ブルックリン・フォリーズ

「ブルックリン・フォリーズ」(ポール・オースター 新潮社 2012)

訳は、柴田元幸。

主人公は、ネイサン・グラス。
60まぎわで元生命保険会社勤務。
わずらった肺ガンは、手術後平静状態。
成人し、すでに結婚した娘がひとり。
結婚生活は破綻し、ブロンクスヴィルの家を売り払い、静かに死ねる場所をもとめ、3つのときまで暮らしていたブルックリンに引っ越してきた。
娘に怠惰な生活を叱責され、自分や自分以外のヘマやドジや愚挙を書きつづることを思いつく。
本のタイトルは、「人間の愚行の書」(ザ・ブック・オブ・ヒューマン・フォリーズ)。

というわけで。
まず冒頭、こんな風に語り手の素性と状況が明かされる。
このあと、「人間の愚行の書」にあつめられた、さまざまなエピソードが語られるのかと思いきや、そうはならない。
ストーリーは、ネイサンの一族とその知人たちの、愛すべき愚行へと絞られる。

ブルックリンの古本屋で、ネイサンは死んだ妹の息子である、甥のトムと再会。
トムは大学を最優等で卒業し、大学院でアメリカ文学を学ぶことになっていた。
成功していると思ったのに、7年ぶりに会った甥は、古本屋のカウンターで客に釣り銭を渡している。
もちろん、トムの人生は袋小路に入っている。

トムには、オーロラという妹がいた。
母の再婚に反抗して家出。
未婚のままルーシーという娘を産んで行方知れずに。

トムの雇用者である古本屋の店主、ハリー・ブライトマンは、まともな同性愛者かと思ったら、統合失調症の娘があらわれて前科者だと判明。
当のネイサンも、お気に入りの店のウェイトレス相手にとんだヘマをする。

愚行のほかに、本書のテーマがあるとしたら、すぐ見つかるのはホテル・イグジステンス(存在)だろう。
つまり、居場所について。
登場人物のことばを借りるなら、「魂がやっとそれなりの平安を見いだせる」場所。

冒頭、ネイサンはブルックリンにやってくるし、登場人物たちはたびたび居場所についての問答を交わす。
それに、ホテル・イグジステンスをめぐるプロットは、この小説のなかで大きな位置を占めている。

でも、この小説を読んで楽しいものにしているのは、なによりまず語り口だ。
ネイサンの、いささか俗っぽい、ことば数の多い語り口は、読むとくせになって、ずんずん続きを読みたくなる。
要約される登場人物たちの人生も興味深い。
群像劇ということもあって、ちょっとヴォネガットを思い出す語り口だ。

そして、本書の中盤、トムの妹オーロラの娘、9歳半の娘ルーシーがトムとネイサンの前にあらわれると、がぜん話がうごきだす。

それから。
登場人物たちのたえまない愚行が愛おしくえがかれているのは、本書の底に諦念が流れているためだろう。
愚行の流れは絶えずして、とどまりたるためしなしという感じ。
最後にあらわれる大きな愚行にははっとさせられる。

そのうちまた読み返したくなるかもしれない。
楽しい小説だった。


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松居直のすすめる50の絵本

「松居直のすすめる50の絵本」(松居直 教文館 2008)

副題は「大人のための絵本入門」。
紹介されている50の絵本は以下。

絵本の世界へようこそ
「はなをくんくん」(ルース・クラウス/文 マーク・サイモント/絵 きじまはじめ/訳 福音館書店 1967)
「もこもこもこ」(谷川俊太郎/作 元永定正/絵 文研出版 1977)
「おじさんのかさ」(佐野洋子/作 講談社 1992)
「みんなうんち」(五味太郎/作 福音館書店 1992)
「おおかみと七ひきのこやぎ」(グリム/原作 フェリクス・ホフマン/絵 せたていじ/訳 福音館書店)
「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ/作 まさきるりこ/訳 福音館書店 1980)
「ちいさいおうち」(バージニア・リー・バートン/作 石井桃子/訳 岩波書店 1979)
「ピーターラビットのおはなし」(ビアトリクス・ポター/作 いしいももこ/訳 福音館書店 1988)
「かにむかし」(木下順二/作 清水崑/絵 岩波書店 1980)

