虎の潜む嶺

「虎の潜む嶺」(ジャック・ヒギンズ/著 伏見威蕃/訳 早川書房 1998)
原題は“Year of the Tiger”
原書の刊行は1996年。

が、もともと本書は1963年に刊行されたものだという。
ヒギンズは、マーティン・ファロン名義で、英国情報部員シャヴァスが主人公のシリーズを6作書いており、本書はそのうちの1冊だった。
その旧作に加筆をほどこし、タイトルは元のままで、1996年に上梓したのがこの本――と、以上は訳者あとがきから。

というわけで、本書はシャヴァスものの1冊。
加筆されたのは、おもにプロローグとエピローグのよう。
旧作を、1995年現在のプロローグとエピローグで挟み、本編をフラッシュバックにすることで、面目を新たにしている。
人称は、3人称シャヴァス視点。

で、まず1995年のロンドン。
シャヴァスは65歳。
一週間前にナイト爵に叙されたばかり。
そして、あす、勤め先である英国秘密情報部の一部門、ビューロー(局)を引退する予定。
シャヴァスはこの職場で、20年現場工作員をつとめ、20年上官イアン・モンクリーフ卿の後任をつとめたのだ。
が、シャヴァスの経歴を惜しむメイジャー首相が、じきじきに残留をもとめてきて、シャヴァスは困惑する。

ところで、この3日というもの、何者かがシャヴァスの住まいをうかがっていた。
メイジャー首相に会った帰り、暴漢に襲われていたその“何者”を、シャヴァスは助ける。
“何者”はチベット人の僧侶。
名前は、ラマ・モロ。
この3日、シャヴァスの家のまわりを俳諧していたのは、シャヴァスに会う機会をうかがっていたため。
ドアをノックするだけでは追い返されるだろうと思っていた。
シャヴァスは、モロに夕食をとらせ、話を聞く。

モロは、スコットランドのグレアン・アリストンにあるチベット仏教寺院で、図書館員としてはたらいている。
シャヴァスが、1959年3月の、ダライ・ラマ猊下のチベット脱出にかかわっていたのはすっかり承知していると、モロ。
しかし、3年後の1962年、チベットのチャングという町に出向き、当地の医療伝道団で長年にわたりはたらいていた、偉大な数学者カール・ホフナーの出国にまつわる事情は知り得ていない。
モロは、直接シャヴァスにその話を聞きにきたのだった。

というわけで、シャヴァスが当時のことを語るとなってフラッシュバック。
舞台は1959年のチベット。
もともとは、この章がプロローグだったのだろう。

さて、ダライ・ラマの一行は、現在インド国境に向かっている。
国境を越えたところにはインド空軍のパイロットが待機していて、ダライ・ラマをデリーまではこぶ予定。
が、中共軍がダライ・ラマ一向に追いつかんとしている。
中共軍はまだチョロ峡谷を超えてはいない。
チョロ峡谷には木の橋がかかっていて、谷を越えるにはそこを通るしかない。

インドは中共軍と戦争状態にあるわけではないから、飛行機でいって橋を爆破してくるというわけにはいかない。
だいたい、航空機で偵察すること自体が完全な違法行為だ。
そこで、ダライ・ラマ一行の先駆けとして、ひと足早く国境検問所にきていたシャヴァスが、橋を爆破しにいくことに。
違法行為ついでに、飛行機で現地にはこんでもらい落下傘降下。
さらに飛行機は、ダライ・ラマ一行に通信筒を落下し、現状を連絡。
随行しているパターン族のハミド少佐がシャヴァスの応援に向かう。

降下したシャヴァスは、中共軍と戦闘しつつ、プラスティック爆弾により橋を爆破。
ハミドも駆けつけ、中共軍を壊滅させたあと、ハミドが用意してくれた馬に乗り、現場を去る。

舞台は変わり、デリーの英国大使館。
一行はぶじインドに到着したのだ。
デリーの重要人物は皆、ダライ・ラマに拝謁するためにあつまっている。
なかにひとり中国人の姿が。
貧民向けの診療所をいとなんでいる、台湾の国民党員、ドクター・張(チャン)。

