少女小説から世界が見える

「少女小説から世界が見える」(川端有子 河出書房新社 2006)。

副題は「ペリーヌはなぜ英語が話せたか」。

本についての本を読むのが好きになってくると、読書癖も病コウコウだ。

この本はタイトルどおり少女小説を論じたもの。
あつかっているのは、「若草物語」「家なき娘」「小公女」「赤毛のアン」「あしながおじさん」などなど。
じつをいうと、ひとつも読んだことがない。

話はまず総論から。
少女小説の源泉は、ブロンデの「ジェイン・エア」とオースティン。
しかし発展したのはアメリカ。
女の子にも自主性と独立心を認めたため。
イギリスはしつけにやかましかった。

少女小説が生まれるには少女時代がなければならない。
18世紀から核家族化が進み、男女の役割がくっきりと分かれた。
女性は、娘のあいだは父に、結婚してからは夫に、経済的に依存するしかなかった。

また男性は、一家を養えるだけの収入をもたねば結婚できなかった。
つまり晩婚になり、そうなると女性の未婚の時期も長くなった。
少女時代は長くなり、そこに少女文化が生まれた。

この少女時代の立場の不安定さが、各作品の原動力となる。

で、以下は各論。

とりあげられた作品はすべて世界名作劇場でアニメ化されたもの。
そのなかでは「若草物語」だけちゃんと観た。
まさか逃亡奴隷の話がアニメオリジナルだったとはなあ。

各章によって、記述にむらがある。
批評性が強くなったり、弱くなったりする。
著者が作品に親しんだ度合いが反映しているのかも。

これら少女小説をひとことでいうと、はみだし(と感じている)者が、葛藤のすえ、枠にはまるように成長していく物語だとのこと。
枠にはまるとは、この時代、家庭におさまること。

そしてヒロインたちはみな、読み書き語りという「ことばのちから」をもち、それを駆使して現状を改善していくところに共通点があるそう。

あらすじから作者の生涯まで押さえてあって、なんにも知らないこちらにとっては大助かりの一冊だった。

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ほぼ日手帳の秘密

「ほぼ日手帳の秘密」(ほぼ日刊イトイ新聞・山田浩子編著 幻冬社 2006)。

ことしもまた手帖の季節がやってきました。

この本は、ほぼ日が製作した手帳についてのドキュメント。
モノをつくる話というのはたいてい面白いのだけど、これまた面白い。

まず糸井重里さんの手帳論。
「手帳は日記とちがって、内面をさらしすぎない。全裸じゃなくて、まさかのときのためパンツをはいている」
たとえ話がうまい。

また、ひとの意見を聞くにもやりかたがある。
「基本形がしっかりできていないと、ひとは意見をいってくれないです」。

あとは、いろんなひとの使用例が載っていたり、ドキュメントが載っていたり。

製本ミスが発見されたさい、新しいものをつくって購入者全員に再配送したという話にはおどろいた。
こういうことは、もう普通なのかあ。

そのさい添付された、糸井さんの手紙が面白い。
ユーザーと過剰なまでにコミュニケーションをとろうとする姿勢があらわれている。

千差万別の意見を取り入れ、最大公約数でかたちにするというのは、なんというか、丈夫だなーと思う。
ぎゅうっと考える丈夫さというか。
「考えればわかるということについてはプロもアマもない」。

糸井さんは若いころ、文庫本そのものを手帳にしていたことがあるそう。
どんなタイトルの本だったかは、さすがに書いていなかった。

私事だけれど、来年はモールスキンの手帳をつかってみるつもり。
土日の欄が小さいのだけが、玉にキズなのだけれど。

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パイド・パイパー

「パイド・パイパー」(ネビル・シュート 東京創元社 2002)。

創元推理文庫の一冊。
訳は池央耿(ひろあき)。

空襲下のロンドン。
クラブで「私」が、元弁護士のハワード老人から話を聞く、という体裁。

ハワード老人は、フランスへ魚釣りにいったところナチスドイツの侵攻に遭遇。
同宿の夫妻からイギリスにつれていってと預けられた子どもたちとともに、一路イギリスをめざす。
子どもは熱をだし、列車はストップ、バスはドイツ軍飛行機により機銃掃射をうける。

いやはや、ものすごく面白い。
読んでる最中は幸せだったなあと、しみじみ思い出してしまうほど。

描写で読ませる。
一定の距離をおいた描写が、一定の歩幅でしるされる。
出来事は順番どおり。
いかにもイギリスの冒険小説という感じ。

老人がフランスにいった動機や、中盤から老人をたすけるヒロインの動機がたいへん個人的。
これまたイギリス小説的だと思う。

「追われる男」(ジェフリー・ハウスホールド 東京創元社 2002)
「人魚とビスケット」(J.M.スコット 東京創元社 2001)