ことばの力をはぐくむ絵本
「ととけっこう よがあけた」(こばやしえみこ/案 ましませつこ/絵 こぐま社 2005)
「ちいさなうさこちゃん」(デイック・ブルーナ/作 石井桃子/訳 福音館書店 1992)
「はけたよ はけたよ」(かんざわとしこ/文 にしまきかやこ/絵 偕成社 1979)
「わたしのワンピース」(にしまきかやこ/作 こぐま社 1969)
「わにわにのおふろ」(小風さち/文 山口マオ/絵 福音館書店 2004)
「おおきなかぶ」(A.トルストイ/再話 内田莉莎子/訳 佐藤忠良/絵 福音館書店 1995)
「まりーちゃんとひつじ」(フランソワーズ/作 与田準一/訳 岩波書店 1980)
「きかんしゃやえもん」(阿川弘之/文 岡部冬彦/絵 岩波書店 1959)

親子のぬくもりを感じる絵本
「くまのコールテンくん」(ドン=フリーマン/作 まつおかきょうこ/訳 偕成社 1990)
「ラチとらいおん」(マレーク・ベロニカ/作 とくながやすもと/訳 福音館書店 1965)
「しんせつなともだち」(方軼羣/作 君島久子/訳 村山知義/絵 福音館書店 1987)
「ちいさなねこ」(石井桃子/作 横内襄/絵 福音館書店 1979)
「とべ! ちいさいプロペラき」(小風さち/文 山本忠敬/絵 福音館書店 2000)
「どんなにきみがすきだかあててごらん」(サム・マクブラットニィ/文 アニタ・ジェラーム/絵 小川仁央/訳 評論社 1995)
「こいぬのうんち」(クォンジョンセン/文 チョンスンガク/絵 ピョンキジャ/訳 平凡社 2000) 
「かいじゅうたちのいるところ」(モーリス・センダック/作 じんぐうてるお/訳 富山房 1975)

子どもの生きる力を刺激する絵本
「おおきなおおきなおいも」(赤羽末吉/作 福音館書店 1980)
「ガオ」(田島征三/作 福音館書店 2005)
「ひとまねこざるときいろいぼうし」(H.A.レイ/文,絵 光吉夏弥/訳 岩波書店 1980)
「木はいいなあ」(ジャニス・メイ・ユードリイ/文 マーク・シーモント/絵 さいおんじさちこ/訳 偕成社 1977)
「よあけ」(ユリー・シュルヴィッツ/絵 瀬田貞二/訳 1977)
「てぶくろ」(エウゲーニー・M・ラチョフ/絵 うちだりさこ/訳 福音館書店 1965)
「ふきまんぶく」(田島征三/作 偕成社 1973)
「パパといっしょに」(イサンクォン/文 ハンビョンホ/絵 おおたけきよみ/訳 アートン 2004)

絵を読む絵本
「ブレーメンのおんがくたい」(グリム/原作 ハンス・フィッシャー/絵 せたていじ/訳 福音館書店 1980)
「あおくんときいろちゃん」(レオ・レオーニ/作 藤田圭雄/訳 至光社 1979)
「はらぺこあおむし」(エリック・カール/作 もりひさし/訳 偕成社 1976)
「おやすみなさいおつきさま」(マーガレット・ワイズ・ブラウン/作 クレメント・ハード/絵 せたていじ/訳 評論社 1979)
「ゆきのひ」(エズラ=ジャック=キーツ/作 きじまはじめ/訳 偕成社 1990)
「はじめてのおつかい」(筒井頼子/作 林明子/絵 福音館書店 1977)
「スイミー」(レオ・レオニ/作 谷川俊太郎/訳 好学社 1979)
「ハルばぁちゃんの手」(山中恒/文 木下晋/絵 福音館書店 2005)

読書力をつける絵本
「あおい目のこねこ」(エゴン・マチーセン/作 せたていじ/訳 福音館書店 1980)
「ももたろう」(まついただし/文 あかばすえきち/絵 福音館書店 1980)
「3びきのくま」(トルストイ/文 バスネツォフ/絵 おがさわらとよき/訳 福音館書店 1980)
「ロバのシルベスターとまほうの小石」(ウィリアム・スタイグ/作 せたていじ/訳 2006)
「フレデリック」(レオ・レオニ/作 谷川俊太郎/訳 好学社 1980)
「こびととくつや」(グリム/原作 カトリーン・ブラント/絵 藤本朝巳/訳 平凡社 2002)
「おしいれのぼうけん」(ふるたたるひ/作 たばたせいいち/絵 童心社 1980)
「白鳥」(マーシャ・ブラウン/絵 松岡享子/訳 福音館書店 1967)
「にほんご」(安野光雅・大岡信・谷川俊太郎・松居直/共著 福音館書店 1980)

