リサイクルブックにいった話

某月某日、リサイクル・ブック・フェアにでかけた。
リサイクル・ブック・フェアとは、図書館が除籍したり、寄贈してもらったもののもう所蔵していたりする本を、市民に提供するという催しのこと。
図書館主催の古本市というと、イメージが近いだろうか。

いく気になったのは、「リサイクルブックには信じられないような本がでるよ」という、知人のひとことがきっかけ。
その知人は、幻想文学大系全巻がでているのをみたことがあるという。

そんなバカなと思ったけれど、話をよくよく聞いてみると、そう考えられない話ではない。

「ああいうマニアックな本は、よほどマニアックな市民が大勢いないと、そうそう借りられないだろう。蔵書冊数が10万冊規模のところではまずダメだ。となると、本はただ棚をふさぐだけのホコリ収集装置になる」

「とはいえ、ただ捨てるのは心苦しい。ならいっそのこと、市民にもっていってもらおうと考えたってなんの不思議もない」

なるほど。
でも、なんだってその図書館は、そんな本を買っちゃったんだ?

「たぶん年度末で予算を使い切らなきゃいけなかったんじゃないかな。そのときに、マニアックな職員がいたんだよ」

たしかにありそうな話だ。
でも、図書館の尊厳というと大げさだけれど、まあそういう感じのものは、どれだけ魅力的な、知らない本があるかに大きくかかわってくるだろう。
そういう本がリサイクルにだされるというのは、ちょっとさみしい気もするなあ。

「図書館も書店といっしょで新刊の応接にいとまがないからね。借りられない本を置いておくような、のんきなスペースは、町の図書館ではもうむりだよ」
……

で、当日。
のこのこ出かけてみる。
会場は集会所のようなところ。

開始は9時半からだったので、ちょうどにいってみるとこれが甘かった。
すでに入場制限がおこなわれている。
そんなにビッグイベントなのか?

「いま入場されているかたが出てくるまで待ってくださいね」
と、職員のかた。
いわれたとおり、入り口に整列。

窓ごしに、本を物色しているひとたちが見える。
はやくも本の山をかかえているひともちらほら。
まえに並んでいるおじいちゃんは気が気ではないよう。
おじいちゃん、ついに声をあげる。

「建物からは出てこないけど、会場の部屋からは出てきてるじゃないか」

その後ろの女性も声をあげる。

「本がなくなっちゃうじゃない」

こちらも内心はおじいちゃんと同じ気持ちなのだけれど、じつは他市から越境してきた身であるので、おとなしくしている。

すると、おじいちゃんはついに職員のかたを押しのけて強行突破。
それに続いて女性も突破。

ときどき思うのだけれど、本をいくら読んだって、人格が向上したりすることはないんじゃないだろうか。

なにもかもあきらめきった表情の職員のかたにうながされて、会場へ――。


…えー、なんだか長くなってきたので続きます。


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きみの血を

「きみの血を」(シオドア・スタージョン 早川書房 2003)

訳は山本光伸。
カバーイラストは上原徹。
カバー・デザインはハヤカワ・デザイン。
早川文庫の一冊。

読んだのは早川文庫版だけれど、、絵にしたのはポケット・ミステリのほう。
例によって、文庫を買ったあと、そういえばもってなかったっけと思い、部屋をさがしたら出てきた。
一度ポケット・ミステリを描いてみたかったので、絵はこちらに。
装丁は、勝呂忠。

さて、ストーリー。
ぜんたいとしては、書簡体小説。
まず、アルという人物から、フィルという人物への手紙。
アルは陸軍大佐で、とあるGIの診断を友人の精神科医フィルに頼む。
そのGIは、軍医部の陸軍少佐を殴ったため、東京から本国に送還されたのだけれど、手続きのミスで3ヶ月間独房に監禁されたままだった。
完全無欠な診断をくだし、医療上の理由により除隊という段どりにしてくれと、アルはフィルに念を押す。

