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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西英昭 「中華民国諸法の欧米語への翻訳について 法律顧問・法学者とその活動」

2016年07月21日 | 社会科学
 『法政研究』82-1、2015年7月掲載、同誌256-208頁。

 『大清律例』をはじめ、諸法の翻訳に誤訳はなかったのか、あるいは異言語へ翻訳するにあたってのやむを得ざる語句・概念の追加/省略や、もしくは両言語の語彙や表現の差異による、翻訳後の文全体の意味の変容はなかったのか、という観点からの考察は見いだせなかった。

平野直子 「【SYNODOS】現代『保守』言説における救済の物語」

2016年07月17日 | 社会科学
 http://synodos.jp/society/17157

 私には、ある種の日本人における合理主義的・近代的もしくは科学的な思考の退潮を表現しているように見受けられる。観察―仮説―検証の三段階のうち、最後の検証の部分が閑却されつつあるような。あるいは仮説の部分にしても、それを導く推論が、帰納・演繹ではなくもっぱらアブダクションのみに依るようになりつつあるかのような。

丸山眞男 『丸山眞男集』 第四巻 「一九四九―一九五〇」

2016年01月16日 | 社会科学
 「近代日本思想史における国家理性の問題」(もと『展望』1949年1月号掲載、本書3-24頁)より抜き書き。

 日本における国際法の輸入の過程についてはすでに吉野・尾佐竹博士以来の研究が明らかにしており、ここに反覆を控えるが、その際、丁韙良(ウィリアム・マーティン〔原文ルビ〕)の漢訳によって紹介されたホイートンの『万国公法』が、やがて「天地の公道」とか「万国普通の法」とかあるいは「宇内の大道」とかいう言葉で通用しはじめたとき、そこにはほとんどつねに儒教の「天道」が連想されていた。そうして、人間の先天的に保有する理性のなかに法の基礎を求めるフーゴー・グロチゥス以来の自然法思想――ホイートンはじめ当時国際法学はまだ実定法学としての明確な自覚を持っていなかったから、その基底は直接自然法に連なっていた――は、聖人の道を一方、宇宙の「天理」に、他方、人間の「本然の性」(性理)に基礎づける宋学と、あたかも照応したのである。(11-12頁)

(岩波書店 1995年10月)

九州大学大学院法学研究院『中国人留学生のための法学・政治学論文の書き方』

2015年07月16日 | 社会科学
 中国語(現代漢語)部分が、非常に読みやすい。「はじめに」で明言されているように、これは中国語ネイティブによる日本語原稿からの翻訳文であるが、原文に引きずられての結果ではない。
 その理由は、現代日本語(文章語)がそうであるように、基本的に形式論理に基づいて書かれているからだろう。 また、文体的に言って使用する語彙に日本語からの借用語が比較的多いこともあるかと思う。

(中国書店 2015年3月)

我妻榮 『民法案内』 1 「私法の道しるべ」

2015年06月20日 | 社会科学
 条理とは、物事のすじみちであって、われわれの理性に基づいて考えられるところのものである。われわれは、われわれの社会の生活関係を条理に適したものとすることを、その理想とする。法律を定めて、社会生活を規律することも、結局においては、その理想のためだともいいうる。したがって、法律を解釈するにも、契約の内容を定めるにも、できるだけ条理に適するようにしなければならないのであるが〔略〕 (「第四章 私法の法源 第五 条理」一一四、133-134頁)

 中国語の「条理」という言葉には、昔もいまも「理性に基づいて考えられるところのもの」という意味はない。もっと絞り込んで言えば、「理性」という要素が存在しない。個々人の思考や感情に関わりのない外部であらかじめ決められており、信奉し遵守すべく外から課せられるものである。

アマルティア・セン著  池本幸生訳 『正義のアイデア』

2015年05月25日 | 社会科学
 この日本語版の「序」(6頁)ほかで出てくるジョン・ロールズの概念「公正としての正義」は、英語原文では'justice as fairness'となっている。また同じ「序」(12頁)に見える「公正な制度」という術語は、'just institutions'である。
 そして同じくロールズの著書『正義論』は、原題を"A Theory of Justice"という。
 興味深い。
 fairとは平等かつ法の支配に基づく状態を謂い、justはmorally fair にしてreasonableなことの謂である。
 つまり、「法の支配rule of law」と「理性reason」が存在しない(またはその存在および必要性がまったくあるいは十分には認識されていない)所では、公正fairnessも正義justiceも存在しないことになる。

(明石書店 2011年11月)

ウィキペディア 「永久法」項

2015年04月21日 | 社会科学
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E6%B3%95

 アウグスティヌスのような教父の法理論においては神定法と同義に扱われるが、トマス・アキナスにおいては両者は分離され、神定法は特に聖書によって啓示された法を指す。永久法が人間の自然本性である理性によって把握された場合は、自然法と呼ばれる。

 アウグスティヌスの場合はさておき、トマス・アキナスの定義に拠れば、儒教の教えには元来神定法(聖人が定めたのだから聖定法というべきか)のみあって、永久法がない。
 宋学はこの永久法を探究・獲得しようという運動とその結果だったと見ることは可能か。

中山元 『正義論の名著』

2014年12月06日 | 社会科学
 「正義」はその定義が時代と論者によって変わる、つまり確とした内包と外延が見いだしにくい概念なのだが、「平等な個人の存在」と「その個人の持つ自由もしくは権利(とくに所有権)の保護」は、おおむね共通する土台のようだ。一読、とりあえずの感想。

(筑摩書房 2011年6月)