それから、巻末に、「絵本と子どものこころ」という、講演会をまとめた文章がついている。

著者の松居直さんについては、説明は不要だろう。
福音館書店の創業にたずさわった、えらいひとだ。

本書は、松居直さんが50冊の絵本を紹介した、絵本入門書。
見開きに1冊が紹介されているので読みやすいし、選ばれているのはスタンダードなものばかり。
韓国の絵本が何冊か紹介されているのが今風だろうか。
紹介文のはしばしで、社会情勢について憂いているのも、えらいひとが書いた紹介文らしい。

長年絵本づくりの現場にいたひとだけあって、ときおり触れられる裏話が興味深い。
たとえば「ちいさなうさこちゃん」の話。
作者のディック・ブルーナが、大変な手間をかけてうさこちゃんを描いているのは、よく知られている。
でも、訳者の石井桃子さんも、とても気を配って訳文をつくったのだそう。

「この絵本を生かしきる日本語訳は、石井桃子先生以外は考えられず、お願いしましたら、先生はオランダ婦人の朗読で、オランダ語の音声やひびきやリズムを耳で確かめ、その美しさ楽しさを生かした日本語訳をされました」

また、技法からみた絵本の解釈も新鮮。
「スイミー」は、文章だけ読めば、小さな者が協力して大きな者を打ち負かすという教訓話に読める。
ところが、作者がどの場面にもっとも多くのページを費やしているのかみてみると、スイミーがひとりぼっちで海を泳いでいる場面が、全体の半分以上の8場面を占めている。
そこで、松居直さんはいう。

「作者はここを語りたかったのです」

さらに、作者のレオ=レオニのことばを引用する。

「眼になったからといって、スイミーは指導者になったのではない。他人にかわってものをみることこそ、芸術家の使命なのです」

というわけで。
本書の読みかたとしては、紹介されている絵本を一度全部読んでから読んだほうが面白いと思う。
そのほうが、いろんな発見があって楽しいだろう。
50冊なんて、絵本ならあっというまに読める。
その時間は、非常に充実してものになるはずだ。


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「鳴るは風鈴」「耳学問・尋三の春」

「鳴るは風鈴」(木山捷平 講談社 2001)

副題は「木山捷平ユーモア短編集」。
収録作は以下。

「玉川上水」
「耳かき抄」
「逢びき」
「鳴るは風鈴」
「コレラ船」
「下駄の腰掛」
「山つつじ」
「川風」
「柚子」
「最低」
「御水取」

解説は坪内祐三。

ジャンルとしては、私小説になるのだろうか。
エセーというには、こしらえものの感じが強い。
「御水取」など、3人称で書かれたものもあるけれど、私小説的な印象は変わらない。

ユーモア小説にもいろいろある。
構成の妙で読ませるものもあれば、個性的な登場人物で読ませるもの。
本書の場合、文章の、ことばの選びかたでくすぐるというタイプ。
こういう小説によくあるように、〈私〉はいつも困惑し、屈託している。
そんな〈私〉がつかう、もってまわったいいまわしがすこぶる面白い。

例として、「逢びき」の冒頭を引用してみよう。

「ちかごろ、若い男女の間には、デートという行為がはやっているそうである。どうやら逢引の一種のことらしい。参考のために、私は今日、近くの都立公園の入口に佇(た)って、そのデートなるものを観察してみた」

「デートという行為」といういいまわしが可笑しいし、「観察してみる」というのが妙だ。
「参考のために」なんて意味不明。
ところどころ、読み手がつまぐくように配置されたことばがじつにうまい。
こう引用していても、つい笑ってしまう。

構成がとてもゆるいのも、また読みやすい。
だいたい、回想でエピソードをつないでいく。
「逢びき」の場合だと、疎開先の田舎での出来事を思い出す。
あと、本書におさめられた作品の特徴としては、色っぽい話が多いというところだろうか。

著者は敗戦後、苦労して満州から引き揚げてきたのち、田舎で疎開生活を送った。
その体験は〈私〉にも反映している。
それを軽みをおびた文章で記していく。

〈私〉は東京にでたくて仕方がない。
が、夫の体調を心配する妻にとめられて、家にいるよりほかなくなる。
ある日、〈私〉は町の本屋にいくことを決意。
そのときの、〈私〉と奥さんのやりとりはこんな風だ。

