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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Andrew Ortony, ed., "Metaphor and Thought"

2017年06月02日 | 人文科学
 http://www.cambridge.org/catalogue/catalogue.asp?isbn=0521405610

 1979年刊。目次を見、編者の総論を見、索引から関心のあるタームで頁を繰ってみたが、基本チョムスキーの生成文法・普遍文法論が正しいとの前提に立っていて、ウォーフは冷笑ぎみの鼻も引っかけない扱いと見えるのは私の誤読か。

(Cambridge University Press, Sep. 1979)

中嶋隆蔵 「張湛の思想について」

2017年06月01日 | 人文科学
 『日本中国学会報』 24、1972年10月掲載、同誌80-98頁。

 張湛は『列子』に注をつけたがその注はテクストの外在的批判は今日から見ても驚くほど客観的ないし科学的にできても、内在的批判はまるでできていない由。つづけて分析される一個の思想者としての彼の思想については、準備不足の私にはよくわからなかった。出直しである。

K.J.ホリオーク/P.サガード著 鈴木宏昭/河原哲雄監訳 『アナロジーの力 認知科学の新しい探求』

2017年05月26日 | 人文科学
 出版社による紹介。
 ここには言及されていないが、章ごとに実際の翻訳者が存在する。本書では列挙されている。

 さて、

 アナロジー的思考は論理的な演繹ではない。 
(「第1章 はじめに」本書4頁)

 では何か?

 そのような意味からすると、『論理的』ではないということになる。例えば鳥や人間が、それそれの居住環境を比較可能な仕方で同じようにつくらねばならない理由は無いのである。だからといってアナロジーはでたらめなものではない。ゆるい意味では、ある種の論理があるといえる。 
(同頁)

“ある種の”?

 それ〔引用者注。ある種の論理〕をアナロジックとよぶことにしよう。このアナロジックが、〔中略〕アナロジー利用の仕方に制約を与えているのである。 (同頁)

 そのアナロジックの基本的な“制約”(?)とは、同章10-11頁によれば以下の三である。
 ①アナロジーが適用される両者(ベース領域とターゲット領域)に直接的な類似性があること、
 ②この両者に一貫した構造上の相似関係を見いだすように働きかける圧力が存在すること、
 ③アナロジー利用のゴールがあたえるアナロジーの目的の内容のもたらす要請。

 だが、これら①②③はすべて、文化によってその中身が異なってくるものである。つまりアナロジックの条件ではありえても「ある種の論理」の“定義”たり得ない。ああ、だから“制約”なのか。

(新曜社 1998年6月)

興膳宏 『新版 中国の文学理論』

2017年05月20日 | 人文科学
 いったい一口に「六義」とはいうが、「詩経」の詩を内容上から区分した風(諸国の歌謡)、雅(王室の儀典歌)、頌(王室の先祖をたたえる祭祀歌)と、修辞上の技法である賦(直叙)、比(直喩)、興(隠喩)とは、範疇をことにした概念である。仮名序の「そへうた」「かぞへうた」「なずらへうた」「たとへうた」「ただごとうた」「いはひうた」が、そのままの順序で風・賦・比・興・雅・頌に対応するものならば、序の作者は「六義」を主に技法として解釈していたことになるが、本来二つの範疇に属する概念を混淆してしまうところに、そもそも根本的な無理がある。(「『古今集』真名序覚書」本書467頁)

 混淆ではなく仮名序では(あるいは紀貫之は)、これを「うた」という一つのカテゴリーとして捉えたとは考えられまいか。紀貫之は、「うた」を数え上げるくだりの冒頭、で「そもそもうたのさま、むつなり」と、はっきり言っている。

 また仮名序には、「そもそもうたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき」とあるから、これが「六義」からのアナロジーとして発想されていることはまちがいないが、その六種の「さま」の内容を一つ一つもとの「六義」に押しつけてゆくのも、かなり窮屈な解釈になってしまう恐れがありはしないか。(同上)

 むりがあるとすれば、その日本語の「うた」と漢語の「六義」に、カテゴリーとしてずれがあるということの現れとして、当然の結果ではないか。

(清文堂 2008年11月)

西村義樹/野矢茂樹 『言語学の教室』

2017年05月16日 | 人文科学
 出版社による紹介。

 「ダビデがゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は意味が違うと考えるのは認知言語学者の思考だそうである(野矢氏、46頁)。野矢氏の説かれる認知言語学におけるカテゴリー論がよくわからない。カテゴリーの分け方は人類普遍ではない(すくなくとも私はそう考えている)ことと、氏のおっしゃることとはどう繋がるのか、あるいは繋がらないのか。
 また。
 主語(主題語)が違う、動詞の態が違う、動作の対象となる語が片方にはあり片方にはない、さらにいえば「が」と「は」と、(格)助詞が異なる、となれば形式が違う、形式が異なるとは発話者の選択が異なったということである、それぞれによって表される意味も異なるからこその異なった選択だ、とは私のような語学屋もしくは翻訳者の発想であるが、普通人、たとえばいまいる世界でいえば史学者には、そんなものはなくて当然ということだろうか。

(中央公論新社 2013年6月)

A.シーグフリード著 河野與一/河盛好蔵訳 『現代弁論術』

2017年05月15日 | 人文科学
 国立国会図書館デジタルコレクション。

 フランス語の。あるいは西欧の。原題は直訳すれば『公衆の前での話し方』になる由(「はしがき」)。よって話し方のあるべきもしくは効果的な所作発声などのすなわち「いかに」が主たるテーマとなり、「なにを」、即内容の論理や修辞(修辞技法・狭い意味でのレトリック)は、却ってその一部となる。そのためここで説かれる諸条は、言語や文化歴史の枠をやや超えて、少しく普遍性を帯びることになる。

(岩波書店 1951年4月)

ロラン・バルト著 沢崎浩平訳 『旧修辞学 便覧』

2017年05月12日 | 人文科学
 さすがに、「ここで取り上げる修辞学とは、紀元前五世紀から十九世紀まで西欧に君臨したメタ言語〔原文ルビ。ランガージュ〕をいう」と、冒頭断ってある(「緒言 0.1 修辞学の実践」本書6頁)。というより他の多くがこれをしないのはどういうわけか分からない。

(みずず書房 1979年4月初版、2005年1月新装版)