が、実際はちがう。
あの男の写真を、先月ロンドンのSIS(秘密情報部)の、中国課のファイルでみたと、シャヴァスの上司であるモンクリーフ卿がいう。

休憩のため庭にでたダライ・ラマのあとを追うと、ちょうど張がダライ・ラマに拳銃を突きつけているところ。
ハミドが張に飛びかかり、なんとかことなきを得る。

このプロローグは、大変テンポよく進む。
初期のヒギンズにこの芸当ができたかどうか。
このあたりにも、手を加えたのかどうかが気になるところだ。

次は、1962年のロンドン。
ここ2ヶ月ほど事務仕事ばかりしていたシャヴァスのもとに、待望の任務が舞いこむ。

10日前、若いチベット貴族がカシミールの首都スリナガルに到着した。
現地の工作員ファーガスンが、身柄を保護。
そのチベット貴族は、クレイグ教授にあてたカール・ホフナーの手紙をもっていた。

医師であり数学者であるホフナー博士は、人生をチベットに捧げ、現在カシミールから国境を越えて150マイルほどのところにあるチャングという小さな町で軟禁状態にある。
博士は、空間からエネルギーをとりだすアイデアをもっており、それを元学友のクレイグ教授に手紙でつたえてきたのだった。
このアイデアをもってすれば、現在ソ連が実験しているイオン駆動エンジンに対抗できる。
なんとかして、ホフナーを奪還しなければいけない。
そこで計画。

チベットに入って50マイルほどのところに、日土(ルト)という町がある。
そのあたりは、中国の支配はゆるいらしい。
日土の郊外にある寺は、抵抗運動の中心になっている。
カシミールから飛行機でラダーク山脈を越え、日土にいき、そこからチャングに向かう。
若いチベット貴族も、それに同行する。

ホフナー博士に会ったとき、シャヴァスのことをどう納得してもらうかという問題もある。
クレイグ教授は、過去に博士とのあいだにあったできごとをシャヴァスに話す。
クレイグ教授と博士は、同じ女性を好きになったことがあった。
2人はコインで順番を決め、彼女に話をしにいった。
このいきさつは、2人しか知らないことだ。

シャヴァスは現地へ。
スリナガルで、現地工作員のファーガスンと接触。
ファーガスンの手配で、元RAF(英国空軍)少佐のポーランド人、ケレンスキイとも会い、出発の日時を決定。

いま難民の野営地にいる、チベットから脱出してきた若い貴族のジョロにも会いにいく。
ジョロは、歳は30ほど。
ホフナー博士の配慮で、デリーのミッションスクールにいき3年間勉強した。
博士をたいそう敬っている。

ジョロがカシミールにやってきたのは、中共軍とたたかう武器を買いつけるため。
武器のほうはファーガスンが用意して、シャヴァスと一緒に、飛行機でチベットに運びこむ予定。

シャヴァスはジョロから現地の様子を聞く。
日土近くのヤルン寺(ゴンバ)には大勢仲間がいる。
僧侶たちができるだけ援助をしてくれるはず。
ホフナー博士は、チャングの家で暮らしている。
体調は良くない。
町からでることを禁じられているが、体力のない老人だからどこにもいけない。
そのため、見張りはそういない。
そこがつけ目になる。

地域全体の指揮官は、李(リー)大佐。
博士の家には、ひとり女性がいる。
カーチャ・ストラノワという名前で、母親は中国人、父親はロシア人。
両親ともに亡くなり、ホフナー博士が引きとった。
ひょっとすると、この女が厄介かもしれないと、ジョロ。

しかし、前途に不安のない任務などない。
その夜、シャヴァスはジョロとともに、ケレンスキイの操縦するビーヴァー機でチベット領内へ――。

この作品は、「鋼の虎」によく似ている。
舞台はともにチベットだし、インドから中国側に潜入し、要人を連れて脱出するというストーリーも同じ。
「鋼の虎」には、パターン人のハーミト少佐なる人物が登場するし、英国のエージェントであるファーガスンもあらわれる。
もっとも、本書のファーガスンは足を悪くしているけれど、「鋼の虎」のファーガスンにはそんな記述はみられない。

「虎の嶺」の最初の刊行は1963年で、「鋼の虎」の刊行は1966年。
「虎の嶺」の舞台をつかいまわして、「鋼の虎」を書いたのは、まず間違いないだろう。
加えて冒頭に記したように、「虎の嶺」は1996年にリメイクされている。
3度もつかいまわしているというのは、商売上手なのか、舞台に愛着があるのか、あるいはその両方だろうか。

リメイクされる前の「虎の嶺」がどんな作品なのかわからないけれど、本書を読み進んでいくうちに、プロローグとエピローグだけではなく、作品全体に手が入れられているような気がしてきた。
さりげなく書かれた描写がそう感じさせる。
たとえば、さきほどふれた、ファーガスンの足についての記述。