GIの名前はジョージ・スミス。
なぜ、ジョージが少佐を殴ったのかというと、一通の手紙が原因。
ジョージが書いたその手紙は、検閲官に怪しまれ、軍医部の少佐のところにもちこまれた。
そして、少佐の面接をうけたさい、ジョージは少佐を殴ったのだ。

ここまでがプロローグ。
このあと、フィルにうながされ、ジョージが書いた回想録がずっと続く。
回想録には、ある事実をさけたような不自然なところがある。
フィルがその謎を解き明かそうとするさまが、その後、フィルのアルへの手紙によって描かれていく。
……

シオドア・スタージョンの作品をそんなに読んだわけではないのだけれど、読むといつも不思議な感じがする。
「なんだって、このアイデアをこの密度で書かなくちゃいけないんだ」という感じ。
アイデアと表現に落差がありすぎるように思う。
いまいち腑に落ちない。

腑には落ちないけれど、スタージョンの作品を読んで、強く感銘をおぼえるのは、
そのアイデアと表現の落差を埋める、スタージョンの不思議な情熱だ。
スタージョンには、それだけ密度を上げて物語る必然性があったんだろう。
今回読んだこの作品にも、そのことを感じた。

作品自体はとてもスリリング。
ジョージの回想録は読ませるし、後半のジョージの謎をめぐるやりとりは読む手を休める気にもならない。
読みはじめたらやめられなくなってしまい、手紙の内容が明かされるラストまで、一気に読みふけってしまった。
好悪は分かれると思うけれど、読ませるという点では異論のない作品だろう。

本書のジャンル分けは、よく考えるとむつかしい。
奇妙な犯罪小説でもあれば、ミステリでもあり、怪奇小説でもある。
ポケット・ミステリ版には、矢野浩三郎さんによる解説がついていて、そこのところをうまくいいあてていると思った。
この解説は、文庫版には収録されていないから、ちょっと引用してみたい。

「この作品がスタージョンの傑作であり、すぐれた小説であることは異論の余地がない。しかし、怪奇あるいはファンタジーの要素はもののみごとに削り取られている。敢えていうならば、そうした要素のないことが、この作品の最大の特徴なのである」

「怪奇小説あるいは恐怖小説(なんと呼ぼうと,要するに怪談のこと)の常套手段が、奇怪な現象の原因をさぐっていって、ついには幻想というこの地上の論理では鮮明できない世界につきあたることであるならば、スタージョンの『きみの血を』はまさしくその逆をいっているわけで…」

「私はこの小説を“アンチ恐怖小説”と名づけたい」

この作品はいろんな読みかたができるので、矢野さんの解説も意見のひとつでしかない。
それにしても…、と話はまたもとにもどるけれど、スタージョンは不思議な傑作を書く作家だなあ。


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コンプライアンスの話

ちょっとまえ、偽造事件が立て続けに起こったときのこと。
ある新聞に「偽造が発覚するのは、現場でなんとかしようとする力が落ちているのだ」というような記事をみつけて、なんかちがうなーとか思っていた。

ちがうなーと思ったのは2点。
まず、現場というものが、以前とちがい、とても多様化したのではないか。
社員と非正規雇用職員、派遣、パート、アルバイトではそれぞれ立場がちがう。
身分が細分化された状況でなんとかするのはむつかしいだろう。

もう1点は、現場というものはもっと広くなったんじゃないかということ。
ネットのためかどうか、世の中がフラットになってしまって、株主も経営者も、じつはもうみんな現場なんじゃないだろうか。

こういうことを教えてくれるものはないかと思っていたら、雑誌「建設業界」2008年2月号に、わかりやすい記事が載っていた。
中村義人さんという、東洋大学教授で公認会計士をされているかたの講演録。
タイトルは「建設業とコンプライアンス」

「建設業界」というのは、文字通り建設業界の業界紙。
昨今の建設業界は大変きびしい状況であるらしい。
紙面は、世間がお金をだしてくれないようという泣き言に満ちている。

