2008年 ことしの一冊たち 下半期

7月
「伴走者たち」(星野恭子 大日本図書 2008)
最近、視覚障害者による自転車競技があることを知った。2人乗りの自転車の後ろに健常者が乗り、助言をするのだそう。これも伴走者といえるだろうか。
「ドキュメント・ユニバーサル・デザイン」シリーズは、ほかにも面白そうな本があるのだけれど読めていない。

「だれも寝てはならぬ」(ダイヤモンド社 2006)
いま思ったけれど、この本、本国では、怖い作品とユーモラスな作品を別々に出版していて、それを日本ではまとめて一冊にしたのかも。

「本を愛しなさい」(長田弘 みすず書房 2007)

8月
「イスラームから考える」(師岡カリーマ・エルサムニー 白水社 2008)
「ある文章」はコピーじゃなく、切り抜きだった。
岩波のPR誌「図書」から切り抜いたもので、現代アラブ文学を専門とされている岡真理さんの文章。タイトルは「棗椰子の木陰の文学」。例によって何年何月号なのかメモをとっていない。
内容は、戦争の惨禍をまえに文学になにができるのかといったもの。
ジャーナリズムは戦争が起こると、その戦争問題が起きた社会について伝える。けれど、大切なのは、それに先立つ生の具体的な細部ではないだろうか。それを知らなければ、戦争がなにを破壊したのか知ることもできない。だからこそ文学が必要。この文章の最後の一節を引いておこう。
「「今、ここ」の悲惨を伝えるためではなく、そうした惨禍がなかったならば、人々が送っていたであろう物語、棗椰子の木陰で愛を語りあう人々の物語や、オリーヴやオレンジやレモンの木と戯れる子供たちの物語、人が生きることの哀歓を私たちに感じさせてくれるような物語が」

「となりの宇宙人」(半村良 徳間書店 1975)

「雨の日はソファで散歩」(種村季弘 筑摩書房 2005)

「三つの物語」(フロベール 福武書店 1991)

9月
「老師と少年」(南直哉 新潮社 2006)

「スナップ写真のルールとマナー」(日本写真家協会編 朝日新聞社 2007)
「エドさんのピンホール写真教室」(エドワード・レビンソン 岩波書店 2007)

「やさしく極める“書聖”王義之」(石川九楊 新潮社 1999)

「崖の上のポニョ」(宮崎駿 徳間書店 2008)

10月
「ナポリへの道」(片岡義男 東京書籍 2008)
この本を読んでから、自分でナポリタンをつくって食べてしまった。喫茶店でも食べた。喫茶店ではメニューに「懐かしの味」とことばがそえてあったから、ナポリタンは滅亡してはいないものの懐かしくはなっているようだ。

最近読んだ本いろいろ
「ロールスロイスに銀の銃」(チェスター・ハイムズ 角川文庫 1971)
「風雲海南記」(山本周五郎 新潮文庫 1992)
「妖精ディックのたたかい」(キャサリン・M・ブリッグズ 岩波書店 1987)
「こわがってるのはだれ?」(フィリパ・ピアス 岩波書店 1992)
「大いなる遺産 上下」(ディケンズ 新潮文庫)

さらに最近読んだ本いろいろ
「ガールハンター」(ミッキー・スピレイン 早川書房 1962)
「迷宮1000」(ヤン・ヴァイス 創元推理社 1987)
「恐怖の兜」(ヴィクトル・ペレーヴィン 角川書店 2006)

「新カンタベリー物語」(ジャン・レー 創元推理文庫 1986)
「奇跡への旅」(ミッシェル・トゥルニエ パロル舎 1995)


11月
「政治と秋刀魚」(ジェラルド・カーティス 日経BP社 2008)

「漫画映画の志」(高畑勲 岩波書店 2007)

「サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法」(池上正 小学館 2008)

「七人の風来坊」(ホーソーン 岩波書店 1952)

「百まいのドレス」(エレナー・エスティス 岩波書店 2006)

12月
「臨床瑣談」(中井久夫 みすず書房 2008)

「汚れた7人」(リチャード・スターク 角川書店 1971)

「夜のスイッチ」(レイ・ブラッドベリ 晶文社 2008)

「村田エフェンディ滞土録」(梨木香歩 角川書店 2007)

