ムーミンについて その1

ある日、古本屋をのぞいたら、ピンクの背をした講談社文庫のムーミン・シリーズが棚にならんでいた。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはフィンランドのひと。
フィンランドには2度いったことがある。
せっかくだから読んでみようと、棚にある本をごっそり買ってきた。

その店に、シリーズ全巻は置いていなかった。
でも、次にいった店で欠けていた巻をみつけた。
都合2軒の店で、シリーズすべてをそろえることができた。

ムーミン・シリーズは以下の8冊。

「たのしいムーミン一家」
「ムーミン谷の彗星」
「ムーミン谷の仲間たち」
「ムーミン谷の夏まつり」
「ムーミン谷の冬」
「ムーミンパパの思い出」
「ムーミンパパ海へいく」
「ムーミン谷の十一月」

このうち、「ムーミン谷の仲間たち」は短編集。
ほかは長編。
あと、文庫にはなっていないようだけれど、別巻として「小さなトロールと大きな洪水」がある。(後日訂正。これは嘘。ちゃんと文庫になっていました)

まず、最初に読んだのは短編集。
これがよかった。
ムーミン谷の登場人物たちが大勢でてくるので、かれらに親しむことができた。
内容がバラエティに富んでいるので、シリーズの幅の広さをうかがうことができた。
もし、これからムーミン・シリーズを読んでみようというひとがいたら、まず短編集からはじめることをすすめたい。
これが、「ムーミン谷の十一月」から読みはじめたりしていたら、きっと読み続けられなかっただろう。

短編集は面白かった。
あんまり面白かったものだから、シリーズをひと息で読んでしまった。
いまはコミック版を読んでいる。
いったいムーミン・シリーズのなにがそんなに面白いのか。
それをこれから説明したい。

まず、いきなりディティールの話になってしまうけれど、いささか古びた訳文を読むのが楽しい。
作品のなかで、ムーミンたちの「手」は、「手」とは書かれない。
しばしば「前足」と書かれる。
ムーミンだけでなく、ミイやスナフキンまで「前足」と書かれたりする。
これはいったいなんだろう。
ムーミンたちが人間ではないということを、片時も忘れないようにさせるためだろうか。

それから、登場人物たちの言動。
ムーミンには、メルヘン的でない言動が時折みかけられるのだ。

「楽しいムーミン一家」に、こんな場面がある。
砂浜でボートをみつけたムーミン一家とその仲間たちは、ボートに乗って沖にでる。
じき、ニョロニョロの島をみつけ、そこに上陸し、キャンプをする。
夜は嵐になるものの、翌朝はいい天気に。
みんなは砂浜にいき、そこで流れ着いたものを拾って遊ぶ。

スニフはムーミンが拾い上げた大きなブイが、うらやましくてならない。
そこで、交換をもちかける。

「ねえ、きみ、とりかえっこしないか。きみの古ぼけたブイと、ぼくのラフィマのマット(しゅろの繊維で編んだマット)と、このひしゃくと、長ぐつとでさ」

すると、ムーミンはこうこたえるのだ。

「おまえが死んでからね」

ずいぶんと乱暴な発言。
ムーミンはときどきこんな破格の発言をするから、目がはなせない。

このあと、ムーミンは拾ったスノードームをスニフにみせる。
といっても、「スノードーム」というこどばは、作中ではつかわれていない。
「雪あらしのおもちゃ」と書かれているけれど、きっとスノードームのことだろう。

スニフは、ムーミンがみつけたスノードームもうらやましい。
そこで、再び提案。

「ねえ、ムーミントロール。その雪あらしのおもちゃは、共同にしないか」

ムーミンのこたえはこう。

「いいとも。日曜日と水曜日には、きみにかしてやるよ」

この場面、ムーミンとスニフの会話はやけにハードボイルドだ。

――ここまで書いて不安になってきた。
ムーミン・シリーズの魅力を、あまりにも細部から語りすぎているだろうか。
もう少し作品からはなれて、視点を大きくとったほうがいいだろうか。