と、ここ最近読んだイギリス小説みんなに、おんなじ感触があった。
そして、どれも素晴らしく面白い。

あと、子どもが活躍したりしせず、ちゃんとこどもっぽいのも印象的。

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男子厨房学入門

「男子厨房学入門」(玉村豊男 文芸春秋 1985)。

文春文庫の一冊。

なにかしようと思うと、まず本をあさるのがクセになってしまった。
情報を得たいのか、本を読む機会を増やしたいのか、われながら判然としない。
病コウコウだ。

「料理をしよう」と思ったとき、思い出したのがこの本。
なぜか以前から手元にはあった。
読んでみたら、超初心者むけで自分にぴったり。
その、ていねいにわかりやすく書かれた文章には、感動をおぼえるほど。

まず最初はフレンチ・トーストのつくりかた。
フライパンにバターをひくことが、こう書かれる。

「バターが少しジュクジュクと溶けはじめたら、フライパンの把手をもって前後左右に傾け、回すようにする。溶けはじめたバターの塊はみずからの溶液の上を滑って前後左右に移動する。」

「みずからの溶液の上を滑って…」のところが、たまらなくいい。

フレンチ・トーストはフランス語では、「失われたパン(パン・ペルデュ)」というそう。
古くなったパンの再生法だったとのこと。
余談だけれど、タナカ家では「ふわふわパン」と呼んでいる。

さて、「ふわふわパン」のつぎは手だけでできる料理。
そのあと、手だけでは不便だね、ということになって包丁が登場。

「料理のなかでいちばん簡単なものは刺身である」

と、著者は断言してしまう。

「日本料理の板前さんは怒り出すにちがいないが、われわれ日常生活者にとっては、ナマのものをそのまま食べることができるという火を使わない料理は、どう考えたっていちばん手のかからない料理だ。」

じつに健全な考え方だ。

このあと、話は鍋物から味噌汁をへて、「昆布とカツオブシ」と「醤油とみりん」の組み合わせへ。
この組み合わせこそ、日本料理の大部分を占める味つけ。
吸物、おでん、スキヤキ、天つゆ、煮魚…。
みんなそう。

「たいがいの日本料理がこの組み合わせのお世話になっている様子は、まったく驚くべきものである。」

超初心者むけの本というのは、ぎりぎりまで根源的に考えた本だというのが、よくわかる一冊。

これを書くために再読していたら、まだつくってない料理がいくつもあった。
ためしてみないと。

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出世ミミズ

「出世ミミズ」(アーサービナード 集英社 2006)。

集英社文庫オリジナル。
著者はアメリカ生まれの日本語詩人。
この本はエッセイ集。

ふしぎなタイトルは、英語では、ミミズは大きさで呼び方がかわることから。

日本語がうまいなんてとうに通り越して、エッセイがうまい。
軽くて、マメ知識が豊富で、話運びがみごと。

ひとつ例を。
「パッキングも大切」という文章。

まず、とっている新聞の話から。
日本語の新聞を一紙とっている。
英語の新聞は図書館で拾い読み。

親族や知人から送られてくる小包みに、ときどきパッキングとして新聞が入っていて、そんなときはしばし読みふける。

話はここから、聖パトリックの日に母方の祖父が送ってくれたカードへ。
聖パトリックは、「三位一体」の教義を説くためにクローバーの葉をつかった。
では四つ葉のクローバーは?
四つ葉のクローバーはマルタ風の十字架に形がそっくりなので、これもめでたし。

で、クローバーの和名はなんだろうと英和辞典を引いてみる。
「シロツメクサ」がそう。

さらに国語辞典で調べる。
「江戸時代に渡来したギヤマン(ガラス製品)を入れた箱の詰め物としてつかわれた」ことが、「白詰草」のその名の由来。

幕府はそれをていねいに取り出し、種をあつめ、栽培してそれが日本中にひろまった。
ひょっとすると、日本で最初に発見された四つ葉のクローバーも、ギヤマンのあいだから拾われたのかも、というのがオチ。

新聞→パッキング→祖父のカード→クローバー→シロツメクサのパッキング。
じつにみごとな話運び。

この本におさめられた、すべての文章がこの水準なのだから、恐れ入ってしまう。

くつろいで、楽しく読了。
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どんがらがん

「どんがらがん」(アヴラム・デイヴィッドスン 河出書房新社 2005)。

奇想コレクションの一冊。

このシリーズはへんてこな短編を紹介してくれるので、へんてこ小説好きとしては、大いに助かっている。
でも、なかでもこの本は、際立ってへんてこ。
しかも、へんてこなことをへんてこに語るので、たいそう読みにくい。
作者はどうしてもストーリーだけを語ることができず、その場の思いつきみたいな知識や描写をいれてしまうよう。
おかげで力強さもあるんだけど。