細かいものは省略して、主だったものは以上。
うーん、やっぱりおぼえちゃいないなあ。
だいたい、小説と小説以外の本が半々。
3分の1が児童書。
ブログに書いていないぶんを含めると、読んでいる本の割合としては小説以外の本のほうが多いかも。

ブログとしては、ジャンルをきめて、そのジャンルの本について紹介していったほうが親切なのだろうけれど、日々脈絡なく本を読んでいるので、こればっかりはしかたがない。
それにしても、脈絡なさすぎだろうか。
でも、できればもっといろんな本を読みたい。
図書館関係の本も、読んではいたのだけれどひとつも記事を書いていないや。
なんとかしよう。

ことしの更新はこれで最後。
皆様、よいお年を。

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2008年 ことしの一冊たち 上半期

ことしは一体どんな本についての記事を書いたのか?
書いた当人も忘れているので、まとめてみたくなった。
主だった記事をとりあげ、なにか思いついたらコメントをつけていきたい。

1月
「新聞社」(河内孝 新潮社 2007)
ことしは毎日新聞にとって多難の年だった。
「毎日新聞海外版低俗記事事件」(という名称でいいのかな)があったし、「ヤマダ電機見出し事件」があった。
このサイトの閲覧数は、記事をアップした日で200件台くらいなのだけれど、ことし一度だけ2千件を超えた日がありびっくりした。
思えば「低俗記事事件」の余波だったのかもしれない。

「お金もうけは悪いこと?」(アンドリュー・クレメンツ 講談社 2007)

「きみのためのバラ」(池澤夏樹 新潮社 2007)
池澤さん個人編集による「世界文学全集」の評判は上々のよう(個人的には、あの蛍光色の装丁がすぐ色褪せてしまうのではないかと心配)。
池澤さんは夕刊フジで「世界文学全集」にまつわるエッセーを連載していて、それはここでも読むことができる。

2月
「メディチ・マネー」(ティム・パークス 白水社 2007)

「時間エージェント」(小松左京 新潮社 1975)

「水彩学」(出口雄大 東京書籍 2007)
モスバーガーのパンフレットの絵を描いたひとだとわかったのが一番の収穫。

「アマチャ・ズルチャ」(深堀骨 早川書房 2003)
最近、W・H・ホジスンの「夜の声」(創元推理文庫 1985)に収められた表題作、「夜の声」を読んでいたら、うっかり笑い出してしまった。
「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」を読んでいたせいだ。

3月
「犬に本を読んであげたことある?」(今西及子 講談社 2006)

「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」(ウィリアム・ブリテン 論創社 2007)
論創社ミステリはだんだん存在感を増してきたという感じがする。継続は力なりだろうか。

4月
「テキサスぽんこつ部隊」(グレンドン・スウォーサウト 角川書店 1980)
これは賞味期限切れ小説だから、あんまりオススメできない。
ことし印象に残った賞味期限切れ小説は、これとミッキー・スピレインのマイク・ハマーもの。
賞味期限切れ小説は、ひとにはオススメできないけれど、読むのは好きだ。

「きみの血を」(シオドア・スタージョン 早川書房 2003)

5月
「象を洗う」(佐藤正午 光文社 2008)
コメントにも書いたけれど、「ありのすさび」(2007 光文社文庫)もとても面白かった。

「作家の生き方」(池内紀 集英社 2007)

「先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!」(小林朋道 築地書館 2007)
この本は、「先生、シマリスがヘビの頭をかじっています!」(築地書館 2008)という続編がでた。
絶対面白いと思うのだけれど、まだ読んでいない。

6月
「聖ヨーランの伝説」(ウルフ・スタルク あすなろ書房 2005)

「先生と老犬とぼく」(ルイス・サッカー 文研出版 2008)

「刈りたての干草の香り」(ジョン・ブラックバーン 論創社 2008)

「フーさん」(ハンヌ・マケラ 国書刊行会 2007)

「ビッグ・マン」(リチャード・マーステン 東京創元社 1960)
「湖畔に消えた目撃者」(エド・マクベイン 扶桑社 2001)

「一言半句の戦場」(開高健 集英社 2008)
開高健は好きな作家。この本がでたおかげで、開高健にまつわるいろんな記事を自分なりにまとめることができ、嬉しかった。

「ブルーノってだれ?」(アーヒム・ブレーガー 佑学社 1982)






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HP更新

ホームページにときどき載せている、「翻訳味くらべ」を更新。

今回は、「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)から。
この本に載っていた、小鷹信光訳の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」にかんする指摘と、著者による改訂訳についてとり上げています。

