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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

はじめて開いた渋沢栄一述『青淵回顧録』 (上下、1927/8)に、・・・

2018年08月26日 | 思考の断片
 はじめて開いた渋沢栄一述『青淵回顧録』 (上下、1927/8)に、『論語講義』(講談社学術文庫版全7巻で読んだ)とほとんどおなじことがおなじ筆致で書いてあることを発見する。目に付いたのは西郷・大久保・木戸・勝・江藤・井上(馨)ほかについての逸話と品評。印象としてはほとんどいまでいうところの“コピペ”に近い。

David Halberstam の"The Fifties"のIndexに・・・(あるいは無題)

2018年08月25日 | 思考の断片
 David Halberstam の"The Fifties"のIndexにローゼンバーグ夫妻の項は立てられていない。マッカーシズムの章をざっと繰ってみたが出てこないようだ。そしてこれは刊行時期から言えば当然だが、同書にVenonaについての記述はない。

 同じくHalberstamの"The Coldest Winter"が見つからず、さては先の大量処分のときに判断を間違えて売ってしまったかと焦ったが、間違いは間違いでも別のジャンルの棚に間違って突っ込んであった。
 朝鮮戦争の発端の経緯の記述を確かめた。北朝鮮の奇襲で始まったことになっている。そしてその成功の原因は、北朝鮮がその企図と行動を見事に秘匿していたというところに主たる重点が置かれているが、米国側も諜報ルートで軍の移動その他兆候となる情報が入ってきていた事実も特記される。
 ただし(以下はいくぶん乱暴な要約になるが)“マッカーサーがOSS(のちのCIA)を好んでいなかったため、それ経由の情報は重視されなかった”という事情に、事態勃発のアクセントが置かれている。なにやら『坂の上の雲』の黒溝台の会戦前をすこし思い出させる描写である。
 余談は措いて、米側は北内部で活発な諜報活動を行っていたこと、北からの戦争開始を推論させる情報が米に入ってきていたことの2点については、その情報が入っていた以上マッカーサーは北からの奇襲を予め知っていたと結論する萩原遼『朝鮮戦争』(本欄2003年4月19日)と、最終的な判断は別れるがその基礎においてほぼ共通する。

『春秋公羊伝』はいちいちになぜなにの問いを忘れないところが・・・

2018年08月24日 | 思考の断片
 『春秋公羊伝』はいちいちになぜなにの問いを忘れないところが独特だし個人的に好感を持つのだが、答えが概して反証不能なご託宣なのが好きでない。しかもなにかむりやりに奇をてらった答えが多いように思う。それも“家元”の“奥義”ぽくて嫌いである。先生に聞かないと正解は絶対わからない、独学ではできないようにわざとひねくった解釈を施しているような臭いさえする。

堀辰雄の『風立ちぬ』を、約物の使用法を見るという邪道、ひょっとしたら・・・

2018年08月20日 | 思考の断片
 堀辰雄の『風立ちぬ』を、約物の使用法を見るという邪道、ひょっとしたら邪悪でさえあるかもしれない目的で閲する。基本的に現代日本語の約物の使用法は個々人の裁量に任されている部分が多くて相当程度に自由なのだが(この点現代漢語のほうがはるかに厳密厳格である。英語はその中間くらいかと思える)、堀はおのれの文体のためにそれをさらにほとんど恣意的の自由に推し進めた。同一の約物が段落毎甚だしきは文毎に使い方が異なっている、また同一の用途に、おそらくは見た目と”間”の関係で、同じ約物を使ったり使わなかったりする、もしくは違う約物を用いる。そしてそれが文体に協っている。
 これは『菜穂子』にも同じく言えることだが、しかし『風立ちぬ』に比べると、こちらのほうははるかに各々の約物の使用法に統一性が現れていて、さきにそういった意味での自由さは減じている。作者自身の与えた定義に作者が忠実という意味である。『聖家族』『美しい村』も同じい。

獅子文六は『大番』はするすると読めたが『自由学校』は喉に詰まって・・・

2018年08月18日 | 思考の断片
 獅子文六は『大番』はするすると読めたが『自由学校』は喉に詰まって途中で放り出し、大佛次郎は『赤穂浪士』と『天皇の世紀』は好きだが『帰郷』は嫌いで、冒頭すぐからあとどうしても読み進められないというのは我ながらどういうものかと思っている。

『ユリシーズ』某訳に初見参する。・・・

2018年08月17日 | 思考の断片
 『ユリシーズ』某訳に初見参する。注の多さに驚く。必要なら幾らあってもそれは問題となる/ならないの次元にはないが、それが本文の理解に資するためでなく訳者の知識を披露するための結果としての多さであれば、問題であるを通り越して却って無意味へと帰す。この作品に関しては、ネイティブ研究者による注釈付き原文を経たあとに日本語への訳しぶりを拝見するという手順のほうがよいかもしれない。(該訳の訳注、はっきり言って、中世の注釈注疏かと思った。なんのためにここにあるのかよくわからないという意味で。)

露伴の『努力論』のよさが解らない人間は・・・

2018年08月17日 | 思考の断片
 露伴の『努力論』のよさが解らない人間は、露伴のそのほかの作品の理解も行き届かぬし、そもそも人間的に駄目だ式の論を見たので、30年ぶりに読んでみたがやはりよく解らない。その間高島俊男大人による中国物(「運命」)の底の浅さの指弾とかあり、露伴自体に対して当方捧げ持って読まねばという可愛げがなくなった。