《「ちかごろ、脚のぐあいは?」
 ファーガスンは、肩をすくめた。「まあこんなものだろう。いまもときたま、まだあるような気がするが、何年もそういう錯覚が残ることがあるそうだ」》

これだけで、ファーガスンの足の状態が示唆される。
まったく上手いものだ。

このあとシャヴァスはチベットに潜入。
しかし、もちろん計画通りにはいかない。
シャヴァスは、ピンボールのボールのように小突き回される。
それでも、運良く目的地にたどり着き、ホフナー博士と接触する。
シャヴァスはクレイグ教授から聞いた話をして、ホフナー博士に、自分の正体に気づいてもらう。
この場面もまた、さりげなくて素晴らしい。

ヒギンズの初期作品のなかでは、シャヴァス物は読むのが楽だ。
それは、シャヴァスがエージェントであるためではないだろうか。
ヒギンズの初期作品によくあらわれる、辺境で苦闘するような人物は、どうしても主張が強く、そのため作品がうるさくなってしまう。
でも、エージェントは任務を遂行すればいい。
アイデンティティを主張する必要がない。
これが、シャヴァス物の読みやすさの理由ではないかと思う。


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ルーフォック・オルメスの冒険

「ルーフォック・オルメスの冒険」(カミ/著 高野優/訳 東京創元社 2016)

本書の出版は、ことし一番の快挙だと、まずいいきってしまおう。

カミは、フランスのユーモア作家。
代表作は、「エッフェル塔の潜水夫」だろうか。
カミの作品として、本書もよく知られたものだったけれど、長く入手困難で、読むことがむつかしかった。

このところ、カミの「機械探偵クリク・ロボット」(早川書房)と「三銃士の息子」(早川書房 2014)が訳出されてきたけれど、まさか「ルーフォック・オルメスの冒険」が読めるようになるとは。
訳者および、訳者に翻訳を勧めてくださったという、東京創元社の井垣真理さんに深い感謝をささげたい。

それにしても、訳者あとがきによれば本書の全訳はじつに74年ぶりとのこと。
ハレー彗星じゃないんだから。

「ルーフォック・オルメスの冒険」はコント集。
コントなので、ストーリーは簡単なト書きと、登場人物によるセリフで進んでいく。
オルメスとは、ホームズのフランス風の読みかた。
ルーフォックは、「ちょっといかれた」を意味する。
と、これはカバー裏表紙に載せられた内容紹介から。
内容紹介には、

《フランス式ホームズ・パロディ短篇集。必読の一冊。》

とも書かれているけれど、必読の一冊はいいすぎだろう。
しかし、バカバカしい小説が好きな向きにはそういいたい。

さて、本書には短い、ナンセンスなミステリ・コントが34篇おさめられている。
ざっと、その収録作をみてみよう。

第1部
ルーフォック・オルメス、向かうところ敵なし

「校正者殺人事件」
「催眠術比べ」
「白い壁に残された赤い大きな手」
「骸骨盗難事件」
「ヴェニスの潜水殺人犯」
「警官殺人事件」
「奇妙な自殺」
「禿げの女曲馬師」
「本物の嗅覚」
「証拠を残さぬ殺人」
「空飛ぶボートの謎」
「愛による殺人」
「列車強盗事件」
「聖ニャンコラン通りの悲劇」
「ふたつの顔を持つ男」
「後宮(ハーレム)の妻たち」
「生まれ変わり」
「シカゴの怪事件―鳴らない鐘とおしゃべりな卵」
「ミュージック・ホール殺人事件」

第2部
ルーフォック・オルメス、怪人スペクトラと闘う

「血まみれのトランク事件」
「《とんがり塔》の謎」
「〈クラリネットの穴〉盗難事件」
「ギロチンの怪」
「大西洋の盗賊団」
「チェッカーによる殺人」
「人殺しをする赤ん坊の謎」
「スフィンクスの秘密」
「真夜中のカタツムリ」
「道化師の死」
「競馬場の怪」
「血まみれの細菌たち」
「地下墓地(カタコンブ)の謎」
「死刑台のタンゴ」
「巨大なインク壺の謎」