この本には、ほかにも面白いことがたくさん書いてあるので、またとり上げたい。

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世界短編傑作集 1

「世界短編傑作集 1」(東京創元社 1960)

収録作は以下。

「序」 江戸川乱歩
「人を呪わば」 ウィルキー・コリンズ (中村能三訳)
「安全マッチ」 アントン・チェホフ (宇野利泰訳)
「レントン館盗難事件」 アーサー・モリスン (宇野利泰訳)
「医師とその妻と時計」 アンナ・カサリン・グリーン (井上一夫訳)
「ダブリン事件」 パロネス・オルツイ (宇野利泰訳)
「十三号独房の問題」 ジャック・フットレル (宇野利泰訳)
「放心家組合」 ロバート・バー (宇野利泰訳)

解説は、いつものように中島河太郎。
訳者では、宇野利泰さんが大活躍。
チェーホフまで訳しているけれど、これは英語からの重訳ということだろうか。

再読はフレツトルの「十三号独房の問題」。
初読のときもそう思ったけれど、この話はずるいよなあ。
フレットルにはもっと面白いものがあるように思うのだけれど。

さて、面白かった作品は以下。

「人を呪わば」 ウィルキー・コリンズ
書簡体でつづられたユーモア推理小説。
まず最初の手紙は「刑事課シークストン主任警部より同部パルマー部長刑事へ」。
この手紙で、現在パルマー部長刑事が扱っている盗難事件が、新しくやってくるマシュウ・シャーピンなる人物に引き継がれることが示唆される。
以後、シャーピンによる捜査の報告がつづくのだけれど、このシャーピンというのがとんだスットコドッコイ。
部屋の壁に穴をあけ、犯人と思われる人物を監視したり、女性のいうことはみんな信じこんでしまったり。
しかも、報告書には鼻もちならない尊大なことを書く。
「小生にはこの(監視)計画は、大胆と直截という、はかり知りがたい長所を兼ねそなえているように思われます」
うんぬん。

シャーピンがへまをするのは読んでいてすぐわかる。
犯人もすぐ見当がつく。
これは読者の読解力というより、作者が花をもたせてくれるため。
このあたりに、ウィルキー・コリンズの腕の冴えがある。
この作品、パーシヴァル・ワイルドの「探偵術教えます」(晶文社 2002)の先駆的作品といえるかもしれない。

「医師とその妻と時計」 アンナ・カサリン・グリーン
いつも作品のまえにつけられている簡潔な紹介文によれば、作者はアメリカの女流作家。
はじめて女性で推理小説の長編を書いたひとといわれているそう。
本作は長めの短篇。
事件を担当した若い刑事、エベニーザー・グライスの報告という体裁で書かれている。
(本編中「いまでこそ私も七十歳だし…」などとグライスがいっているのは、報告書としては妙なことだ)

事件は、高名な市民であるハスブルック氏が自宅で何者かに射殺されたところから。
ハスブルック氏の隣りには、盲目の医師と美人の妻が住んでいる。
医師は、「彼を殺したのは私だ」と口走り、妻は夫の気がふれたのではないかと悲しみに沈んでいる。
一応、医師に話を聞いてみるものの、自供だけで犯人にはできない。
最終的に、医師のピストルの腕前をためすことになるのだが…。

最後は劇的。
劇的にするため、ずいぶん無理をしている感じなのだけれど、いままでの描写が効いているためか素直に悲劇を味わうことができる。
推理小説というより、一般小説に近い味わい。

「放心家組合」も興味深かった。
奇妙な味と紹介されているけれど、これは推理小説のパロディだろう。
推理小説というのは、茶化したくなるジャンルなんだなあと、あらためて思った。

