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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

野地秩嘉 『美しい昔 近藤紘一が愛したサイゴン、バンコク、そしてパリ』

2013年12月03日 | その他
 故近藤氏はかなりの操作を交えて『サイゴンから来た妻と娘』およびその続編を書いたということらしい。事実を正反対に曲げたり捏造したりすることは基本なかったが、潤色を加えて陰翳を変えたり、その出来事を語る上では重要な要素をあえて抜いたりしたというのが、筆者の意見である。ストーリーテラーとしての素質の強い人だったからと、筆者はわりあい好意的なふうに見える。

(小学館 2013年8月)

小松政夫 『のぼせもんやけん2 植木等の付き人時代のこと。』

2013年10月31日 | その他
 回想記もしくは自伝と思って読んでいたら、最後に「これは小説です」という旨の断り書きがあった。

  この作品は事実を基に創作した書き下ろし小説です。当該の人物・団体に許可を得て、一部実名を使用しておりますが、基本的に実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 どういうことだろう。

(竹書房 2007年12月)

原由子 『あじわい夕日新聞 ~夢をアリガトウ~』

2013年09月23日 | その他
 図書館で予約して、やっと順番がまわってきた。なんということのない日常の話題が(もちろん音楽のことやそちらの世界のことも書いてあるのだが)、なんの飾り気のなく、しるされている。「あとがき」の旦那さん(もちろん桑田佳祐さん)の言葉によれば、それが「彼女らしさ」なのだそうだ。

(朝日新聞出版 2013年5月)

平石直昭 『一語の辞典 天』

2013年06月07日 | その他
 中国と日本における“天”の理解とありかたについて、知識の補足と整理。
 なお天人相関説(=天人合一説)について、人が天に悪しく影響することは書いてあるが(天譴説=災異説)、良きように影響するか否かの点についてはほとんど書かれていない。わずかに瑞兆に関してのみ語られる。

(三省堂 1996年4月)

桜井邦朋 『日本人の知的風土』

2013年02月28日 | その他
 この人の著書は、2005年06月23日『福沢諭吉の「科学のススメ」 日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む』以来2冊目。前作は理系の専門家が福澤の理系の著作(彼もまた多分に理系の才質があった)を読み解けばどうなるかと点で非常に興味深かったが、もっと驚いたのはその自由な発想であった。福澤は思想史や歴史の対象、つまり文系の範疇というような垣根論をまるで無視しているところに驚いたのである。しかし、考えてみれば当たり前のことで、内容が理系なのだから理系の人間が手を着け評価すべきものであった、最初から。
 その著者の日本心性論であるが、日本人は論理的でないという主張には同意しかねる。結論が先にくるか後にくるか、あるいは相手との知識共有水準に合わせて主語はおろか言説を省略するというのは、あくまで結論や主語(主題でもいいが)やもともと筋道だった言説があるという前提もしくは共通項があるということだ。すなわち形式論理の範疇の内である。非論理的(つまり形式論理が存在しない)というのは、例えば中国の愛国者はおろか政府スポークスマンでさえが口にする発言のことだ。理解不能である。何回もいうが、彼らの思惟には演繹はまったく存在せず、帰納はきわめて不十分な状態でしか存在しない。そして倫理規範と自然法則の区別がついていない。

(祥伝社 2012年12月)

根岸鎮衛著 長谷川強校注 『耳嚢』 上中下

2012年08月05日 | その他
 ろくに出典も示さず実見直聞も伝聞もおかまいなく、さまざまな故事来歴や出来事が書き連ねてある。一貫するテーマはなく、一言で言えば豆知識・雑学の類である。しいていえば著者の興味が全体を纏めるモチーフであろう。だから随筆雑記というのではあるが。相互の脈絡のない、小エントリーの集積という点、随筆雑記というのは現代のブログに似ているような。
 ところで中国では随筆雑記の類を「筆記」という。「筆記」というものも、一見雑多な事実やメモの寄せ集めであって、一貫した主題はない。筆任せというやつである。
 筆任せとは筆まか勢。それで思い出したが、正岡子規の随筆(とくに晩年のそれは)、各文が短い点、ブログよりもさらにツイッターに似ているな。

(岩波書店 1991年1月・3月・6月)