人とつき合う法

「人とつき合う法」(河盛好蔵 新潮社 1958)

「人とつき合う法」は社交術を説いたエセー。
出版されて50余年、いまだに新刊が手に入るのだから、大変なロングセラーだ。

古本屋でこの本をみつけて、何気なくカバーをはずしてみたら、下からこんな装画がでてきた。



これは洒落ている。
だれの仕事だろうと思ったら、花森安治だった。
このタイトルの本に、この装画。
さすがのうまさだ。

あんまりうまいので、本をぜんぶ読んだような気になり、おかげで、まだ読んでいない。
いまパラパラやってみたら、つきあいの例として、いろんな本がとりあげられていて、なかなか面白そう。
文章も、さすがロングセラーといったところだろうか。


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「本邦東西朝縁起覚書」「宇宙大密室」「北北東を警戒せよ」

「本邦東西朝縁起覚書」(小松左京 徳間書店 1984)

1973年に早川書房より刊行された本の再版。
短編集。
解説は土屋裕。
収録作は以下。

「召集令状」
「二〇一〇年八月一五日」
「新趣向」
「HE・BEA計画」
「極冠作戦」
「卑弥呼」
「本邦東西朝縁起覚書」

前にも書いたかもしれないけれど、ブログに感想を書くと、とり上げた著者に対して責任が生じたような気になって、なるべくその著者の作品を読まなくてはいけないような気持ちになる。
これはいいのか悪いのか。
小松左京さんの小説も、ブログに書かなければこんなに読むことはなかったろう。
小松さんの短編は、どれも機知に富んでいて、読みやすいのが助かる。
では、簡単に内容を紹介。

「召集令状」
フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」のような、唯我論オチがつかわれている。
それが、ユーモラスではなく、苦い味わいになっているのが独特。

「二〇一〇年八月一五日」
2010年8月15日に、臨終を迎えようとしている男性の脳裏を横切った、1945年8月15日についての述懐をえがいた作品。
おそらく、作者の述懐でもあるかもしれない。

「もう、あの戦争のこと、あの終戦の日のことをとやかくあれこれいうやつもいまい。(中略)第二次大戦も、飢餓も、卑劣さも、口惜しさも、そんなことはさっさときえて行くにかぎる…」

たしかに最近は、だいぶあれこれいわなくなってきた気がする。

「新趣向」
この世界は、じつはだれかの作品なのではないかというパターンの話。
この作品では、じつはテレビなのではないかと登場人物に疑われている。

「HE・BEA計画」
格差是正のため、先進国の主要都市を核で爆破しようとする一派と、弱者切り捨てのため後進国に核ミサイルを撃ちこもうとする一派の暗闘に巻きこまれた〈ぼく〉の話。
最後に〈ぼく〉の正体が明かされてSFになる。

「極冠作戦」
温暖化で上昇した海面を、海上都市が移動する未来、月からきた〈ぼく〉は、温暖化を阻止するある作戦を披露する。
長編のスケッチのような作品。
温暖化のウンチクや、その対策としての大がかりな「極冠作戦」が楽しい。
温暖化をテーマにした作品としては、ずいぶん早いほうなのではないかと思うけれど、どうだろう。

「卑弥呼」
邪馬台国の謎を解くために、〈私〉が相棒とタイムマシンに乗って古代にいく話。
古代史ウンチク小説。
こういうウンチク小説を書かせると、小松左京は天下一品。
ラストはちゃんとタイムパラッドックスで終わる。

「本邦東西朝縁起覚書」
吉野の山奥から南朝の末裔が復活する話。
これもまたウンチク小説。
マスコミが大騒ぎをして、当初の登場人物たちはほったらかしになり、状況説明だけが続くという、いつものパターンだ。


続いて、都筑道夫の短編集――。
「宇宙大密室」(都筑道夫 早川書房 1974)
あとがきによれば、「昭和49年5月までに書いたサイエンス・フィクションと、イマジナティヴ・ストーリイのほとんどを収めた」本。
それにしても、すごいタイトル。
さて、収録作は以下。