さて。
これで「世界短編傑作集」全5巻を読み終えたことになる。
全巻通して、どの作品を面白く思ったかメモしておこう。

1巻
「序」 江戸川乱歩
「人を呪わば」 ウィルキー・コリンズ
「医師とその妻と時計」 アンナ・カサリン・グリーン

2巻
「赤い絹の肩かけ」モーリス・ルブラン
「オスカー・ブロズキー事件」R・オースチン・フリーマン
「好打」E・C・ベントリー

3巻
「堕天使の冒険」パーシヴァル・ワイルド
「偶然の審判」アントニー・バークリー
「密室の行者」ロナルド・A・ノックス

4巻
「殺人者」ヘミングウェイ
「三死人」イーデン・フイルポッツ
「オッターモール氏の手」トマス・バーク
「銀の仮面」ヒュー・ウォルポール

5巻
「ある殺人者の肖像」 クウェンティ・パトリック
「十五人の殺人者たち」 ベン・ヘクト

うーん、すでにストーリーを忘れてしまっているものもちらほら。
われながら、記憶力が悪いなあ。

全巻通しての感想は、江戸川乱歩のアンソロジストとしての力量に感銘をうけたということが一番。
先人のえらんだベストを参考にしたとはいえ、歴史的にも、ジャンルの広がりについてもよく押さえられている。
名アンソロジーの誉れにたがわないできばえだと思った。

また、1巻には乱歩による「序」がついているのだけれど、これがとてもいい。
本アンソロジーの趣旨を無駄なく記していて、じつにみごとなもの。
乱歩が書いたという各作品の紹介文もすごい。
一般に、紹介文は短ければ短いほどむつかしくなるものだけれど、この紹介文はこれ以上は無理だというほど簡潔にまとまっている。

そうそう、「世界短編傑作集」は、たまたま手にしていたのが初版だったので、いつも造本の堅牢さに感心した。
いまの本では、こうはいかない。
逆に、いまの本ならすぐに分解できるから、気に入った短篇だけをあつめて自分で製本しなおすことができるかもしれないと思った。

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現代日本のユーモア文学 1

「現代日本のユーモア文学 1」(立風書房 1980)

編集は、吉行淳之介、丸谷才一、開高健。
装丁は、山藤章二。

収録作は以下。

「白毛」「夜ふけと梅の花」 井伏鱒二
「ちっぽけな象がやってきた」「酒肆長谷川壁上の戯画に寄す」「橋の袂の――」 三好達治
「悩ましき土地」「皿の苺」 吉行淳之介
「刀をぬいて」 岡本一平
「喧嘩早雲」 司馬遼太郎
「閣下」「小問題大問題」 佐々木邦
「リバーマン帰る」 田村隆一
「ミルク色のオレンジ」 池田満寿夫
「教授と娼婦」 田中小実昌
「特別阿房列車」 内田百けん(けんは門に月)

三好達治、田村隆一は詩。
第1巻は芸達者がそろっている。
どれも面白いけれど、好みなのは以下。

「白毛」 井伏鱒二
これは再読。
主人公の〈私〉が、悪漢の手により、釣り糸用にと白髪を抜かれる話。
この作品の面白さは、文章の妙味につきる。
その表現力のきめの細かさや的確さには比類がない。
悪漢のひとりの名前が「コロちゃん」というのも可笑しい。

「刀を抜いて」 岡本一平
著者は、岡本かの子の夫、岡本太郎の父親だと思った。
本職は漫画家で、このすこし長めの短篇のなかにも、スマートかつ滑稽味のある挿絵をたくさん描いている。

本編は時代劇。
語り口は講談調。
本所割下水で夜鷹そばを商っている貧乏夫婦に、三五郎というせがれがいた。
これが、美男だけれどたいへんな無精者で、いつまでもぶらぶらしている。
不況により家計が逼迫してきたため、夫婦は三五郎を放り出そうと決心。
「美男なら役者だが、役者は芸をつまなきゃいけねえ商売だから奴には駄目だ。なら、大名か侠客だが、大名には家柄がいる。侠客は度胸がいるが、まあなくてもなんとかなるだろう」
というわけで、派手な着物を着せて侠客っぽく仕立て上げ、三五郎を世間へ。

追い出された三五郎は、とりあえず幡随院長兵衛の子分の唐犬権兵衛にケンカを売る。
権兵衛のお情けで、兄弟分の盃を交わしたものの、なんの拍子か河に落ちて流される。
流された先では漁師に拾われ、その漁師の娘は借金のかたに悪者の手ごめにされそうになっていて…。

というわけで、本編は時代劇版三年寝太郎のような作品。
話はとどこおることなくどんどん進んで、たいそう楽しい。
作中で、作者は自作のことを「漫画小説」と呼んでいる。

「一体漫画小説というものは、一切史実やいい伝えに頓着なく一種の詩を諷歎するために勝手な材料を勝手にもぎとってきて勝手な構造に組み立てます。純小説も顔をそむけ講談を取扱い得ない、この勝手な詩というところにお目止められて末永く御愛顧を願う次第ですが…」

