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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

文天祥 「正気歌」

2015年07月13日 | 文学
 Wikisource

 入谷仙介注で読み返す(『宋詩選』、朝日新聞社、1979年2月)。ここにあるのは、皇帝個人あるいは「皇帝」という存在への忠誠ではなく(もちろんそれもあるがそれ以上に)、宋の朝廷もしくは宋という(王朝)国家への忠誠のようである。杜甫との比較その他を要す。

魯迅著 丸尾常喜訳注 『中国小説の歴史的変遷』

2015年07月08日 | 文学
 原題『中国小説的歴史的変遷』。講義記録。

 清末の四大譴責小説は、なぜ口語文(旧白話)で書かれたのだろう。時文でも書けたはずである。まさか鼻祖の『儒林外史』がそうだったからという理由ではあるまい。魯迅もその理由について述べていない。
 魯迅はこの講義のもととなった自らの著作『中国小説史略』においても、これら四大譴責小説を評している。取り上げて論じる魯迅の文章のほうが文語(文言文)に近いのはたいへん興味深い。
 (ちなみに魯迅は『二十年目睹之怪現狀』に対して内容浅薄・誇大の言とたいそう点がからい。しかしながら私は、文体に限っていえば、この四つのなかではこの作品がいちばん好きである。)

(凱風社 1987年7月)

空海 『三教指帰』

2015年06月15日 | 文学
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819333/1
 有名な話だが、この作品のなかで、空海は、己の分身たる仮名乞児の出身地を、「玉藻所帰之嶋」と表現している。いうまでもなく空海の故郷讃岐のことである、そしてこれも周知のように、この「玉藻帰(よ)る」は、『万葉集』の讃岐にかかる枕詞「玉藻よし」を、そのまま漢文(駢儷体)に用いたものだ。
 だが漢文で「玉藻」は枕詞のように藻を意味しない。皇帝の冠にぶらさがっている玉をつないだ糸紐のことである。だからこのくだりは文法的には正しいけれども語彙と表現の選択を誤っているため文意が通じない。つまり倭習である。
 玉藻は五経のひとつ『礼記』に出てくる言葉だから、明経道出身の空海がまさか知らなかったとは考えられない。倭習は承知のうえだったのだろう。その理由は何だろう。読者(日本人)むけの、いわばサービスだったのか。それとも漢文世界の語彙と表現に、新たな用例を創りだそうとしたのか。

王安石 「杜甫畫像」

2015年03月16日 | 文学
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 吾觀少陵詩,為與元氣。
 力能排天斡九地,壯顏毅色不可求。
 浩蕩八極中,生物豈不稠。
 醜妍巨細千萬殊,竟莫見以何雕鎪。
 惜哉命之窮,顛倒不見收。
 青衫老更斥,餓走半九州。
 瘦妻僵前子仆後,攘攘盜賊森戈矛。
 吟哦當此時,不廢朝廷憂。
 常願天子聖,大臣各伊周。
 寧令吾廬獨破受凍死,不忍四海寒颼颼。
 傷屯悼屈止一身,嗟時之人死所羞。
 所以見公像,再拜涕泗流。
 惟公之心古亦少,願起公死從之遊。


 王安石はなぜあそこまで杜甫に私淑したのか。
 そして、「寧令吾廬獨破受凍死,不忍四海寒颼颼。傷屯悼屈止一身,嗟時之人死所羞。」の句は、いかなる角度から解するべきか。

王安石 「彎奇」

2015年03月16日 | 文学
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 残暑安所逃,
 弯奇北窗北。
 伐翳作清旷,
 培芳卫岑寂。
 投衣挂青枝,
 敷簟取一息。
 凉风过碧水,
 俯见游鱼食。
 永怀少陵诗,(永く少陵の詩を懐い)
 菱叶净如拭。
 谁当共新甘,
 紫角方可摘。


 ※少陵=杜甫。

林逋 「梅花」

2015年03月06日 | 文学
 吟懐長恨負芳時,
 為見梅花輒入詩。
 雪後園林纔半樹,
 水辺籬落忽横枝。
 人憐紅艶多応俗,
 天与清香似有私。
 堪笑胡雛亦風味,
 解将声調角中吹。


 第五句、この「私」は「不公平」と解し「えこ(ひいき)」と訓ずべきか。

王安石 「吾心」

2015年03月06日 | 文学
 吾心童稚時,
 不見一物好。
 意言有妙理,
 獨恨知不早。
 初聞守善死,
 頗復吝肝腦。
 中稍歷艱危,
 悟身非所保。
 猶然謂俗學,
 有指當窮討。
 晚知童稚心,
 自足可忘老。


 第十句、有指の「指」は「旨」と同じの由(『宋代詩詞』角川書店 1985年2月、大野修作氏注釈)。
 大野注に何故かの説明はない。それ措くとして、「道理」の意味だとするのはどうだろう。「(人生の)意義、(畢生の)大目的」といった方向性の意味ではなかろうか。それ以前に氏の言う道理とはこの場合何を意味しているのかがよく分からない。

杜甫 「曲江二首 其一」

2015年03月04日 | 文学
 一片花飛減卻春,
 風飄萬點正愁人。
 且看欲盡花經眼,
 莫厭傷多酒入唇。
 江上小堂巣翡翠,
 花邊高塚臥麒麟。
 細推物理須行樂,
 何用浮名絆此身。


 最後から二番目の句。「細推物理須行樂 細かに物理を推すに須らく行樂すべし」。
 「細推物理」とは、「つらつら考えるに」といったほどの意味のようだ。ではここの「物理」は、「この世のありよう」「世間の道理」というくらいの意味ということになろう。後世のような、何かの宗教の教条というわけでは別になさそうである。
 なお、漢詩を詠まれる方の御教示によれば、三・四句は作者の感情の吐露、五・六句は事物の描写となっていて、この二つの対句の関連を「物理」と、解することができる由。外部から情報を補足をすることなく、其処に載せられた情報のみによってテキストを読解するという厳密主義の立場からいえば、このほうが正しい解釈かとも思える。