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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『後漢書』巻67「黨錮列傳」の某日本語訳が馬馬虎虎なのであきれかえる

2018年08月27日 | 東洋史
『後漢書』巻67「黨錮列傳」の某日本語訳が馬馬虎虎なのであきれかえる。とくに冒頭部。実際あれは難しいが(典拠をどう解釈して本文の文脈にはめ込むかという意味で)、むずかしいから大体でいいやとする理由にはならないだろう。面倒なのなら最初からやられぬがよかったろう。聖人導人理性は「人性を導き治める」か。「聖人は人を導き性を理(おさ)む」をこう、訳の日本語だけ次元で整理してしまっては、“人性”がわかったようでわからぬままに読者の意識の脇へとうち捨てられることになる。人の“性”が同伝の主要なモチーフではないのか。冒頭にわざわざ孔子の“性相近也,習相遠也。”の言葉を掲げて言嗜惡之本同,而遷染之塗異也。」と一篇を始めた范曄の用意が台なしである。読まずに訳すからこういう山も文体もない平板な訳文になるのであろう。

楊聯陞大師の手持ち論著数冊を読み返す

2018年08月26日 | 東洋史
 楊聯陞大師の手持ち論著数冊を読み返す(といっても通読するのは初めて)。伊藤智義/森田慎吾『栄光なき天才たち』に社会や国家の役に立つ研究をもっぱらとする理化学研究所との対比列伝といった趣きで、ただおのれの関心と真理探究のために雪の研究の道を進んだ中谷宇吉郎が取り上げられる回があるが、楊大師の研究はその中谷のふうを思いださせる。概説的な大研究もあるが、それよりは個別の論考のほうが、大師個人の中国と中国史観に基づく結果の選択であることをありありと窺わせる一種奇抜で独特なテーマが続いていて、たいへん興味深い。

吉川幸次郎大人の栗田直躬『中国上代思想の研究』書評を読む・・・

2018年07月24日 | 東洋史
 吉川幸次郎大人の栗田直躬『中国上代思想の研究』書評を読む(『全集』3、542-546頁。もと岩波『図書』1950念1月掲載の注記)。「栗田氏のこの書物は従来ありきたりの中国思想史とは、方法を同じくしない」で始まるその始まりに激しく膝を打つ。その次の“如何に”の腑分けに帽子を脱いだ。

 従来の思想史は、思想家たちの文章、つまりその自覚した主張のみを、専ら資料としがちであったが、この論文集では〔中略〕、思想家たちの文章に現れた単語を、必ずしも自覚された概念規定を伴わないものをも含みつつ、主要な考察の資料としているからである。

福本勝清 「アジア的生産様式論と日本の中国史研究」

2018年06月24日 | 東洋史
 『明治大学教養論集』370、2003/3掲載、同誌51-89頁

 再読
 ①家父長的家内奴隷制の議論は理論的に不十分で最初から無理があった。
 ②「総体的奴隷制」の「奴隷」も「奴隷制」も実を言えば比喩だった。
 ③個別人身支配体制の議論は世界史の基本法則における最初の階級社会としての奴隷制の一つという意味では家父長的家内奴隷制や総体的奴隷制と変わらない、増淵竜夫には基層レベルでの地域社会における自立的な秩序形成を否定するような議論は根本から誤っているし名称がミスリーディング(金谷がここで代わりにさらに一歩踏み込んで言えば扇動的)だと、当時から酷評されていた。

 以上、金谷の関心のあるところだけを抄約した。もともと増淵論を除き、前提と結果が同じ議論ばかりで史料はその最初から決まった結論を決まったように探して証拠にするために使われているとしか見えなかったので、まったく興味はなかった。


増井経夫「商人の知恵 清代銀商人の場合」

2018年06月11日 | 東洋史
 『金沢大学法文学部論集 哲学史学編」10、1963年3月掲載、同誌33-53頁。

 同じ著者の『中国の銀と商人』(研文出版 1986年2月)から曳かれてこちらに遡ってきた。読んだのは数年前で、学部か院の授業でも引用した。書架の整理ついでに再読、面白い。著者とその作業を昔から尊敬している。

水野精一 『雲崗石窟とその時代』

2018年06月07日 | 東洋史
 いわゆる中国中世(近世と古代の間)の文言文の時代的変遷(同一“文体”もしくは“ジャンル”内でも、ラテン語がそうであるように変遷がある)のを確かめようと思って、晋の『三国志』から唐の『晋書』まで、この時代を取り扱う二十四史を成立時期順に通読してみたことがあり、そのさいに石刻(仏教漢文)もわりあい読んだ。そのおりのことだが、この概説書を学生のときに一回、その過程で数回、そしていままた一回読むことになったけれど、注はないが腑に落ちる処が多い。注はないが(引用も殆どない)、巻末に本書の骨格をなす主な柱(論点)ごとに分類し本文読解に関係する観点からの解題を付した参考文献リストが上げられているので、読み始めるにあたって安心できるということもある。

(冨山房 1939年10月)

『文選』の散文の文体類別は、文体そのものの特徴を実例から抽きだして・・・

2018年04月09日 | 東洋史
 『文選』の散文の文体類別は、文体そのものの特徴を実例から抽きだしてそれで他の例の当否を判断してゆくのではなく、何の為に書かれたか、そしてそれは誰から誰へのものだったか、上から下へか、下から上かという、使われた用途や授受の行われた際の両者の社会的関係、つまり外見から判断したようだ。
 前に自分はこんな↓ことを書いていた。いまのツイートと内容的に整合するのかどうか。

 →2014年09月13日「福井佳夫 『六朝文体論』」

富永一登 「[書評] 岡村繁著『文選の硏究』」

2018年04月06日 | 東洋史
 『中國文學報』60、2000年4月掲載、同誌83-115頁

 同書が昭明太子序の「事出於深思,義歸乎翰藻」を、“事”を「内容」、“義”を「本質」と解釈する(「序章 『文選学』の歴史と課題」3頁)ことについての意見はみられかったのは残念である。
 しかしこれは書誌学的な方面に重点の置かれた評だから無い物ねだりである。

神塚淑子 『道教経典の形成と仏教』

2018年03月29日 | 東洋史
 出版社による紹介

 この出版社の紹介でそういう傾向の研究ではなさそうだとあらかじめ推量できていたが、大学図書館に入ったので確かめた。文体論・言語論に関する議論はない。仏教漢文―通常漢文との相互交流・影響については、すでに先学の研究がある。そこへ、仏教漢文―道教漢文、さらには―通常漢文と、三角形の交流影響構造が看取されれば面白いだろうと思った。

(名古屋大学出版会 2017年10月)