それはともかく。
中村さんの講演録によれば、コンプライアンスということばは、「遵守」という意味だそう。
よくある「法令遵守」という訳は、ちょっとちがう。
その意味するところはもっと広く、社会規範や倫理にまでおよぶ。

よく聞くようになったことばで、コーポレート・カバナンス(企業統治)だとか、CSR(企業の社会的責任)だとか、内部統制システムだとかがあるけれど、コンプライアンスはそれらのことばと同じ文脈でつかわれるものらしい。

企業をよりよく統治することによって社会的責任を果たしつつ、効率よく利益をだし成長を遂げる。
コンプライアンスというのは、その企業統治というものの一端をになう考えかただそう。

で、どうしてこんな考えかたが取りざたされるようになったのか。
きっかけは、たび重なる不正事件と、世の中の変化。
いくつか事例が挙げられている。

まず、1995年の大和銀行事件。
ニューヨーク支店で元行員が11億ドル(約1100億円)のつかいこみをして、自ら内部告発したという事件。

驚いたことに、この行員が頭取にあてた内部告発文書には、「自分が悪かった」というようなことは書いていなかったらしい。
「銀行の体制が悪く、そこにいた自分が不運だった」ということが書かれていたそう。
これを読んだとき、頭取さんのはらわたは煮えくり返ったんじゃないだろうか。

ともかく調査してみると、事実は告発文書のとおり。
頭取さんたちそのほかは、自分も被害者だといいたかったかもしれないけれど、事件はそんなふうに推移はしなかった。

大和銀行が大きな損失をだしたのは、役員が内部統制システムを構築していなかったためとして、アメリカの検察は3億4000万ドル(約400億円)の罰金を大和銀行に課した。

ニューヨーク支店は撤退し、合併で大和銀行の名前はなくなる。
合併後、株主代表訴訟が。
当時の役員49人に対し、14億5000万ドル(約1500億円)を会社に賠償するよう求めた。

2000年、大阪地裁は株主側の主張を一部認め、当時のニューヨーク支店長に5・3億ドル(約530億円)、そのほかの本社役員に計2・5億ドル(260億ドル)を支払うように命じた。
これは株主代表訴訟としては、過去最高だそう。
ただし、控訴ののち和解が成立して、元支店長らは2億5000万円を大和銀行に返還した。

ちっとも知らなかったけれど、ダスキン事件というのも紹介されている。
これもコンプライアンスの典型的な問題と、中村さん。

ダスキンというから、ミスタードーナツだろうか。
ある人物から、無許可添加物をつかった食品を販売していると内部告発があった。
当時の社長は、公表すれば会社に多大な損害をあたえると判断。
口止め料、6300万円を支払った。

ところが、結果的に事実は明らかに。
加盟店の営業補填などで105億円の支出を強いられる。

その後、株主代表訴訟。
2007年、大阪高裁は責任者だった元専務と元取締役に対し、53億円の賠償をもとめる判決をだした。
また、不祥事を積極的に公表しないのは隠蔽とおなじであるとして、当時の役員全員に5億円の賠償責任をもとめた。

新社長が、辞任した元社長らに損害賠償請求訴訟を起こすという事例もある。
日興コーディアル不正会計事件。
こういった内部からの訴えも、これから増えてくるのではないかと、中村さん。

さて、不祥事が起きたから世の中が変わるのか、世の中が変わったから不祥事が起きるのか。
これはなんともいえないことだけけれど、世の中のほうにかんしては、中村さんはこんな説明をしている。

「事前規制型社会から事後規制型社会への転換。…従来は行政指導など役所の規制が幅広くおこなわれてきたのに対し、グローバル化によって役所の規制が緩和され、自己責任で行動する社会に転換しました」

「会社設立などの入り口は広げられましたが、企業活動に対する責任が重くなり、ルール違反に対しては厳しい措置がとられるようになりました」

厳しい措置というのはどんなものか。
2005年の橋梁談合事件を例に挙げて述べている。
行政制裁(課徴金)8億5400万円。
刑事制裁(罰金)6億4000万円。
民事制裁(違約金)3億7000万円。
計19億円。

