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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田慶児 『混沌の海へ 中国的思考の構造』

2018年09月10日 | 地域研究
 過去の議論からの続き。

 「孟子は、分析的理性の働きが実践的有効性の限界をこえるとき、それを『穿鑿』とよんできびしく非難した」(「中国の文化と思考様式」"4 分類原理と技術的思考" 24頁)とある。これは原文は『孟子』のどこだったかしらん。出典の指示がないので。
 もっとも私も、“何か”の概念が「実践的有効性の働きをこえるとき云々」という意味の似たようなくだりを読んだ憶えはある。ただ「分析的理性」という概念が『孟子』のなかにあったことは知らない。
 そして山田先生は「ジェスイットの指摘」によればとしたうえで、「中国人は理性の自然の光にしたがってさまざまな観念を比較し、正確な結論をみちびきだす」とされるのだが(同"6 フィルターの変質と近代の変質"35頁)、彼らの中国理解は“理”を理性ratio他と理解翻訳する体の表面的なものではなかったか。
 イエズス会の宣教師は、彼らが見たいものを見た、あるいは極言すれば西洋へ報告する際の都合のよいダシに中国を使ったと、私は考えている。それを受け取った西洋の人間も、自分に都合がよいから受け入れたのだと。

(筑摩書房 1975年10月)

"The Cambridge History of Science", Vol. 4, 'The Eighteenth Century'

2016年09月14日 | 自然科学
 出版社による紹介。

 '29 China' (Frank Dikötter)に関して。
 考証学を初めとする清代の「実証的」で「客観的」な学術を、明末にイエズス会がもたらした西洋科学・技術の影響によると断定してある。その論拠かつ先行研究としては、 Benjamin A. Elmanの"From Philosophy to Philology: Intellectual and Social Aspects of Change in Late Imperial China" (Univ of California, 1984)を挙げてある(p. 682)。そこで第2版ながら該書を検してみたところ、その影響が具体的に見える地理学・天文学・暦学・数学などについてはそう書かれているが、漢学即ち考証学そのものについてそう言っているわけではない(注)。すわこれは大変と期待してあてがはずれた。従来のやり方で証拠を得るのは無理。

 注。しかも版が違うせいか該当する議論の部分が注で指定された頁とは違っており、互いに離れた数頁に散在していた。

(Cambridge University Press, 2003)

岡田英弘/神田信夫/松村潤 『紫禁城の栄光 明・清全史』

2016年07月27日 | 東洋史
 わが国の教育勅語においては忠君愛国が強調され、尽忠報国が国民の義務とされていたのに対し、六諭が一般庶民の道徳として尽忠報国を要求していないことは、いちじるしい相違点である。これはなぜかといえば。シナでは臣と民とが別のものだからである。臣とは官僚のことで、皇帝の恩顧にこたえて忠誠をつくす義務がある。しかし民すなわち一般の庶民は、皇帝とは直接関係がないので、忠誠の義務もしたがってないわけである。これは秦代以来そうであった。 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 それは何の関係もない人間にどうして年貢を納めねばならんのかと思っても不思議ではない。

 六諭にあげられた徳目は、どれをとってもシナの村落社会では大むかしから実行されてきて、まったくの常識になっているものばかりである。それをことあたらしく六諭という形式で発布した目的はなにかというと、こうしただれひとり反対できない徳目を、みんなに斉唱させるという点にあるのである。斉唱しているうちに、皇帝はすべての道徳の最高の権威であるということになってくる。これが皇帝の人民支配につごうのよい武器になる
 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 いまやアルタンはモンゴル人のハーンたるのみならず、数十万の漢人のコロニーの支配者にもなったのであるから、元の世祖以来の伝統からすれば、皇帝と称する資格は十分にあったわけである。こうして漢人たちがモンゴルを北朝、これに対して明を南朝とよび、ふたつの帝国が対立しているものと考え、アルタンにさかんにすすめて山西方面を経略せしめ、ゆくゆくは北シナを征服させようとしたのであって、一五六七年にアルタンが大挙して山西を蹂躙し、男女数万を殺したのはその影響と思われる。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“漢人の集団移住”、104-105頁)

 この“北朝”“南朝”という捉え方、考え方がやや非伝統的に思える。南北朝時代の状況を念頭においた語彙と表現ではあろうが、南北朝に範を取ること自体が通常ではないのではないか。

 念のためにいうが、朝貢というのは、中国の伝統では、友好国の大使が定期的にシナの皇帝を訪問することをさすだけである。だからここでアルタン・ハーンのモンゴルが明の朝貢国になったというのは、決して彼らが明の皇帝の臣下になったことを意味しない。明側からいえば、朝貢を許可するのは、単に相手を独立国として承認する手続きにすぎない。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“平和のおとずれ”、107頁)

 対等者という概念とそれをとりあつかう制度が存在しないのだから、仕方がないといえば仕方がない事態ではある。

 ちょうどその時代は、マテオ・リッチはじめ多くのイエズス会の宣教師によって天文学、暦学、数学、地理学など西洋の科学知識が中国に輸入され、その実証主義的方法が中国の知識人に影響をあたえていた際でもあった。儒教の経典に対する実証主義的研究は、清朝の盛世とともにいよいよ発達し、これを考証学といった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、304-305頁)

 考証学の研究方法というのは、まずもっとも正しいテキストをえらび、その一字一句について本来の正確な意味を、文献上の根拠をあげて追究してゆくのである。つまり主観に偏した宋明の学者の態度とはまったくことなり、あくまでも客観的に解釈して帰納的論断をくだすという科学的な文献学に類するもので、儒教の研究に新生面をひらいたのであった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、305頁)