こんな「漫画小説」がほかにもあるなら、もっと読みたい。
それにしても、この作品など、アンソロジーに入っていなければ、けっして読みはしなかったろうなあ。

「喧嘩早雲」 司馬遼太郎
「漫画小説」のあとに司馬遼太郎の作品がきているのも、両者の相違をくらべて楽しめるようにという、編集者の配慮かもしれない。

内容は、田崎早雲の生涯をえがいたもの。
早雲は、幕末の足利藩に、足軽の子として生まれた。
武芸に秀で、江戸へ留学の話もあったが、貧乏のため留学費用が工面できず、話は立ち消えに。
画才があった早雲は、絵で身を立てようと江戸へおもむく。
しかし、うまくいかない。
自分の絵に文句をいうやつには鉄拳制裁をくわえ、思うように描けないと突然旅にでる。
道みち絵筆で路銀を稼いで、道場があれば試合を申しこみ、不敗とまでいわれるようになるものの、それは志がちがう。
乱暴狼藉のすえ、江戸におられなくなり、足利にもどる。
ちょうど維新の騒動のころで、世間の広い早雲は足利藩に重く用いられ、事実上、藩の大将に…。

なにやら、かけちがっていた男の生涯を、作者はユーモラスにえがいている。
司馬遼太郎の作品を読むといつも思うことだけれど、話が因果関係だけで進んでいく。
空間は単語だけで表現され、よほどのことがないかぎり描写されない。
なので、どんな部屋で話しているのかなどは、よくわからない。
とても随筆的だ。

「特別阿房列車」 内田百けん(けんは門に月)
パソコンではけんの字がでないから、百鬼園先生と呼ぼう。
百鬼園先生は、用もないのに汽車で大阪にいき、帰ってくることを思いつく。
いくまえからあれこれと考えをめぐらせ、旅費を借り、同行者を得て、いって帰ってくる。
そのことが、倣岸不遜な文章で書かれている。
冒頭の一節を引こう。

「用事がないのに出かけるのだから、三頭や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むお得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔つきは嫌いである」

ぐるぐるする考えと、ふんぞり返った表現が面白いのだけれど、うるさいと感じられることもしばしば。
面白いか、うるさいか、むつかしいところだ。

「リバーマン帰る」 田村隆一
これは、日本で暮らしていたアメリカの詩人が帰国するさいの送別を詩にしたもの。
とんでもなくテンションが高い。
「お別れパーティで、酔っ払って、演説した」と作中にあるけれど、全編そんな感じ。
不思議と、読み終わるとはればれとした気持ちになる。
全文は長いから、最後の3行だけ引いて、察してもらおう。

「さ、元気で! きみたちの一路平安を祈る!
 日本のことなんか、忘れてしまえ!
 あばよ、カバよ、アリゲーター!」

さて。
これで「現代日本ユーモア文学全集」全6巻を、すべて読み終えた。
全巻を通して、特に面白いとを面白いと思った作品を記しておきたい。

1巻
「白毛」 井伏鱒二
「刀をぬいて」 岡本一平

2巻
「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」 和田誠
「モッキンポット師の三度笠」 井上ひさし
「酒宴」「饗宴」 吉田健一

3巻
「初春夢の宝船 遠藤周作
「甲子夜話の忍者」山田風太郎
「尋三の春」木山捷平

4巻
「風博士」 坂口安吾
「夫婦善哉」 織田作之助
「すばらしい食事」星新一
「鱸とをこぜ」 阿川弘之

5巻
「華燭」船橋聖一
「人はなんによって生くるか」「対話〔砂について〕」 山本周五郎
「ぐれはまちどり」色川武大

6巻
「御先祖様万歳」小松左京
「梅龍の話」小山内薫

最後にまとめ。
どうも、文章のいいまわしの面白さで読ませるものよりも、プロットの面白さで読ませるもののほうが、作品の寿命が長いような気がした。
まあ、人情をうがったものよりも、ナンセンスなもののほうが好きだという、こちらの趣味のせいもあるかもしれない。
逆にいうと、文章で読ませる井伏鱒二や木山捷平はどんなにすごいか。

あと、編者に女性がまじっていれば、あるいは全員女性だったりしたら、相当ちがった作品がえらばれるのではないかという気がする。

ともあれ、こんな作品もあったんだという発見のよろこびは充分に味わえた。
自分の嗜好も再確認できたし、当初のもくろみどおり、本棚に場所も空いた。
有意義な読書だった。