――以上。

訳者あとがきで、訳者の高野優さんは、カミの作品を訳していると落語の滑稽話を思いだすと書いている。
ナンセンス味があり、語呂合わせでオチをつけるところなど、たしかにカミの作品は落語っぽい。
八っつぁんクマさんのような、バカバカしいやりとりも満載。
でも、いくらなんでもくだらなすぎるだろうという場面も多々ある。
たとえば、「ヴェニスの潜水殺人犯」
(以下、少しネタバレがあります)

ゴンドラに穴を開けてひとを殺す潜水殺人犯は、ヴェニスを恐怖のどん底に落としている。
ヴェニスの潜水警察官も、殺人犯にはお手上げ。
そこで、ヴェニス警察から依頼を受けたオルメスは、忠実な助手とともにタンデムの自転車で運河の底を走り、殺人犯を追いかける。
なんだって運河の底を自転車で走らなければいけないのか。

で、やはり自転車に乗り運河の底を全速力で逃げる殺人犯を追っていると、途中、アンチョビの群れが。
アンチョビたちがタイヤのスポークのあいだを通ろうとするので、スポークは全部折れてしまう。
嗚呼、これでは殺人犯を追うことができない。

そのとき突然、大タコがあらわれる。
オルメスはいきなり大タコの腹を蹴りつけ、タコを昇天させる。
そして、死後硬直により固くなったタコをスポーク代わりに車輪にはめこんで、再び追跡を開始する―――。

じつにまあ、素敵なくだらなさだ。
ルーフォック・オルメス作品は、どれもだいたいこんな感じ。

語呂合わせというか、ことばが現実化することによっておかしみをかもしだすのも、カミの得意技だ。
「空飛ぶボートの謎」では、警官に追いつめられた《虫も殺さぬ顔の盗賊団》の一味が、空飛ぶボートに乗って逃げていく。
一体、どうやってボートは空を飛んでいるのか。

じつは、この近くには無線電報局があった。
一味は、ちょうどここを通る電波にボートを乗せて逃亡したのだ。

「ボートに乗れば、波の上を行くのは簡単ですからね」

と、オルメスはきっぱりといいきる。
不思議なことなどまったくないというようだ。

ところで、この作品は、「新・ちくま文学の森」シリーズの1冊、「世界は笑う」(筑摩書房 1995)に、「飛行ボートの怪」というタイトルで収録されている。
「飛行ボートの怪」は、「空飛ぶボートの謎」とオチのことばづかいがちょっとちがう。
くらべて読むと面白い。

さらに、「ちくま文学の森」シリーズの1冊、「おかしい話」(筑摩書房 1988)にも、「怪盗と名探偵抄」というタイトルで、オルメス作品が2編収録されている。
「赤んぼうは渇く!」と、「インクは昇る!」がそう。
本書ではそれぞれ、「人殺しをする赤ん坊の謎」、「インク壺の謎」となっている作品だ。

大ダコのスポークや、空飛ぶボートの例でわかる通り、カミの作品は視覚的だ。
これは、カミが漫画も描く、視覚的な発想をするひとだったためだろう。
運河の底を走る自転車だって、見た目が面白いという以外に、そんなことをする理由がみつからない。
本書のカバーは、カミがえがいた、ルーフォック・オルメスがつかわれている。
鳥打帽をかぶり、コートの襟を立て、赤い花と目だけのぞかせたオルメスは、なかなかに格好いい。

ナンセンスであり、ミステリであり、視覚的であることから、カミ作品はときどきグロテスクに傾く。

「猟犬の鼻」において、オルメスは事件解決のため有名な整形外科医に、自分の鼻を切り落として猟犬の鼻をつけてくれと依頼する。
「血まみれのトランク事件」では、バラバラにされた何人もの死体が、756個のトランクにでたらめに入れられる。
人体を部品のように扱うのは、漫画のセンスだろう。
出帆社版の「ルーフォック・オルメスの冒険」(吉村正一郎/訳 出帆社 1976)におさめられた中編も、同様のセンスの作品だったと記憶している。

各作品の巻末には、訳者によるコメントがときどきつけられている。
このコメントがまた秀逸。
本書の「ボケっぱなし」というべき作品に、的確なツッコミを入れている。
おかげで、本書がより愉快な読み物となったのはまちがいない。

本書の作品中、もっとも気に入ったのは、「《とんがり塔》の謎」
オルメスによって捕まった怪人スペクトラが、とんがり塔と呼ばれる独房から脱獄を果たす。
この脱獄の仕方が、大変ナンセンス。
いやあ、まさか脱獄用のシーツを手に入れるのに、こんな方法があったとは……。


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