これはいうまでもないことかもしれないけれど、トーベ・ヤンソンのイラストはじつに素晴らしい。
キャラクターの造形もさることながら、白黒のイラストが、物語の世界をみごとに形づくっている。
ムーミン・シリーズには、文章による登場人物の外観描写というものがいっさいない。
外観描写はすべてイラストでやるという方針のようだ。

物語を簡単に、ひとつひとつみていこう。
まず、最初に読んだ短編集、「ムーミン谷の仲間たち」から。
この本に収録されている作品は以下。

「春のしらべ」
「ぞっとする話」
「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」
「世界でいちばんさいごのりゅう」
「しずかなのがすきなヘムレンさん」
「目に見えない子」
「ニョロニョロのひみつ」
「スニフとセドリックのこと」
「もみの木」

このなかでは、まず「目に見えない子」をとりあげたい。
これは、シリーズ中、もっともムーミン初心者向けの話だと思う。
ムーミンに接するには、この話からがいい。
しかも、なかなかいい話なのだ。

ストーリーはこう。
ある日、おしゃまさん(コミックス版ではティトゥッキ)が、ムーミンの家に、目にみえない女の子を連れてくる。
名前はニンニ。
ニンニがなぜみえなくなってしまったかというと、意地悪なおばさんにいじめられてしまったため。

「あなたたちもごぞんじのとおり、人はあまりいく度もおどかされると、ときによって、すがたが見えなくなっちまうわね。そうじゃない?」

と、おしゃまさん。

ニンニはムーミン一家のお世話になることに。
ニンニには首に鈴をつけられていて、歩くとそれがチリンチリンと鳴る。
ムーミン一家と暮らすようになったニンニは、徐々に姿がみえるようになっていく。
でも、顔だけはみえない。
ムーミンとミイは、ニンニに遊びを教えようとするけれど、ニンニはひととうまく遊ぶことができない。
ニンニはつきあいでやっているだけで、少しも面白そうではない。
遊んでも、すぐに立ち止まってしまう。
そんなニンニに、ミイは思わず怒鳴る。

「あんたには命ってものがないの? 鼻をピシャンとぶたれたいの?」

ごめんなさいとあやまるニンニに、ミイは追い討ち。

「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

このあと、あることをできごとをきっかけに、ニンニは自分の顔をとりもどす。
それにしても、ミイの発言もハードボイルドだ。
ムーミン・シリーズは、じつはハードボイルドなのかもしれない。

そのほかの作品も簡単に――。

「春のしらべ」
スナフキンが旅の途中で出会った、はい虫に名前をつけてやる話。

「ぞっとする話」
ホムサがミイにいじめられる話。

「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」
この世の終わりにおびえるフィリフヨンカが、竜巻に襲われ、家からなにから一切合財もっていかれてしまい、でもせいせいしたという話。

「しずかなのがすきなヘムレンさん」
うんざりするほど陽気なヘルム一族のなかにあって、年金をもらって静かに暮らすことだけを夢みる、変わり者のヘムレンさんの話。

「ニョロニョロのひみつ」
ムーミンパパがニョロニョロと一緒に旅をする話。

「スニフとセドリックのこと」
犬の人形セドリックを手放したことを後悔するスニフが、スナフキンからスナフキンのママのおばさんの話を聞く話。

「もみの木」
冬眠中のムーミン一家が、ヘルムに起こされ、なんだかわからないままにクリスマスというものをする話。

「目に見えない子」のほかに、本書で注目すべき作品があるとすれば、それは「ニョロニョロのひみつ」だ。
訳者の山室静さんは、解説で「失敗作」と断じているけれど、なんともいえない面白さがある。
なかなかこういう失敗はできないよなあと思わせる、大変魅力的な失敗。
「ムーミンパパ海へいく」「ムーミン谷の十一月」連なる面白さだ。

――長くなってきたので、次回に続きます。

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ラ・ロシュフーコー公爵伝説(承前)