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たら本で遊ぼう その4

たらいまわし本のTB企画。
通称「たら本」。

今回は、31回目から38回目まで。

◆「積読の山も誇りと本の虫
「千夜一夜物語」「聊斎志異」とそのほかたくさん。
一首詠むようにとの仰せなので、積読終了後という夢シチュエーションで。
見渡せば文も頁もなかりけり空の書棚の秋の夕暮

◆「ねこ・ネコ・猫の本
「85枚の猫」(イーラ 1996 新潮社)
写真集。これを読んだあと「猫さまとぼく」(岩合光昭 岩波書店 2004)を読むと楽しい。

◆「悪いやつ
「こわいわるいうさぎのおはなし」(ビアトリスク・ポター 福音館書店 2002)
ピーターラビットの絵本の一冊。
こいつは悪いやつだ。

◆「行ってみたいあの場所へ~魅惑の舞台
「ゲド戦記」(ル=グウィン 岩波書店)のアースーシー世界。
竜をいっぺんみてみたい。

◆「おすすめ! 子どもの本」
・「ゆうれいは魔術師」(S・フライシュマン あかね書房 1994)
この作家は「シド・フライシュマン」と「S・フライシュマン」で検索結果が変わるから要注意。
「ドリトル先生」シリーズ(ロフティング 岩波書店)
子どものころはマンガしか読まなかったのだけれど、唯一これだけは読んだ。ドリトル先生のことはいまだに尊敬している。

◆「少女の物語
「少女神第9号」(フランチェスカ・リア・ブロック 理論社 2001)

◆「犬にかまけて
「ダーシェンカ」(カレル・チャペック メディアファクトリー 1998)
「赤いおおかみ」(フリードリッヒ・カール・ヴェヒター 古今社 2001)
「アンジュール ある犬の物語」(ガブリエル・バンサン ブックローン社 1986)
「カシタンカ」(チェーホフ 未谷社 2004)
・「若き日の哀しみ」所収の「少年と犬」(ダニロ・キシュ 東京創元社 1995)
「若き日の哀しみ」以外は、みんな絵本。今回、「たら本」の記事を書くにあたって、一作家一作品にしようと思っていたのだけれど、「ダーシェンカ」や「アンジュール」はどうしても入れたかった。「アンジュール」は字のない絵本で、絵の語る力が素晴らしい。「カシタンカ」も絵がいい。

◆「「何か面白い本ない?」という無謀な問いかけに答える
「ジーヴズの事件簿」(P・G・ウッドハウス 文芸春秋 2005)
とはいうものの、「ビンゴが馬鹿すぎてほんとうに頭にくる」といった知人がいたから、万人向きとはいえないかも(この感想には笑ってしまった)。

以上。
これ以降も「たら本」は継続中。
ずっと参加していたのだけれど、秋からばたばたしていたため、途中から参加できなくなってしまった。
でも、自分では思いつかないようなテーマにそって本を挙げていくというのは、とても楽しい。
いずれまた参加してみたいと思っている。


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たら本で遊ぼう その3

たらいまわし本のTB企画。
通称「たら本」。

今回は、21回目から30回目までのテーマに沿った本を考えてみました。

「教えてください!あなたのフランス本」
三つの物語(フロベール 福武書店 1991)

◆「サヨナラだけが人生か? グッドバイの文学」
「永訣の朝」(宮沢賢治)
 中学生のとき、国語の教科書で読んだ。
「奥さんが亡くなられたさいの山本夏彦の礼状」
 山本夏彦さんが、奥さんが亡くなられたさい、会葬者に配った礼状。わずか数行だけれど忘れがたい。でも、なにで読んだか忘れてしまった…。

◆「笑う門には福来たる!“笑い”の文学」
 これは「こたつで読みたいバカバカしい本」を参照のこと。
 このときとりあげ忘れた本を追加しておこう。
「スポーツマン一刀斎」(五味康祐 講談社 1995)
 大衆文学館シリーズの一冊。奈良の山中からあらわれた剣術の達人が、ひょんなことからプロ野球界に身を投じ、前人未踏の打率10割を達成する。
「オズワルド叔父さん」(ロアルド・ダール 早川文庫 1991)
 強力な媚薬をつかい、著名人の精液を手に入れ売りさばこうとするオズワルド叔父さんの活躍をえがいた艶笑譚。
「小林賢太郎戯曲集 椿 鯨 雀」(小林賢太郎 幻冬舎文庫 2007)
 最近ラーメンズのDVDばかり観ているのだけれど、そのコントをあつめた本。

