「コルテスの海」「いまファンタジーにできること」

最近とみに忙しい。
と、前回書いたけれど、最近いよいよ忙しい。
せめて、週に一回は更新したいのだけれど、それもままならなくなってしまった。
この忙しさは年末まで続きそう。
なんということだ。

なんとか、更新できる方法がないか、いま思案中。
要は、メモの密度をもっと落とせばいいのだ。
そして、もっと四方山話を増やすのだ。

本はまあ読んでいる。
最近読んだのは2冊。

「いまファンタジーにできること」(アーシュラ・K・ル=グウィン/著 谷垣暁美/訳 河出書房新社 2011)
「コルテスの海」(ジョン・スタインベック/著 吉村則子/訳 西田美緒子/訳 工作舎 1992)

ル=グウィンは「ゲド戦記」を読んで大変好きになった。
第3部で終わりと思ったら、本国で続編が出版されたと聞き、嬉しさのあまり原書まで買ったほどだ。
英語読めないのに。

「いまファンタジーにできること」は、ファンタジーをめぐるエセー。
講演録が多く、話ことばで書かれているので読みやすい。
なかの一篇、「内なる荒野」は、別の評論集「ファンタジーと言葉」(青木由紀子/訳 岩波書店 2006)とかぶっている。
眠り姫に別のストーリーをあたえたこのエセーは、「ファンタジーと言葉」のなかでも特に印象に残るものだった。

「いまファンタジーにできること」では、ハリーポッターブームに言及しているところが面白い。
主人公が魔法使いを養成する学校にいくという話を聞いたとき、自分の本――つまり、「ゲド戦記」――が読まれているのかと思ったら、ちがかったとル=グウィンさんは書いている。
まあ、半分冗談なのだろうけれど、ル=グウィンさんですら、ハリーポッターブームでは心穏やかではいられなかったのかと思うと、なにやら感じ入ってしまう。

これは、知人から聞いた話だけれど、「ハリー・ポッター」を読んでファンタジーに興味をもったひとが、名高い「ゲド戦記」を読んでみようと思いたち、冒頭をすぎて、ゲドが学院に入って、
「これでやっと学園生活がはじまる」
と、思ったら、そうじゃなかったと嘆いていたそう。
そう、学園生活なんて「ゲド戦記」にはほとんどないのだ。

「ハリー・ポッター」はファンタジーの伝統の上に書かれた作品だったけれど、それを理解していない批評家は大勢いた。
「ハリー・ポッター」にかぎらず、ファンタジーにたいする批評家の無理解に、ル=グウィンさんはしばしば憤慨している。
まあまあ、わからないひとは放っておけばいいじゃないですかと、読んでるこちらが思うくらい。

本書中、いちばん読みでがあったのは、動物ファンタジーをめぐる評論。
バンビ、黒馬物語、ピーター・ラビット、ドリトル先生、ライラの冒険、そのほか動物がでてくるさまざまな児童文学に言及している。
頭が丈夫なひとというか、考えが粘り強くうごいていくところが体感できて、とても面白い。
「ウォーターシップダウンのウサギたち」(リチャード・アダムズ/著 神宮輝夫/訳 評論社 2006)は、ジェンダーの視点からみると、いささか難があるという評価は、いままで接したことのないものだった。

ところで、「Steering the Craft」という、ル=グウィンさんによる小説読本は翻訳されたんだろうか。
ぜひ読みたいと思っているのだけれど。

もう一冊は、「コルテスの海」
本棚の奥で、シミだらけになってしまっていた。
申し訳ないと詫びながら読んだ。

スタインベックに、「キャナリー・ロウ 缶詰横丁」(井上謙治/訳 福武書店 1989)という作品がある。
それはそれは面白い。
この小説に、「先生」と呼ばれる人物がでてくる。
そのモデルとなったのが、スタインベックの友人だった、エド・リケッツという海洋生物学者。
本書は、早逝したエド・ケリックの思い出と、自身も海洋生物学者だったスタインベックが、エドおよびそのほかの仲間たちと一緒に、カリフォルニア湾に船で採集旅行にでかけたことを書いた航海記。

エドにかぎらず、キャナリー・ロウという土地そのものが実在している。
小説が評判になると、観光客が群れをなしてキャナリー・ロウのエドの研究所を目指してやってくるようになってしまった。
これは予想外だったとスタインベックは書いている。

エドは大変魅力的な人物だったよう。
スタインベックはその魅力をつたえようと骨を惜しんでいない。
修正箇所はないかと、「キャナリー・ロウ」の原稿をみせたところ、エドは微笑を浮かべながら丁寧に最後まで読み、こういったという。