印象に残ったものをいくつか。

「ゴーレム」
老夫婦のもとに、おまえたちを滅ぼしにきたと告げるゴーレムがやってくる。
でも、老夫婦はおしゃべり好きで耳を傾けない。
たいへん楽しい、ファルス小説。

「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」
安全ピンと自転車の繁殖習性を探求した名作、とこれは序文から。
まさに奇想小説。
よくこんなアイデアを小説に仕上げられるなあ。

「クィーン・エステル、おうちはどこさ?」
一種の怪物小説。
メイドのクィーン・エステルの、勤め先のお屋敷での顛末が、いきいきした口調で語られる。
たいへんよくできた短編。

「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」
陰険な雇い主につかわれているチャーリーが、ふしぎな書店でさまざまな本の話を聞く。
この本についての話がまたへんてこ。
ラストは考えオチになっている。
タイトルもうまい。

印象に残ったとなると、すべてがそうだけれど、なかでもこの三つ。
ほかに、これまた奇想小説の「ナイルの水源」も捨てがたい。

殊能将之の解説がていねい。


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文芸編集者はかく考える

「文芸編集者はかく考える」(大久保房男 紅書房 1988)。

タイトルどおり、文芸編集者だった著者のエッセイ。
巻末に200字の自伝があり、これが要を得ている。

大正10年生まれ。熊野出身。
民俗学者たらんと折口信夫先生に師事するも、師を越えること不可能と覚り、都電の「群像」創刊広告を見て講談社に入った。

前半は文章について。

純文学と大衆文学とでは、文章に対する神経のつかいかたに、差はたしかにある、と著者。
純文学では、型どおりの、手垢のついたことばは避けなければならない。
「雨がしとしと降る」、「黒山のようなひとだかり」はつかってはいけない。

さて。
今回この本を紹介しようと思ったのは、この本にも志賀直哉の文章について書かれていたところがあったなあと、思い出したからだった。

正確には、この本に紹介されている。「ラガナの文章修業」(ドメニコ・ラガナ 講談社 1979)という本。

孫引きになるけれど引用すると、著者のドメニコ・ラガナさんは、読んだ本をとじて内容を思い出しながら書き、本とくらべてみるということをして、短い文章のなかに豊富な内容を盛りこむという日本語の特徴に気づいたのだそう。

例は、志賀直哉の「兎」。
ラガナさんが思い出して書いたのは、こう。

「私が兎を買ったのは、これで3回目になる。第1回目は、私が山科にいたときであり、第2回目は、奈良にいたときだった。しかし、その頃の私は、兎をおもしろい動物とは思わなかった」

対して、じっさいの志賀直哉の文章は、こう。

「兎は前に山科で一度、奈良で一度飼ったことがあるが、飼って面白い動物とは思わなかった」

すごい圧縮力。
でも、これは日本語の特徴というより、志賀直哉の特徴かもなあ。

本の後半は、文士や文壇の話。
文士なんてことばはもうなくなってしまったけれど、著者は文士についてこんなことをいっている。

「本当のことだけをいおうとするのが文士というものだ」

この認識は正宗白鳥からあたえられたという。

「晩年の氏はいい顔をしていた。本当のことだけをいってきたひとは、ああいう顔になるのか」

敬愛がにじみ、読んで気持ちがいい。
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志賀直哉はなぜ名文か

「志賀直哉はなぜ名文か」(山口翼 祥伝社 2006)。

祥伝社新書の一冊。
副題は「あじわいたい美しい日本語」。
翼でたすくと読むそう。

著者の来歴が面白い。
小説家を志すも、語彙の少なさを痛感。
で、このひとは、自分で類語辞典をつくってしまった。
それが「日本語大シソーラス」(大修館書店 2003)。

本書はその辞典作成の、文例採集の余沢として生まれたもの。
魚を釣り上げるように、志賀直哉の文章がつぎつぎと引き抜かれ、コメントとともにおさめられている。

志賀直哉はじつはちゃんと読んだことがない。
でも古典なので、なんとなく雰囲気は知っていた。
野放図な文章というのがその印象。

でも本書を読んだら、志賀直哉はずいぶん推敲をするそう。
これにはびっくり。

ふつう、推敲をかさねると、精緻になっていくものじゃないだろうか。
推敲することで、文法のおかしい、でも意味は通る、適当な感じの文章を書いたのかと思うとじつにふしぎ。

やっぱり、神様のすることはちがうなあ。

志賀直哉はあまり文章談義をしないたちだった。
でも、少しはしている。
それを著者がひとことでまとめると、こうなるという。

「リズムが弱いものは、本当のものでない」
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労働ダンピング