◆「五感で感じる文学
「水と砂のうた」(バリー・ロペス 東京書籍 1994)
 短編集。このなかに砂漠の温泉に入るだけの話があり、すこぶる五感に訴えてくる。

◆「『ドイツ』の文学
・「縛られた男」(イルゼ・アイヒンガー 同学社 2001)
・「壜の中の世界」(クルト・クーゼンベルク 国書刊行会 1991)

◆「本に登場する魅惑の人々
「大いなる遺産」(ディケンズ 新潮文庫 1951)
 この本にジョーという素晴らしい好人物ででてきて、登場するたびに嬉しく思った。

◆「ウォーターワールドを描く本
「クジラが見る夢」(池澤夏樹 新潮文庫 1998)
「ニワトリ号一番のり」(J・メイスフィールド 福音館書店 1980)
「ぼくの町にくじらがきた」(ジム=ヤング 偕成社 1978)
「ニワトリ号…」は、読まれていない児童書だと思うけれど、じつはムチャクチャ面白い。
「ぼくの町に…」は写真絵本。

◆「あなたの街が舞台となった本
なし。

◆「酒と本
「酒肴酒」(吉田健一 光文社文庫 2006)
「地球はグラスのふちを回る」(開高健 新潮文庫 2005)

◆「フシギとあやし
「本という不思議」(長田弘 みすず書房 1999)
 この本は読書エセー集。タイトルから連想しただけ。




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村田エフェンディ帯土録

「村田エフェンディ滞土録」(梨木香歩 角川書店 2007)

角川文庫の一冊。
カバーイラスト、近藤美和。
カバーデザイン、鈴木久美(角川書店装丁室)。
挿絵、中村智。

先日、フロベールの「三つの物語」を読んだときのこと。
この本に収められた、「純な心」にたいへん感銘を受け、本を知人に貸した。

ところが、古諺にあるとおり、「本は無理にひとに読ませることはできない、感じ入らせることもできない」。
あんまり面白くなかったと知人はいう。

「たしかにすごいというのはわかる。文章は乱れがなく、整然としていて、無駄もなければ隙もない。でも、この話はなんだか残酷で好きになれない」

――そう。たしかに残酷かもしれない。でも、無慈悲じゃない。主人公の生涯に寄り添うように書かれた文章には、あたたかいまなざしがあると思う。

と、いうようなことをいおうとしたけれど、黙っていた。
代わりにいま読んでいる本の話をした。
「村田エフェンディ帯土録が面白かった」
と、そのひとはいう。
よし、じゃあ読んでみよう。

こういう経緯で本を読むと、意地悪な読みかたをしてしまう。
でも、この本は面白かった。
ラストは電車のなかで読んでいたのだけれど、不覚にも落涙しそうに。

(私)、村田の1人称。
1人称といってもいろいろあり、本書の1人称はだいぶ3人称に近い。
時代は明治のころ、舞台はオスマントルコ帝国のイスタンブール(本書中ではスタンブール)。
村田は留学生としてかの地に滞在している。
時代を反映して、文章は古風。

下宿先は国際色が豊か。
下宿の主人は、イギリス人のディクソン夫人。
使用人の現地人ムハンマド。
下宿人は、村田とおなじく考古学の研究にきているドイツ人のオットー。
ギリシア人のディミトリアス。
それから、忘れてはならないのが、ムハンマドがひろってきたオウム。

本書は短編連作で、ひとつひとつの話は短い。
それが少しものたりない。
でも、そのものたりなさのおかげか、次から次へと読み進んでしまう。
(似たような感触をもつ作品として、池澤夏樹の「カイマナヒラの家」(集英社文庫 2004)を思い出した)

短篇ひとつひとつの内容もたわいない。
出土した遺跡や遺物の話。
幽霊や神様にまつわる不思議な話。
彼我の文化のちがいや、宗教のちがい、生活のちがいについての話。
また、異国の地での友情や、同胞と会えたときのうれしさについての話など。
これらが、渾然となって、村田の生活に溶けこんでいるところに、著者の語り口のうまさと、本書の妙味がある。