「このままでいいじゃないか。優しさがこもってるよ。優しさをこめて書いたものが悪いはずないんだから」

航海記の部分も、幸福に満ちた筆致で書かれていて読んでいて楽しい。
「キャナリー・ロウ」が大好きなのに、「コルテスの海」は買ったままほったらかしにしていたのは、ほんとうにすまなかったと思った。

そうそう、キャナリー・ロウというよりも、エドと研究所を舞台にした短篇に「蛇」というのがある(ここでのエドはフィリプス博士だ)。
この作品はまったくの実話だと、スタインベックは「コルテスの海」に記している。
この作品、どの本だったか、現代の怪談として、都筑道夫さんが大いにもち上げていたはずだ。
「蛇」は、新潮文庫の「スタインベック短編集」(久保康雄/訳 1994)に収録されている。


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チェスの話

最近とみに忙しい。
本は読んでいるのだけれど、更新する時間がとれない。
なので、今回は短めで。

「チェスの話」(シュテファン・ツヴァイク みすず書房 2011)
大人の本棚シリーズの一冊。
短編集。
収録作は以下。

「目に見えないコレクション」
「書痴メンデル」
「不安」
「チェスの話」

「不安」以外は、1人称。
〈私〉が、だれかの話を聞いたり、だれかのことを思い出したり、ある出来事に出会ったりしたことを記したというもの。
1人称で、ほぼ終わったことを長ながと語るという点、いささか古風さを感じさせる。
このあたり、昔の小説を読みなれていないと違和感があるかもしれない。

特に長ながとしているのは、「不安」。
描出話法をつかわず(この技術はまだ一般的ではなかったのか?)、とめどなく話が続いていく。
この描写力には、読んでいて感嘆。

時間がないので、要約ができない(要約がいちばん時間がかかる)。
カバーに書かれた、それぞれの作品についての紹介文を引用しよう。

〈盲人の版画コレクターと博識のユダヤ人愛書家が辿る悲惨な運命を描いた2編。「目に見えないコレクション」「書痴メンデル」

〈弁護士の奥方の不倫を扱った、いかにもウィーン風の風俗劇「不安」

〈1941年、ツヴァイクが亡命の途上で書いた最後の小説「チェスの話」。これはナチスの圧政下でホテルに軟禁されたオーストリアの名士を主人公にした、1冊のチェスの本をめぐって展開する陰影に満ちた物語である〉

「不安」をのぞく3作には、時代の影が落ちている。
「目に見えないコレクション」場合、ハイパーインフレ。
暮らしにこと欠くようになってしまったコレクターの家族は、コレクターが盲目であるのをいいことに、こっそり版画のコレクションを売ってしまう。

「書痴メンデル」の場合は、第一次大戦。
突然国境が重要視されるようになった世界で、ロシア国籍で、オーストリアの公民権を得ていなかったメンデルはたちまち逮捕されてしまう。
それに、社会の雰囲気も変わり、本のことしか頭にないものの、その該博な知識で尊敬と畏怖をもって遇されてきたメンデルの居場所は、まったくなくなってしまう。

「チェスの話」については、紹介文にあるとおり。

あと、作者について特筆すべきは、シチュエーションのつくりかたが実にたくみなことだ。

「目に見えないコレクション」の場合、盲目のコレクターは、語り手の〈私〉に、中身のない額をみせて自慢する。
〈私〉は、真実を知られないようにコレクターにうまく調子をあわせる。

「チェスの話」では、教養のないチェスの世界チャンピオンと、ナチスによりホテルに軟禁されていたさい、チェスの手を想像し続けることによって難局を乗り切った男が、たまたま乗りあわせた船の上で勝負をする。

どちらのシチュエーションも、非常にスリリング。
ツヴァイクははじめて読んだけれど、シチュエーションづくりのたくみさと、それを支える描写力には感嘆した。
(ためしに、チェスの勝負を迫真力のある文章で書こうとしてみれば、ツヴァイクがどれだけすごいかがわかるだろう)

ところで、この選集は、先日亡くなられた俳優の児玉清さんを悼んで編まれたとのこと。
児玉清さんは、「チェスの話」を愛していたという。

こういう話を読むといつも、ひとが亡くなる前に出版できないのかと思うけれど、最近いや待てと思い直した。
生前に本がでればめでたいけれど、ひとが亡くなったからといって再版されるきっかけを得られない本はたくさんあるのだから、没後に出版されてもまあめでたい。
それに、大切なのは、その本がだれかに再版したいと思われるほど面白いかどうかだろう。
その点、ツヴァイクは素晴らしく面白かった。


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