《「おい、今日、おれは、町に行ってくる」
 と、ある朝、私は内心おどおどしながら細君に自己表示してみた。
 「へえ。なにしにですか」と細君がいった。
 「どうも、田舎にいると、進歩に遅れるような気がする。一つ東京の新刊雑誌でも、二三冊購読してみようと思うんだ」
「それは、そうね。行ってらっしゃいよ。気晴らしにもなりますわ」
「そうだよ。気晴らしになるから、銭をくれ」
「いくらですか」
「そうだなあ。百円もあればいいだろう」
 細君は気前よく、どこにしまってあるのか知らないが、百円札を出してくれたので、私は勇躍、兵隊シャツに身をかため、三里の道をてくてく徒歩で町へでかけた。》

不安になってきた。
この引用で、木山捷平作品のおかしみがつたわるかどうか。
でも、木山捷平作品の面白さはことばづかいにあるのだから、それを知ってもらうには引用するよりほかない。
あとは、本書にあたってもらうよう祈るのみだ。

ところで、いいかげんなことに、上記の引用は、どの作品のものだったか忘れてしまった。
本はもう図書館に返してしまったので、確かめられない。
だいたい、私小説は同じ趣向の話ばかりだから、作品ごとのけじめがつかない。
どの作品からの引用でも大差がないのではないかと、ここでは開き直っておこう。

いままで読んだ小説に、似たような味わいのものがあっただろうか。
そう考えて、ロシアの作家が書いた「かばん」という小説を思い出した。
木山作品の味わいに似ている気がするけれど、どんなものだろう。

さて、本書があんまり面白かったので、手元にありながらずっと読んでいなかった「耳学問・尋三の春」(旺文社 1979)を読んでみた。
これも短編集で、収録作は以下。

「うけとり」
「子におくる手紙」
「一昔(ひとむかし)」
「出石城崎(いずしきのさき)」
「尋三(じんさん)の春」
「抑制の日」
「山ぐみ」
「氏神さま」
「幸福」
「春雨」
「玉川上水」
「耳学問」
「竹の花筒」

解説は、小坂部元秀というひと。
それから、巻末に作者の妻、木山みさをさんによる年譜がついている。

「鳴るは風鈴」とくらべると、いじましい話が多い。
ユーモラスな、軽みのある小説は、年をとらないと書けなかったということだろうか。
2冊読んだだけではなんともいえないけれど。

本書のなかでは、表題作である「尋三の春」「耳学問」が印象に残った。
「尋三の春」は再読。
以前、「現代日本のユーモア文学3」におさめられているのを読んだことがある。
今回再読して、やっぱり名作だと再確認。

「耳学問」は、ソ連占領下における満州は新京(長春)での生活を記した回想記。
〈私〉はやっぱり途方に暮れていて、手元不如意で、滑稽で、いじましい。
けれど、状況が状況だけに、いじましさが普遍的なものを帯びている。

タイトルは、〈私〉が懸命におぼえたロシア語から。
そのロシア語は、「ヤー、ニエ、オーチエン、ズダローフ」。
「私は病気です」というほどの意味。
当時、42歳の〈私〉は、ソ連の捕虜収集を逃れようと、この一文をおぼえた。

「私は元来、坐骨神経痛の痼疾(こしつ)があって、重労働には堪えられない身なので、もしも捕虜の召集がきた時には、国際信義にもとづいて、一身上の具合を、清く正しく、弁明しようと思って、こういうロシヤ語を覚えこんだのである」

この「耳学問」は、毎日新聞の平野謙による文芸時評にとりあげられ、作者の出世作となったそう。
これは、「鳴るは風鈴」と「耳学問・尋三の春」両方の解説に書いてある。
その評の一部が解説に載っているから、孫引きしてみよう。

「…昨今のかまびすしい日ソ交渉のニュースの中にこのささやかな作品をすえてみると、その周囲だけ空気が静かに澄んできて、ああ、これが小説作品なんだな、と改めて読者も納得せざるを得ないだろう」

作者は、平野謙の評がよほどうれしかったらしい。
日記に全文写したあと、こう記しているという。

「平野氏の評をよみながら今日ほど心たのしいことはなかった」



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