さらに、売り上げが半分になり操業率が低下した結果、この罰則にプラスして、100億円の損害。
法的な制裁よりも、経営そのもののダメージのほうがはるかに大きい。

以下、内部統制システムや、四半期報告制度、公益通報者保護法、それからコンプライアンス経営の実践のしかたについての説明が続くけれど、これは省略。

とにかく、いまの世の中は過失の射程距離が想像を絶するほど長くなったらしい。
それをあらかじめ防ごうというので、コンプライアンス経営という考えかたがあらわれてきたよう。

いや、講演録を読むかぎりでは、「防ぐ」という考え自体がもうまちがえている。
法律を守るということには、もっと積極的な意味合いがあるんだと中村さんはいっているよう。
「遵守」はコストではなくて、投資なんだという考えかたが必要になりそうだ。


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テキサスぽんこつ部隊

「テキサスぽんこつ部隊」(グレンドン・スウォーサウト 角川書店 1980)

訳は安達昭雄。
装丁、和田誠。
海外ベストセラー・シリーズの一冊。

これは賞味期限切れ小説。
和田誠さんの装丁と、「ぽんこつ」なんていうタイトルから、愉快な小説を期待していたのだけれど、じっさいはちがった。
和田さんには、ときおりだまされる。

冒頭の「作者のノート」によると、本書は事実をもとにしたそう。
1916年5月、メキシコ国境のテキサス州グレン・スプリングズで無法者たちの襲撃を受けた州兵たちは、T型フォードに乗りこんで進撃した。
そのさいつかわれたT型フォードは、いまもコウアウィーラ州、カバロ・デル・ディオスの町の広場にあるという。

主人公はスタンレイ・ディンクル。
自分はもう若くないんだと思う32歳の少尉。
その任務は、国境のへりに送られてくる下級将校を、ひと月のあいだに一人前に仕立て上げるというもの。
騎兵をとことん愛するディンクルのところへ今回やってきた6人の若者たちは、なんとT型フォードであらわれる。
しかも、そろって東部のお坊ちゃん。
たまたま、ディンクルの留守中、若者たちは無法者の襲撃をうける。
逆上した若者たちは、T型フォードに乗りこみ進撃を開始するのだが。


ディンクルの人物造形がじつにわびしい。
家族にも相手にされず、国境沿いで新兵しごきに精をだす。
その新兵にすらバカにされる始末。

ディンクルに猛烈な求愛をする、フロッシー・グレブズもまたわびしい。
なんにも採れない鉱山で、父親とふたりではたらく。
父親は長年の鉱山暮らしで、意気軒昂だけれどからだはボロボロ。
フロッシーが面倒をみなくてはならない。

フロッシーがディンクルを口説く文句が泣かせる。
「この世ではいま手にあるものでやっていかなくちゃなんないのよ」
「あんたは若くないわ、あたしもそうよ」
「いいこと、あたしにチャンスをくれたらどうなのよ! 愛してんだからさ!」

このフロッシーも無法者にさらわれてしまう。
ラストがとても痛ましい。

賞味期限が切れているなと感じるのは、一にも二にも語り口。
登場人物を嘲弄するような、冗談めかした文章は、傷むのが早いように思う。
長編ならなおのことそうだけれど、できれば登場人物を好きになって読み進めたいものだ。


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たらいまわし本のTB企画第43回「音とリズムの文学散歩」

たらいまわし本のTB企画
通称「たら本」。

第43回目(42回目は欠番)の主催者さんは、おかぽれもん。のpicoさん。

今回のお題は「音とリズムの文学散歩」

●小説に登場した心を捉えて離さない音楽
●または小説の世界に興味を抱き実際に聴いてみた音楽
●好みの音楽が登場して親近感が沸いた小説
●小説に登場する気になる音とリズム、オノマトペ
●文体のリズムが踊り小説自体がすでに音楽と化している
●小説に感化され楽器(音楽)をはじめたくなった