「宇宙大密室」
「凶行前六十年」
「イメージ冷凍業」
「忘れられた夜」
「わからないaとわからないb」
「変身」
「頭の戦争」
「カジノ・コワイアル」
「一寸法師はどこへ行った」
「絵本カチカチ山後篇」
「鼻たれ天狗」
「かけざら河童」
「妖怪ひとあな」
「うま女房」

「カジノ・コワイアル」は、「ミステリ・マガジン」がイアン・フレミングの追悼特集をしたとき書いたという、講談調のパロディ。
「鼻たれ天狗」以降の4作品はシリーズ。
大天狗がさばき切れない願いごとを、弟子の鼻たれ天狗がまかされて解決するという趣向の話で、艶笑譚のおもむきが強い。
天狗が主役のシリーズというのもあまりのではないかと思い、印象に残った。

さらに、光瀬龍を一冊――。
「北北東を警戒せよ」(光瀬龍 朝日ソノラマ 1975)
カバー絵は中山正美。
これは少年小説。
最近聞かなくなったけれど、ジュブナイルという言葉がふさわしいだろうか。
ジャンル分けすれば、SFパニックものだ。

主人公は、北九州の炭鉱の町に住む小学6年生の西条守。
ある日、炭鉱で落盤事故が。
幸いに、守のお父さんはケガをしたものの無事だったが、その後も大分、宮崎、福岡、北海道など、日本各地で落盤が相次ぐ。
落盤事故についての研究会に出席することになった担任の岩沢先生が、守を気の毒に思い、東京に連れていってくれることに。

すると、岩手県の安家洞付近で、大規模な地すべりが。
調査にいく岩沢先生にお願いし、守も同行。
もちろん、洞窟には入れない。
が、岩沢先生を含む調査隊が、洞窟内を調査中消息を絶ってしまい、守は町の青年らと救助へむかうことに――。

ラストがいささか尻つぼみなのは、パニックものの常で仕方がない。
でも、話はテンポよく進むし、前半から中盤にかけての洞窟探険シーンは臨場感があって素晴らしく面白いし、それに昔の少年小説らしいいいまわしも楽しい。
地震のあと読んでいるせいか、リアリティも増しているように感じられる。

後半はいよいよ災害の規模が拡大。
千葉で多発地震が起き、富士山が噴火、60メートルに達する津波が起き、横浜から新潟にかけて地割れが走る。

賞味期限が切れていると思ったら、まだ読める。
思わぬ拾いものだった。

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久生十蘭とか都筑道夫とか

門田勲は朝日新聞記者で、名文家の誉れ高かったそう。
ぜんぜん知らなかったけれど、「古い手帖」(朝日文庫 1984)という短文集を読んでいたら、久生十蘭のことがでてきたのでメモ。

話は、難物な小説家について。
挙げられているのは、川端康成と久生十蘭。
でも、ここでは十蘭だけに。
門田さんも、「難物中の難物といえば、久生十蘭さんにとどめをさす」といっている。

なぜ難物かというと、要するに締め切りを守らない。

「たいへんな凝り性で、ああでもない、こうでもないで締切りクソくらえで凝りまくるのだから、担当者はたまらない。催促に行くと先刻速達で送ったところだの、いましがたきた社のだれそれに渡した、などとすぐバレるウソをつく」

十蘭の「十字街」は戦後、朝日新聞の夕刊に連載された。
このときの担当は、十蘭と同じく鎌倉に住むMさん。
朝からねばって、まだ一回分があがらない。
外にでると、自転車のハンドルと軒のあいだにみごとなクモの巣ができあがっていて、Mさんは思わずこういったそう。

「十蘭さん、見ろや。朝から今までかかりゃアな、クモだってこんな立派な巣を作らァ」

原稿ができているときもある。
けれど、十蘭はもうひと凝り凝る気で、原稿を前にして考えこんでいる。
これで結構だと、原稿をかっさらって戸外へ飛びだしたら、
「待てェ…」
と、十蘭がドテラの前をはだけて裸足で追いかけてきた。