「労働ダンピング」(中野麻美 岩波書店 2006)。

岩波新書の一冊。
タイトルが素晴らしい。
なにが書いてあるか一目瞭然。

現在、雇用は液状化してしまった。
きっかけは1999年の改正労働派遣法。
この規制緩和が、雇用市場を一気に拡大させ、労働の商品化を過熱させた。

非正規雇用職員は、使用者にとって、とても都合のいい労働力になった。

つらい話がたくさん載っている。
請負業者から、同じ賃金で深夜勤務を命じられ、断ったら解雇された。
競争入札があり、仕事は維持できても時給は400円以上ダウン。
生活が維持できなくなった。

きょうから個人事業主としてはたらいてくれ、といわれるケースもあるそう。
そうすれば、使用者は労働法の責任を一切負う必要がなくなる。

また、同じ仕事をしているのに、賃金に差がある。
自治体ではたらく臨時・非常勤職員のアンケートでは、正職員の給料日やボーナス支給日には、心理的に出勤できなくなるという声も目につくという。

さらに期間満了時に、契約条件の変更を通告される。
契約期間の細切れ化も進む。

使い勝手がいいということは、たいへんな競争力があるということ。
当然、正規職員も巻きこまれる。
完全歩合制になったり、きびしいノルマを課せられたり。

グローバル時代での競争力を維持するため、規制緩和がおこなわれたが、それは要するにコストを外部化、個人化することだった。

成果が上げられない現状が、個人の責任となる。

たとえば外食産業などで、店長が過酷な労働をさせられる。
管理監督職が、最低賃金法以下の時給ではたらくようなことが起こる。

労働基準監督署に申告すると、使用者からこういわれる。
「時間外労働は命じていない」
「時間外になるのは能力がないから」
「割増料金を支払わなくてもいい管理監督職だから」

最低賃金は上回っても、生活保護給付以下にしかならない低賃金労働も増えているそう。
著者いわく「反憲法的低賃金労働」。

契約更新というのはハラスメントの機会につながる。

笑ってしまったのは、1995年に問題となった南海放送の話。
女性アナウンサーを契約社員として採用し、4回かぎりの更新で雇用を打ち切っていたそう。
ロコツだなあ。

また、もともと補助的な仕事しかあたえられていなかった女性職員は、成果主義のもと圧倒的に不利になる。
差別は、能力や業績に置きかえられてしまう。

この規制緩和によるコストの個人化現象は、各国で見られるものだとのこと。

雇用条件をよくするのに成功した話も載っている。
でも、不都合が起きるとすぐ雇用を打ち切られる現状では、なかなかむつかしい。

著者は弁護士。
読んでいて、とても怒っていることがつたわってくる。

ことばづかいは、もうちょっとわかりやすいほうがうれしかった。
「月例賃金支給日」は、ひらたくいうと「給料日」のことだと思うけれど。
ちがうかな。


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「大きなかぶ」はなぜ抜けた?

「「大きなかぶ」はなぜ抜けた?」(小長谷有紀=編 講談社 2006)。

講談社現代新書の一冊。
副題は「謎とき世界の民話」。
毎日新聞に載った書評が面白そうだったので読んでみる。

編著なので、いろんなひとが世界のさまざまな民話や昔話について考察している。
知っている話は意外な一面を教えられ、知らない話は興味深い。

書評と印象が重なるけれど、表題作の「おおきなかぶ」の話が面白かった。

「おおきなかぶ」の類話には、ねずみがかぶを食べてしまう話があるそう。
みんなで力をあわせて抜くのとは大ちがい!

それから「桃太郎」の話。
「桃太郎」には、おじいさんとおばあさんが桃を食べて若返り、それでおばあさんが桃太郎を生むというヴァージョンもあるそう。

江戸時代はこっちの話が主流だったらしい。
このヴァージョンに「回春型」という用語があてられているのも、なにやら可笑しい。

その名残か、赤羽末吉が絵を描いた絵本「ももたろう」では、最初に流れてきた桃は食べられている。
食べているおばあさんの絵が、なんとなくかわいい気がする。

そうそう、「おおきなかぶ」は小学校の教科書に載っているけれど、1980年代のはじめ、自民党広報誌がこれを批判したとのこと。

「この民話は団結を考えさせるらしいが、それなら日本の民話にもおなじようなのがある。どうしてソ連の民話をもってくるのか」

と、いうのが批判の趣旨。
それで大論争が起こったそうだけど、これは知らなかった。
こういうことをいうひとを、どうやったら納得させられるものか。

この本はひとつひとつの文書が手ごろな長さで、すぐ読めるのも魅力。
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