――続きです。

その後、反マザラン派の巻き返しがあり、マザランは亡命。
マザランが去ったあとのパリは、さらに政情が不安定に。
王族のひとりにして、30年戦争の英雄、コンデ公が王のように振る舞う。
王母アンヌ・ドートリシュはマザランを再び呼び寄せ、マザランは自費で傭兵を雇い、パリにもどろうとする。

またしてもというべきか、公爵はコンデ公ひきいる反乱軍に参加。
テュレンヌ元帥指揮下の王軍とたたかい、こんどは眼の下を銃弾が貫通するという重傷を負う。
このとき、コンデ公は自ら盾となり、重傷を負った公爵を救った。
公爵は危うく失明するところだったが、しだいに視力をとりもどす──。

とまあ、公爵の前半生はだいたいこんな感じ。
要するに、陰謀に明け暮れ、反乱軍に加わっては負けてばかりいた。
つきあいが良く、要領が悪いので、いつもいい目をみることがなかった。

フロンドの乱が収束し、パリにもどったルイ14世はすぐに大赦令をだす。
けれど、コンデ公にすくわれた恩を思い、公爵は大赦を拒否する。
おかげで、大逆罪、爵位剥奪および全財産没収の一味に入れられてしまう。
周囲のひとびとの奮闘があり、けっきょくは赦されるのだけれど、まったく公爵はどこまでもつきあいがいい。

さて。
回想形式というのはなんでも入れることができる、たいそう便利な形式だ。
いままで、公爵の経歴をつらつら記してきたけれど、本書の面白さはそればかりではない。
当時の風俗の点描、挿入されるエピソード、社会構造の変化についてのコメントなど、どれをとっても興味深い。

まず、モンテーニュや公爵を筆頭とする、モラリストと呼ばれるひとたちがどこからあらわれたのかということについて。
公爵は3つの条件を挙げる。
ひとつは、新大陸の発見について。
まったくモラルの異なる、しかし同じ人間があらわれた。
それから、カトリックと戦争までした、プロテスタントの出現。
さらに、身分制度を揺るがす、ブルジョワジーの台頭。

それまで、人間のモラルは教会にまかせておけばよかった。
ところが、上記の3つの条件のためにそうもいかなくなってしまった。
では、教会が担えないとすれば、一体どこに人間のモラルの根拠をもとめ得るのか。
公爵はいう。

「私は思うのだが、それは人間、あるいは人間性自体の観察と考察以外にはありえない」

では、人間性自体の観察と考察は、いかにして可能なのか。

「人間の間にまじって、人間の風俗習慣や行動様式を観、かつ考えること以外にはありえない」

ここに、モラリストというものがあわられる土壌がある。
公爵はこのあと、こう続ける。

「思想は天から降ってくるわけではない」

このことばは、本書の旗印といえるだろう。
このことばにしたがうように、当時の風俗習慣が本書ではていねいに拾われている。
長ながと契約書を詠み交わす結婚だとか、大貴族にかこまれながらの王妃のお産などがえがかれる。

公爵の時代には、もう貴族の命脈は尽きようとしていた。
なんといっても時代が変わった。
600年前、フランスを荒らしまわったノルマン人を追いだすことで力をつけた領主たちは、変容した社会のなかで、ただのお荷物となっていった。

まず、官職が売りにだされた。
守衛から王の顧問官まで値がつけられた。
加えて、アンリ4世は、税金を払えば官職の譲渡すら可能にした。
これは貴族の反対にあって中止されたのだが。

この官職の売買により、国庫は相当にうるおった。
そして、国中は役人ばかりとなり、手続きがやたらと増え、ものごとがうごかなくなった。

貴族や聖職者は、直接税を免除される特権をもっていた。
でも、かれらはこれを特権だとは夢にも思わず、王権が、貴族や聖職者を基本とする社会制度を破壊しようとしていると考えた。
そして、不平貴族たちが明確な目的をもつとはとても思えない陰謀に日夜憂き身をついやしているあいだに、絶対王政があわられる──。