ところで、このMさんはじつは牧師さんなのだそう。
それに、なぜか柔道何段かの腕前でもある。
追いかけてきた十蘭に、
「とり返せるならとり返してみろ!」
と、タンカを切ると、十蘭は家の中の奥さんにむかって、
「この野郎と果し合いだ。二階の押し入れから機関銃をもってこい!」
と、怒鳴ったという。

ここまでくると面白すぎて、本当かウソかわからない。
それにしても、「十字街」にこんな裏話があったとは。

さらに、十蘭家の庭にテントを張って頑張っている雑誌記者もいたという。

「もうずいぶん前から、書く書くといいながら、いつまで経っても書かない。今月はなにがなんでも書かせる。書くまでこうやってテントでがんばるんだ」

この雑誌記者は、ときどき庭の松の木にのぼり、2階の書斎をのぞきこんで、
「やい十蘭! はやく書けェ!」
と、怒鳴ったとか。
まるでマンガだ。

久生十蘭の遅筆は有名で、たしか渋澤龍彦だったか、吉行淳之介だったかも原稿をとるのに苦労した話を書いていた気がする。
しかし、いまこんなに原稿を遅らせていたら、注文がこなくなる気がするけど、どうだろう。

お話変わって。
「風貌談」(文芸春秋 1996)という本があって、これはいろいろな作家がお気に入りの男優について書いた文章をまとめた本。
副題は、「男優の肖像」。
好きなものについて書くとだれしも熱が入るもので、この本も読みはじめるとやめられない一冊になっている。

この本に、何年かまえ亡くなった小説家の都筑道夫さんが参加している。
都筑さんがとり上げた男優は、宮口精二。
宮口は、「役のうしろに貼りついてしまうような役者で」、「この俳優がどこに住んでいて、いまいくつで、子どもがいるかどうか、演技をどう考えているか、知りたいとは思わない」から、都筑さんは好きなのだそう。
ひとことでいうと、「自分の影を消している」。

ここで、都筑さんは十蘭のことをもちだしてくる。
都筑さんの理想の小説家は、久生十蘭だった。

「好きで、たくさん読んでいる作家、まねをした作家、影響をうけた作家は、ほかにもいる。だが、こうなりたい、と思うのは、久生十蘭だ」

十蘭の作品は、作者名がなくても十蘭の作品とわかる。
が、作者の顔や生活はうかがえない。
作品に、作家の影がさしていない。

「私も最初は、十蘭のように書いていこうとしたが、じきに身辺雑記を書いたり、小説に私生活を重ねたりして、だめになった」

と、都筑さんは口惜しそうだ。
ところで、都筑さんが十蘭をもちだしてきたのには訳がある。
十蘭は、文学座の創立からしばらくのあいだ、本名の阿部正雄で演出助手をつとめていた。
そのとき、宮口精二と当然口をきいていたはずだと、都筑さんはいう。
二人は一体どんな話をしたのか。

「それだけは、ちょいと知りたいような気がする」

と、都筑さんはこの短文を結んでいる。

都筑作品はけっこう読んだけれど、あんまり面白いと思ったことがない。
趣向は面白いし、読んでるあいだは面白いのだけれど、読み終わると忘れてしまう。
その「面白くなさ」には、なにか独特のものがあって、それがなにやら面白い。

たぶん、都筑作品の「面白くなさ」は、登場人物の感情よりも筋を優先するためだろう。
それに、読むとすぐ忘れてしまうのは、作風があんまりフラットだからだろう。
都筑さんはそれを狙ってやっているのか、それとも書くとどうしてもそうなってしまうのか。
そこはよくわからない。
でも、あるていどは狙っていたのではないかと思う。
でなければ、あんなに盛り上げない書きかたをわざわざしやしないだろう。
そのつまらないところがとても魅力的なのだといったら、作者には失礼だろうか。

