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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

指桑罵槐 - 維基百科

2016年03月04日 | 人文科学
 前項の続き。またはその注釈。
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E6%A1%91%E7%BD%B5%E6%A7%90

 桑と槐の概念の共通性については書かれてはいない。これが「指雞罵狗」(鶏を指して犬をののしる)、「指豬罵狗」(豚を指して犬をののしる)ともなれば、ますますわけが解らなくなる。鶏と犬、豚と犬の何が通底するのであろうか。だがこれら結びつけられる二つのものになんらかの共通性がなければ、これは譬喩ではないということになる。譬喩でなければ何であるのか。

高口康太 「2つのアイドル謝罪、『社会の縮図』と『欺圧の現実』」 ニューズウィーク日本版

2016年02月07日 | 人文科学
 2016年1月29日(金)19時53分

 中国語には『欺圧』という言葉がある。『権力を持つ強者が弱者を虐げる』という意味で、中国の伝統的道徳観では許しがたい行いであった。前近代の刑法では犯罪行為とされていたほどだ。『欺圧』と反対の意味の言葉が『公道』だ。『公正、公平、あるべき姿』という意味で、道徳的価値が正しく実現されている理想の状態を意味する。

 “道徳的価値が正しく実現されている”のがすなわち“公正、公平、あるべき姿”=「公道」であるということである。
すべての個人はひとしく『譲渡不可能な基本的人権』をもっているという(根拠のない)信念」(池田信夫)を、“道徳的価値”とはしない社会や文化や国家においては、公道(ここではかりに正義と同意語であるとして)は、基本的人権が示す価値の謂であり、その内容を守ることが公正であり、公共善であり、反対に、それを守らない、あるいは破ることが不公平ないし公共悪である、という結論にはならない。さらにこの議論を溯れば、原子atomのアナロジーであるところの個人individual、原子論のアナロジーであるところの個人主義という理念が存在しない処に、「譲渡不可能な基本的人権」という概念は形式はべつとして概念としてありえないということである。

ヒューマン・ユニバーサル - Wikipedia

2016年02月06日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AB

 ヒューマン・ユニバーサル、あるいはカルチュラル・ユニバーサル、普遍文化とは地球上の全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣のことである。強い文化相対主義の立場を取る一部の人類学者、社会学者はこのような普遍性の存在を否定するか、重要性を軽視することがある点に留意が必要である。この普遍性が狭義の文化であるか、生物学的、遺伝的基盤があるかどうかは氏か育ちか論争の争点である。

 これらの概念は時々、特定の文化の重要性やユニークさについて何も明らかにしていない『空っぽの普遍性』と呼ばれることがある。

 なるほど例として挙げられた項目を見ると、首をかしげたくなるようなものがところどころに見られる。たとえば時間の単位、道徳感情など。
 なおウィキペディアの同項のそれほど多くはない諸言語ヴァージョンのなかに、英語とロシア語はあるが、漢語(中文)はない。これは何かを意味するのかどうか。

詞語“言外之意”的解釈 漢典

2016年02月03日 | 人文科学
 词语“言外之意”的解释 汉典

  含蓄而没有明白指明的意思
  話裡沒有明說而間接透露的意思


  莫名其妙。什么叫“间接”呢?

 参看「蔡英文就职后座驾将为奥迪A8L 与默克尔同款」 _台海_环球网2016-02-02 01:16:00

  台湾准领导人蔡英文5月将正式就职,未来所使用的座车曝光,为奥迪A8L车款,与国总理默克尔的车款相同。

  “言外之意”也罢,“弦外之意”也罢,都在这里什么样? 如果这是「あてこすり」的话,形容为“指桑骂槐”就好了。可在这里成为问题的是,桑和槐的内涵分享之处在哪里?没有分享之处,那怎么可能替槐指桑?

「書評 『言語が違えば,世界も違って見えるわけ』」

2016年02月03日 | 人文科学
「shorebird 進化心理学中心の書評など」 2013-04-24

 母語は論理的推論能力に影響を与えはしないが,話者に頻繁に何かの表現を強いるという言語的習慣は記憶,直感,連想などの感覚的な部分に影響を与えている.

 本当に「論理的推論能力に影響を与えはしない」のだろうか。そもそも「論理的推論」とは何であるのか。そしてそれは、全人類文化的に普遍的な一つであるのか。私にはそういった疑問がある。
 しかし以下の続く議論には賛同する。

 そして日常の思考の大半は,論理的推論というよりも,記憶,直感,連想が効いてくる感情,衝動,実用的スキルなどの領域においてなされており,母語が与える思考への影響は「重要」だと評価できる.