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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

井上京子 『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待」

2016年06月19日 | 人文科学
 山岳地帯に住むマヤ族のテネハパ村の人たちは、『右手』の代わりに『上り側の手(あるいは下り側の手)』と表現します。彼らには『右』や『左』といった概念も、それを表すことばもないからです。 (出版社による紹介、「内容」)

 具体的にはツェルタル部族のツェルタル語。さらに本文中ではオーストラリア先住民族のグウグ・イミディール語も、その例として挙げられている。 「〈1〉「右」も「左」もない言語」、本書6-7頁。

(大修館書店 1998年5月)

ゲーリー・ポートン 「ヘブル語聖書とラビ文献におけるたとえ話」

2016年06月11日 | 人文科学
 A-J. レヴァイン/D.C. アリソンJr./J.D.クロッサン編、土岐建治/木村和義訳『イエス研究史料集成』(教文館 2009年11月)所収。同書390-419頁。

 ヘブル語聖書のמשל(マーシャール)という言葉は七十人訳聖書では比較・併置・類推などを意味するギリシア語παραβολή (パラボレ)に訳されたが、ヘブル語のテキストにおいては、寓話・寓意、直喩、比喩、たとえ話などの区分はない由。「ラビ文献では、それらはすべて類似した文学的形式で登場しており、ヘブル語のマーシャールは、それらのいずれをも指して言うことができる。 (390頁)

 それは当時のヘブル語では、寓話・寓意、直喩、比喩、たとえ話の間に概念として区別がなかったということであろうか。

荒木達雄 「岡島冠山『太平記演義』に見る「水滸伝」の影響」

2016年06月11日 | 人文科学
 『東方学』121、2011年1月掲載、同誌102-119頁。

「五 『太平記演義』の意義と『水滸伝』」から抜き書き。

 『太平記演義』は単に日本人が中国語、しかもすでに親しんでいた文体で創作を試みた小説としてではなく、日本人に中国の口語がどのように使われているのかを学習させる語学的目的、「水滸伝」のような俗語小説の理解を広めるという文芸的目的を兼ね備えて構想されたものとして日本における中国語小説受容史のうえに位置付け評価するべきであろう。
 (117頁。原文旧漢字)

 この認定は、そこに至るまでの同作品の文体分析の結果を踏まえて導き出されたもの。

ケース=フェルステーヘ著 長渡陽一訳  『アラビア語の世界 歴史と現在』

2016年06月03日 | 人文科学
 2015年06月21日「Nicholas Rescher, "The Development of Arabic Logic"」より続き。

 出版社による紹介

 アラビア語の統語論(西洋における)では、文は「名詞文(~は~である)」と「動詞文(~は(~を)~する)」に二分されるが、前者の名詞文は、「少なくとも現在時制においては」叙述詞(=繋辞)をもたない。ただし過去時制ではそれが入る(「第6章 アラビア語のしくみ」、“6.5 統語”、148-149頁)。この特徴は、いつからか。

(三省堂 2015年9月)

Geoffrey Ernest Richard Lloyd, "Demystifying Mentalities"

2016年04月30日 | 人文科学
 出版社による紹介

 古代ギリシャにおいて、主張にはかならずそれを裏付ける証拠、また議論(および他者の説得と第三者による判定)においては客観的証明という過程が必要であることが明確な概念として認識されたのは紀元前 5-4世紀の由。それ以前の古代エジプトやバビロニアのたとえば数学においても証拠の提示や証明は見られるが、それはいまだ十分に意識的に行われていたとはいいがたいという。この点に関して、アリストテレスは発明者ではなく、それまでの無自覚あるいは半自覚的な習慣を自覚的に概念化して人間の知性活動のなかに位置付けた存在であって、いわば祖述者と見るのが正しいらしい。('3. The conception and practice of proof', pp. 73-97)

(UK: Cambridge University Press, 1990)

Jean Aitchison, "Teach Yourself Linguistics (2nd ed.)"

2016年04月30日 | 人文科学
 チョムスキーの主張は生成文法および普遍文法の旗手としてほぼ一章が割かれているが、サピアはギリシア語・ラテン語を最高級としその他の言語を崩れて劣ったものとみなす従来の言語学説を批判したという点だけが数行で言及されるにすぎない(p. 65)。ウォーフにいたっては名すら出てこない。すごい概説書だ。

(UK: Hodder and Stoughton, 1978)

小林秀雄 「徂徠」

2016年03月21日 | 人文科学
 テキストは『日本現代文学全集』68「青野季吉・小林秀雄集」(講談社 1963年12月)収録のもの。原文旧漢字・旧仮名遣い。

 小林大人は宋学の「天下ノ理、暁然トシテ洞徹シ、疑惑スル所ナキヲ以テ解トナス」の“天下ノ理”を、「合理主義的世界観と訳せば、この文の現代語訳は易しいであろう」(433頁)と記すのだが、それは違うだろう。合理主義的世界観と訳すから現代語訳が容易になるだけの話だ。宋学の理は倫理的規範もしくは命令で、人間はそれを理解し、受容し、遵守するだけのもので、そこに人間が主体的に思索し探究する、rationalな要素はまったくない。朱子はじつはそれを行って居たのだが、自分ではそうと自覚していなかったらしい。すくなくとも人間独自の知的活動は当然の前提とされているがそれ自体を意識した言説は見られぬようである。そのおかしさ(人間存在の軽視)に気がついて叛旗を翻したのが王陽明ではなかったかと思える。そしてこの点から言うと、のちの陽明学の左派右派ともに、さらには李贅でさえ、みな陽明の嫡出の弟子であったと言えると思う。

今野真二 『図説 日本語の歴史』

2016年03月14日 | 人文科学
 「1-6 日本語を書いた漢文? 古事記 712年」(28-29頁)
 「1-7 漢文で書かれた日本の歴史 日本書紀 720年」(30-31頁)
 
 漢文(古代漢語)の語彙・表現・文で書かれているということをもってそれは漢文であると必ずしも見做すことはできないということ。

(河出書房新社 2015年11月)