陰謀やら戦争やらをするのにも金がかかる。
そのうち、ただの債務者としかいえない存在となってしまった貴族すらあらわれた。

「ほんの一部の、大領地を所有する大貴族を除いて、ほとんどあらゆる貴族たちが債務と訴訟をかかえていて、多くの者が担保としての土地を失い、なかには追い詰められて、裸で、と言いたくなるほどのていたらくでヴェルサイユ宮殿へ逃げ込んでいる連中もいたのだ」

と、公爵。
なぜ、ヴェルサイユ宮殿に逃げこんだかというと、さすがにそこまでは借金とりもやってこられないから。

「農業収入以外に収入のない領地貴族が、その領地を失えば、これはもうただの難民でしかない」

かくいう公爵も債務に追われていた。
ルイ14世が発した大赦令を蹴とばしたために、爵位剥奪及び全財産没収の一味に入れられた公爵にたいし、たいそう驚いたのは、ほかならぬ公爵の債権者たちだった。
全財産没収などされたら、貸し金がふいになってしまう。
債権者たちは連名で、「これは国家による債権者への権利侵害である」と、高等法院を通じて王に抗議し、勅命のとり消しをもとめたという。

でも、公爵は運がよかった。
公爵には、グールヴィルという大変有能な執事がいたのだ。
(グールヴィルは、「ラ・ロシュフーコーと箴言」では、ジャック・エスプリという名前で登場する。一体この名前のちがいはなんだろう)

公爵家のお仕着せを着ているために、「赤マント君」と呼ばれたり、“驚くべき”という形容をとともに語られるグールヴィルは、公爵を助けて大活躍をする。
主人とともに深夜騎行し、戦場でともにたたかう。
借金とりをあしらい、敵味方問わず交渉し、根回しして駆けまわる。

公爵が反マザラン派として活動したとき、金銭的支援をもたらしたのはグールヴィルだったし、フロンドの乱のあと、大逆罪となった公爵を助け、後始末をつけたのもグールヴィルだった。

グールヴィルは、あらゆる身分を縦断していく悪漢小説の主人公のように、溶解しつつある王国の身分制度を上昇していく。
公爵からはなれ、ついには男爵となり、王の秘書役にまで昇りつめる。

財政的には、グールヴィルは公爵を抜くにいたる。
それでもグールヴィルは公爵に礼を失せずして接したよう。
これは、すっかり公爵に肩入れした読者としてうれしいことだ。

本書には、グールヴィルと対をなす階級上昇者として、フランソアーズ・ド・マントノン侯爵夫人についてのエピソードが記されている。
カリブ海の孤児から、文士スカロンの妻となり、ついにはルイ14世の愛人となった人物。
これまた非常に興味深いのだけれど、もういいかげん長くなりすぎているので、これも省略。

後半は、マキシム(箴言)についての解説と、ラ・ファイエット夫人との交友について。
当時の出版事情や、文芸作品の評価について語られる。

「当代にあっては、ある新しい作品、あるいは問題作といったものが発表されると、文学評価の方法論が確立していないので、その作品の評価、あるいは批評というものが、たちまちのうちに徒党、あるいは派閥内の争いに巻き込まれ、批評や評価といったものではなくて、喧嘩沙汰がはじまってしまうのが現状であったのだ」

かくいう次第だったので、ラ・ファイエット夫人の「クレーヴの奥方」の出版には、慎重にも慎重を期した──。

本書についてメモをとっていくと、まったくきりがない。
このあたりにしておこう。

また、話は語り口にもどる。
本書は作者にとって最晩年の作品であるはずだ。
そこで、新手の手法をためしており、後半にいたるほど語り口はこなれ、うまくなっていく。
じつに驚くべきことだ。

本書は、細部が豊富で、考察に満ちている
一見とっつきにくいけれど、読みはじめるとやめられない。
何度読んでも楽しめる。

先日、「近代の呪い」(渡辺京二/著 平凡社 2013)という、著者の講演をあつめた本を読んでいたら、「フランス革命再考」という1章があった。
これを読んでいたら、本書とくらべたくなり、また引っ張りだして読んでいる。
ほんとうに、なんて面白い小説だろう。


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