細かいことだけれど、会話がカギカッコではなくダッシュ(――)で処理されているのにも注目したい。
これは、カギカッコをつかった会話よりも、静かな印象をあたえる。
より、回想的になるといったらいいだろうか。

たわいない話が続いたかと思うと、ラストにいたって風雲急を告げる。
当時の国際情勢が、ひと息に押し寄せてきて、たわいない日々を輝けるものに変える。
変えるというか、気づかせる。

ところで、この作品は、オウムが大活躍する話でもある。
先にとり上げた「純な心」も、オウムが大活躍する話だ。
まさか、おなじくオウムがでてくる小説だとして知人は紹介してくれたわけではないだろうけれど、この暗合もとても面白かった。


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夜のスイッチ

「夜のスイッチ」(レイ・ブラッドベリ 晶文社 2008)

絵は、マデリン・ゲキエア。
訳は、北山克彦。

この本は絵本。
むかし、夜の嫌いな男の子がいた。
男の子は明かりがないといられない。
夏の夜、ほかの子たちはそとで遊んでいるのに、その子は遊びにでられない。
そんな男の子のもとに、ある日ダークという名前の女の子があらわれる。
ダークは男の子に、夜のスイッチの存在を教える。
「夜のスイッチをいれると、星にスイッチが入るわ!」


じつをいうとレイ・ブラツドベリは苦手な作家で、一冊読めたためしがない。
ブラッドベリの詩情をうけつけるチャンネルが、こちらにないのだろう。
でも、この絵本は楽しめた。
楽しめたのは、マデリン・ゲキエアの絵と、この本のつくりかたが大きい。
少ない線で、しっかり形をとらえた絵はスマートだし、その構成は大胆。
配色もセンスがいい。
散文詩のようなブラッドベリの文章を、じつによく絵本というかたちに昇華している。

子どもよりも、絵本好きの大人が喜びそうな絵本だ。


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汚れた7人

「汚れた7人」(リチャード・スターク 角川書店 1971)

訳は小菅正夫。
角川文庫の一冊。

このひとが書いたものならみんな読みたいという作家が何人かいて、そのひとりがドナルド・E・ウェストレイクだ。
代表作は、天才的かつとことん運のない犯罪者ドートマンダーを主人公とした、ドートマンダー・シリーズだろうか。
その練られたプロットと、妙な味わいのキャラクター、ユーモラスな筆致にはいつも感服させられる。

ウェストレイクは、いろんな名前でいろんな作品を書いていて、その別名のひとつが、リチャード・スターク。
この名義では、悪党パーカー・シリーズが有名。
おなじ犯罪者でも、ドートマンダーとはちがい、どこまでもハードにえがかれているのが特徴だ。

どちらかというと、ハードなものよりユーモラスな作品のほうが好きなので、長いあいだ悪党パーカー・シリーズは読んだことがなかった。
ところが、先日、角川文庫から「悪党パーカー」シリーズの第7作「汚れた七人」が復刊され、なら読んでみようかと手にとってみた。

読後、
――いままで読まなくてすいませんでした
と、つくづく反省。

本書は3人称、だいたいパーカー視点。
4部構成になっている。

ストーリーは、冒頭、ひと仕事終えてアパートに潜伏していたパーカーが、わずか10分部屋をはなれたところ、女は殺され、金は奪われていたという緊迫した場面から。
しかも、パーカーは何者かにより狙撃までされる。
仲間に裏切り者がいるのか?
犯人は金があることを知っていたのか?

ひと仕事というのは、フットボール・スタジアムの売上金強奪。
警察は、強奪事件と女性殺害事件の捜査を開始。
パーカーと仲間たちは、何者かに命を狙われ、警察には追われながら、金を奪取するべく奔走する。

だいたいパーカー視点と書いたのは、第3部で視点が変わるため。
ここで犯人視点になる。
事件の全貌を俯瞰するのにうまいやりかただけれど、じつをいうと少しだけ落胆した。
というのも、犯人視点にしたために、広げた風呂敷の大きさがここではっきりとわかってしまうのだ。
もっと大きな風呂敷にちがいないと思いながら読んでいたので、このときはいささか面食らった。
でも、これは、ここまで夢中になって読んでいたという証左にもなるかも。

そして、広げられた風呂敷はとんでもない方向にたたまれていく。
無駄なものがまるでない、体脂肪率ゼロのクライムノベルだ。

というわけで、遅ればせながら、これから悪党パーカー・シリーズを読もうと心にきめた次第。


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