http://www.topics.or.jp/localNews/news/2017/02/2017_14882573150769.html
かたちは「各論並記」だが・・・。
1.「魚島教授は『どの色にX線を照射しても、ほぼ同じ成分が検出され、使われた釉(ゆう)薬(やく)は1種類とみられる。この結果が出たことで偽物とは断定できなくなった』と話した。 分析を依頼した橋本さんは『科学的な根拠が持てて納得できた』と言っている」
2.「一方、陶器は化学顔料が使われた模倣品だと主張していた曜変天目研究家の陶芸家・長江惣吉さん(54)=愛知県瀬戸市=は、今回の分析結果について『これだけでは真贋は分からない。正確な分析に欠かせない器の洗浄が行われておらず、分析方法に疑念も残る』と話した」
模倣品である=贋物だだと主張していた論拠が崩れた、つまり自論を証明できなかったということで、此方の負けである。「真贋はわからない」という言葉はまさにそのとおりで、「贋物ではない」ということを意味する。
3.「沖縄県立芸術大の森達也教授(中国陶磁考古学)は『南宋時代(12~13世紀)の中国・福建省で作られた陶器の成分と比較するなど、総合的な検証が必要。今回の調査で本物とは判断できない』と話した」
判断できない=論争の決着はつかないということで、議論は振り出しに戻るという意見である。だが「真贋」とは二分法の概念なので、「贋でなければ真」ということになる。ゆえに論理上は立証責任のある側が立証に盛行しなかったことで「真贋はわからない」のに、現実には本物だとする立場のほうが分が良くなってしまう結果となる。
いったん議論を仕切り直すというなら、こんどは、後世(18世紀以降)の模倣品である/ないに加えて、それ以前の模倣品である/ないという論点、さらにはそもそも天目である/ないという論点も足したうえで、やりなおすべきではないか。