都筑作品はともかく、都筑さんが書いた本の紹介文や解説は、読んで感心しなかったということがない。
どれもみんな面白い。
いま、「サタデイ・ナイト・ムービー」(集英社文庫 1984)という、映画評をあつめた本を読んでいるけれど、これも面白い。
ちょうど、「スターウォーズ」が公開されたころの映画について書かれているのだけれど、「スターウォーズ」について都筑さんは、細部の充実振りをほめながら、ルーカス監督の話はこびの不器用さにも触れている。
30年近くまえに書かれた映画評がいまでも面白いというのは、一体なんなのか。
読んでいないけれど、都筑さんが「ミステリマガジン」に連載していた読書エセーをまとめた「都筑道夫の読ホリデイ 上下」(フリースタイル 2009)も、きっと面白いにちがいない。

また、話は変わって。
「ラジオが泣いた夜」(片岡義男 角川文庫 1980)をぱらぱらやっていたら、巻末に都筑道夫さんと片岡義男さんの対談が載っているのをみつけた。
片岡さんは学生時代、都筑さんの家を訪れたことがあるそう。
都筑さんの仕事部屋の印象を、非常に視覚的に語っているのが、いかにも片岡義男さんらしくて面白い。

「ペン立てに、おなじ鉛筆が何本もぎっちりと立っていて、非常に鋭利にとがらせてあり、とがっているほうが上をむいていました」

続けて、都筑さんのつかっている鉛筆が2Hだったことにショックを受けたという片岡さんは、こんなエピソードを話す。

「高校のとき、ぼくの席のまえに、とてもきれいな女のこがいて、かなり仲が良かったのですが、彼女の鉛筆が2Hでとがっているんですよ。彼女の鉛筆を見るたびに、なぜかつらい気持ちになりました」

これも、いかにも片岡さんらしい。
都筑さんが2Hの鉛筆をつかっていたのは、手が汚れないようにするためだったそうで、ひょっとしたら女の子もそのために2Hをつかっていたのかも。

ところで、久生十蘭と作風はぜんぜんちがうけれど、片岡義男さんも「自分の影を消す」作家のひとりだろう。
都筑さんが理想とするタイプの作家だと思うけれど、片岡さんの存在に、都筑さんはいささか困惑しているよう。
都筑さんのつけたこの対談のタイトルは、「きみは、何なの?」。
なんだか可笑しみのあるタイトルだ。

ずいぶん長くなってしまったけれど、もうひとつだけ。
雑誌「別冊宝石」の1982年冬号に、都筑道夫さんと佐野洋さんによる「現代ミステリーの問題点」という対談が載っているのをみつけた(ぜんぜん関係ないけれど、この号には漫画家の水木しげるさんの小説も載っている。「天使(エンゼル)」というタイトルで、全編会話で進む小品)。

小鷹信光さんが、「トリックという言葉は、外国のミステリー作家には通じないだろう」と書いていて、それが面白かったということろから対談はスタート。
なるほど、考えてみるとトリックにあたる言葉はない、けっきょく「プロット」になってしまうと都筑さん。

「戦前のミステリーが、それほどトリック中心だったわけでもないのね。それが戦後になって、乱歩さんが声高にトリックといい、ディスクン・カーといったために、かなり道を間違えてしまったような気がする」

「今イギリスに、新しい本格派と呼ばれている人達がいるけれども、その人達の作品に、日本人のいうトリックがあったためしがないんですね」

ここでいっているトリックとは、大道具や大仕掛けのこと。
トリックという言葉が、外国の作家には通じないという指摘は、考えたこともなかったので新鮮だった。

「トリックじゃなくて謎という形でとらえれば、もっと小説的に発展していく可能性があるような気がするんですよ」

と、都筑さんは新たな道をさぐっている。
ところで、都筑さんは警官が探偵役の小説は書いていない。
それはなぜかと佐野洋さんがたずねると、都筑さんはこうこたえる。

「警官か嫌いなの。それともう一つは、警官の機構を調べたりするのが面倒くさいのよ」

じつに端的な返答だ。
都筑さんが参加した対談は、きっとたくさんあると思う。
一冊にまとまったら読んでみたいと思うけれど、なかなかむつかしいだろうか。


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