものとして省略してしまったことがらや、その実験の経過など、ほかの人にも省略したことがはっきりわかるように報告する必要があるのです” (本書259-260頁。赤字は引用者による)

 “「誠意を尽くす」姿勢”? 中国の奴才にも、そして日本の馬鹿にも、そんなものはありはしない。ないから今日のようなトラブルになっている。

●「アジアの安全な食べ物」サイト、2005年6月25日
 →http://blog.livedoor.jp/safe_food_of_asia/
 
  参考:「真性引き篭もり」サイト、2005年8月1日
   「『アジアの安全な食べ物』という犯罪者と、それに踊らされる馬鹿。」
    →http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/213874/

 「アジアの――」の作者は愚かではない。それどころかかなり知的水準は高い。指摘している中国の状況は基本的に事実だし、かなりの程度真実でもある。だが、“「誠意を尽くす」姿勢”において十分だとは、言葉遣いは違うながら「真性引き篭もり」サイトの筆者がその点をきびしく非難するように、言えない。結局は馬鹿――鼻先思案や小刀細工にだけ長けた利口馬鹿――だといわざるをえない。(上記これらウェブサイト2つの存在をご教示くださったX氏に、厚く御礼申し上げます。)

 ただしである。

●「Sankei Web」2005年12月14日、「前原代表 胡主席と会談断念 日中問題『永遠に解決せず』」
 →http://www.sankei.co.jp/news/morning/14pol002.htm
●「Sankei Web」2005年12月13日、「『中国は有史以来の平和国家』 外務省副報道局長」
 →http://www.sankei.co.jp/news/051213/kok114.htm

 前原誠司氏は馬鹿ではない。秦剛氏は奴才である。
 日中の同種の事象を比較していると、この種の差異をときどき見出す。中国側の途方もなさにくらべれば、日本のほうがまだましと思えてくるのである。これは、日本側が「スケールが小さい」「いじましい」ということで、その光の当てかたを変えた言い換えでもある。これをさらにできるだけ中立的な言葉で表現するとすれば、「生真面目」「実直」「律儀」であろう。日本と比較した場合、中国側にこれらの性質が概して少ない(すくなくとも表面に出てこない)とは、まあ言って良かろうと思う。

(岩波書店 1986年7月)

トマス・ハル編 川崎敏和監訳 『折り紙の数理と科学』

2005年08月09日 | 自然科学
 完敗!

(森北出版 2005年5月)

▲「小泉首相は『自民党をぶっ壊す』という自らの最大の公約を守った」と謂うべきか否か。
 以下を読みながら考えた。
 
→「立花隆のメディア・ソシオ‐ポリティクス」

第27回(7月7日)「郵政民営化問題で現実味帯びる小泉首相の政治生命の終焉」
http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050707_syuen/

第33回(7月29日)「自民分裂選挙で見えてきた政界一大再編劇の裏の裏」
http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050729_uranoura/

第35回(8月5日)「決戦は月曜日! 国民が祝福する『郵政法案』否決・解散総選挙」 
http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050805_monday/

中谷宇吉郎 『科学の方法』 

2005年07月14日 | 自然科学
 この書の第1刷は1958年で、かなり内容的には古くなっているのだろうが、自然の綿密正確な観察・推論による仮説の構築・実験による仮説の検証という科学的思考方式の基本に変わりはない。なにより達意の文章で読みやすい。 
 リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』 (→昨日欄)と同じで、時に行う、知的リハビリとでも名付くべき作業である。これらを一部または全部欠いた人々のざれ言を絶えず目にし耳にしていると、知らず知らずの間に彼らの馬鹿が染っている可能性がある。

(岩波書店 1969年7月第14刷)

▲今年は雨が集中的で降りかたが激しい。毎年、庭のサンショウの木にアゲハチョウが卵を産みに来るのだが、今年は豪雨のおかげで幼虫が全滅である。しかしつい先日めずらしく黒アゲハが来たと思ったら卵を産み付けていったらしい。今日、まだほんの小さな幼虫を発見した。今度は無事に育ってほしいものだ。もっともいればいるで、三歳になったばかりの息子が揺さぶって振り落としてしまうのだが・・・・・・。

リチャード・ドーキンス著 日高敏隆ほか訳 『利己的な遺伝子』 

2005年07月13日 | 自然科学
 著者は冒頭まもなく念を押している。

“まず私は、この本が何でない〔原文傍点〕かを主張しておきたい。私は進化にもとづいた道徳を主張しようというのではない。私は単に、ものごとがどう進化してきたかを述べるだけだ。私は、われわれ人間が道徳的にいかにふるまうべきかを述べようというのではない。私がこれを強調するのは、どうあるべきかという主張と、どうであるという言明を区別できない人々、しかもひじょうに多くの人々の誤解をうける恐れがあるからである” (1「人はなぜいるのか」 本書18頁)

 こういう人は沢山いる。
 以下、興味ぶかい箇所の抜き書き。

“私自身の感じでは、単に、つねに非情な利己主義という遺伝子の方にもとづいた人間社会というものは、生きていくうえでたいへんいやな社会であるにちがいない。しかし残念ながら、われわれがあることをどれほど嘆こうと、それが真実であることに変わりはない” (1「人はなぜいるのか」 本書18頁)

“もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう。われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教える〔原文傍点〕ことを試みてみようではないか” (1「人はなぜいるのか」 本書18頁) 

“利他主義と利己主義の(略)定義が行動上のものであって、主観的なものではないことを理解することが重要である。私は(略)利他的に行動する人々が「ほんとうに」かくれた、あるいは無意識の利己的動機でそれをおこなっているのかどうかといった議論をしようとはおもわない。(略)当の行為が結果として、利他行為者とみられる者の生存の見込みを低め、同時に受益者とみられるものの生存の見込みを高め、さえするならば、私はそれを利他行為と定義するのである” (1「人はなぜいるのか」 本書20頁)

“DNAの真の「目的」は生きのびることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない” (3「不滅のコイル」 本書77頁)

 この書の批判者だけでなく、私が直接間接に知るかぎりの賛同者の多くもまた、ドーキンスの言う利己主義(そして利他主義)を、道徳的・主観的なものとして理解している。
 ところでドーキンスは以下のように但し書きしている。

“われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるよう指図するが、われわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない” (1「人はなぜいるのか」 本書19頁) 

 批判者も賛同者も、ここは読まなかったのか?

(紀伊国屋書店 1994年11月第13刷)

板倉聖宣 『ぼくらはガリレオ』

2005年05月12日 | 自然科学
 ガリレオ・ガリレイの業績(正確には『新科学対話』)のやさしい解説というべき内容である。『新科学対話』は三人の会話(つまり鼎談)形式を取っている。この本も鼎談(もっとも子供の)形式で、この点また同様。
 ところでこの本には『科学並不神秘』という名の中国語版が存在する。何益漢という人の訳で北京の科学出版社から出ている。海賊版である。私が持っているのは1980年2月第2刷を仮説実験授業研究会が日本で写真製版したものだ。日本語版のほぼ忠実な翻訳であることが、このたび原書を読んでわかった。ちなみに第2刷の奥付によれば初版は1978年2月、つまり中国において改革開放の始まった年である。

(岩波書店 1981年11月第11刷)