 上2件。実証主義、そして帰納は、西洋の科学学術からの輸入ということか。

吉田公平 『陽明学が問いかけるもの』

2015年10月14日 | 抜き書き
 明代末木に中国にやってきたマテオ・リッチは『天主実義』で、天主の被造物のなかでは、人間のみが「能く理を論ずる」理性を賦与された存在であるがゆえに、人間の本質は理性であると主張し、それを「元性」「良性」と表現した。人間のみが理性に基づいて天主の教を理解でき、それに導かれて後天的に倫理・道徳を身につける(これを「習性」「第二の性」という)のだという。理性そのものは価値中立的な作用機能であるから、ひとたび賦与された理性それ自体はつねに天主の意向に沿う形で機能するとは限らない。また、理性が後天的に倫理道徳(善)を取得するといっても実際に十全に取得し実践することは不可能である。ましてや、この理性をくらます誘惑に満ちた身体的社会的制約下にあっては、理性の力のみで自己を悪の世界から解放することはまことに不可能である。だから、天主の恩寵と救済をまったはじめて人間は救済されるのである。理性を賦与されているとはいえ、人間は自力のみで自らを救うことができるほどに強くは造られてはいないのだという。いわゆる他力救済論なのである。このイエズス会のグループの人々は、新儒教の性善説の構造を自力救済論と理解した。それは人間の弱さ、背理可能性を見失った、誤れる救済論であると、てきびしく非難した。 (「王陽明の朱子学批判 四 性善説=自力救済論」 本書128-129頁)

(研文出版 2000年5月)

Deism - Wikipedia

2015年08月06日 | 西洋史
 https://en.wikipedia.org/wiki/Deism#cite_note-32 …

 In particular, the ideas of Confucius, translated into European languages by the Jesuits stationed in China, are thought to have had considerable influence on the deists and other philosophical groups of the Enlightenment who were interested by the integration of the system of morality of Confucius into Christianity.
 ('3.1.1 Discovery of diversity' )

 つまりイエズス会宣教師によるバイアスのかかった報告や中国古典のラテン語訳が、西洋におけるdeism=理神論のかなり大きな起因となっているわけだ。

藪内清 「李朝学者の地転説」

2014年11月29日 | 地域研究
 『朝鮮学報』49、1968年10月所収、同誌427-434頁。

 洪大容の地転説について、燕行使として清に趣く機会のあった洪が、そこでイエズス会士から聞いた可能性があるとして、その起源を西洋学術に見ている。

 それを聞き知った朴趾源が特にこれを洪大容の創始として強調したように思わわれて〔ママ〕ならない。 (433頁)

 洪大容にはじまり朴趾源によってその創始が強調された地転説は、単に地球自転にふれるだけで、コペルニクスの地動説に比べてきわめて単純なものであった。このような説が十八世紀になってはじめて唱えられたということは、朝鮮が中国を経て間接的に西洋を知るほかなかったことに原因するするもので、むしろ朝鮮にとって不幸なできごとであったとさえ思われる。 (432-433頁)

伊東貴之 『思想としての中国近世』

2014年10月10日 | 東洋史
 「清代の客観実証主義的な学風の興起は」「当時の社会の相対的な安定と成熟という条件の下の」「思想の学問化とでもいうべき」「思想それ自体が内包する展開過程〔略〕によってもたらされたと見るべき」(「第五章 近世儒教の政治論」139頁」)と断ずる一方で、「清朝考証学の形成に際しては、イエズス会などによってもたらされた西洋の近代科学が、少なからぬ影響を及ぼしたという指摘がある」(「終章『中国近世という思想空間』237頁)としながら、その「指摘」を行った先行研究については注で名を列挙するだけで議論を検討しない。では「外在的な要因が第一義的に作用したとは考えにくい」(139頁)という著者の判断根拠は何なのだろう。

(東京大学出版会 2005年6月)

堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』上下、就中下の読後感

2014年09月03日 | 西洋史
 2014年08月13日「堀池信夫 『中国哲学とヨーロッパの哲学者』 上」より続き。

 イエズス会による経典翻訳、教義紹介以来、ながらく西洋人は、儒教の「理」を、あるいは「理性」「理法」「この世の根本法則」「原因」と見、あるいは「神」とし、また「道」を、「自然法」あるいは「倫理」と看做してきた。それらはすべて、自分たちの尺度にひきよせて解釈したものだった。

(明治書院 2002年2月)

Jean-Claude Martzloff, "A History of Chinese Mathematics"

2014年08月21日 | 自然科学
 出版社による内容紹介
 ベトナムの数学の歴史について、中国数学との関わりにおいて言及されている。

 15世紀に『九章算法』と『立成算法』という名の数学書がベトナム人の科挙合格者によって編纂された。その2世紀後、明・程大位の『算法統宗』が中国からもたらされた。17世紀から19世紀にかけては、中国でイエズス会宣教師により翻訳された西欧天文学の書籍が伝わった。(要訳
 ('10. Influences and Transmission', 'Contacts with Vietnam', p.110.) 
 
 『九章算法』と『立成算法』については内容に関する説明がないが、『九章立成算法』という書籍をこちらで見ることができる。
 これが本書で言う『立成算法』と同じものかどうかは判らない。ただ、この『九章立成算法』は、漢語で書かれている。両者もし同一物であれば、もうひとつの『九章算法』も漢語で書かれていた可能性がある。

(Springer Verlag, 2006)