などなど、音楽を感じ音楽を抱きしめた文学を教えてください。

…ということなのだけれど、うーん。
音楽は不得手なジャンルだ。
知識がないし、楽器もできない。
小説のなかで語られている曲が、頭で鳴り響くということもない。

それに、これは「たら本」に参加するようになって自分のクセに気づいたのだけれど、そもそも小説のディティールをろくに読んでいない…、ということがある。

でもまあ、気をとりなおして、音楽にかんする本を思いつくままに挙げていこう。

「黙されたことば」(長田弘 みすず書房 1997)
これは詩集。
なかに、クラシックの音楽家たちをとりあげて一篇の詩にした作品群がある。
とりあげられた音楽家は、バッハ、シューマン、フォーレ、マーラー、シューベルト、ビゼー、ショパン、ブラームス、ヴェルディ、ハイドン、他、他…。

例を挙げたほうが早い。
シューベルトをとりあげた詩で、タイトルは「短い人生」。

「幸福とは何一つ所有しないことである。
 自分のものといえるものは何もない。
 部屋一つ、机一つ、自分のものでなかった。

 わずかに足りるものがあればかまわない。
 貧しかったが、貧しいとつゆ思わなかった。
 失うべきものはなかった。

 現在を聡明に楽しむ。それだけでいい。
 無にはじまって無に終わる。それが音楽だ。
 称賛さえも受けとろうとしなかった。

 空の青さが音楽だ。川の流れが音楽だ。
 静寂が音楽だ。冬の光景が音楽だ。
 シューベルトには、ものみなが音楽だった。

 旋律はものみなと会話する言葉だ。
 神はわれわれに、共感する力をあたえた。
 無名なものを讃えることができるのが歌だ。

 遺産なし。裁判所はそう公示した。
 誰よりたくさんこの世に音楽の悦びを遺して
 シューベルトが素寒貧で死んだとき」

なにかクラシックの曲を聴いたときは、長田さんはなんていってたっけと、この本をひもとくのがくせになってしまっている。

「アメリカの心の歌」(長田弘 岩波書店 1996)
これも、長田さんの本で、アメリカのポピュラー・ソングについて記したエッセイ集。
紹介されている曲を聴きたくなり、何枚かCDを買ってしまった。
この本からは、ナンシー・グリフィスについての一文を。

ナンシー・グリフィスはカントリー・ソングの歌い手(長田さん風にいえば、歌うたい)。
アルバムのジャケットに小道具として本を用いるという、ほかのひとがあまりしないことをする。
その本は周到に選ばれていると長田さん。
「それは南部人。そしてテキサス人の作家たちの本に意識的にかぎられている」

ナンシー・グリフィスが本をジャケットの小道具としてつかうのは、彼女の歌に対する考え方から。

「ナンシー・グリフィスにとって、歌は本なのだ。歌を本とすれば、本は歌だ。歌と本は人びとの日々の経験の表裏をなして、同時代の生きる感覚を分けあう共通の場を、いま、ここにともにつくってきた」

「本を自己表現とするニューヨークの作家たちとちがって、南部の、そしてテキサスの作家がしてきたことは、ヴォイス(声)を本に書きとることだ。耳を澄ますと聞こえる、土地のヴォイス。日々の光景にひそんでいるヴォイス」

このあと、カポーティの本のタイトルからとったアルバム、「遠い声、遠い部屋」が取り上げられている。
本を抱きしめ、あごをそらして笑うナンシー・グリフィスのジャケットが印象的。
このアルバムも買ってしまった。
気持ちのよい、カントリー・ソング集だった。

主催者のpicoさんは、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」をとりあげられていた。
「セロ弾きのゴーシュ」は高畑勲監督により、アニメにもなっている。
このアニメで、音楽の間宮芳生さんによる「印度の虎狩り」を聴くことができる。

「セロ弾きのゴーシュ」で思い出した。
「日本語ということば」(赤木かん子・編 ポプラ社 2002)に収められた、「「あまえる」ということについてという作文。
書いたのは、当時、小学2年生だった中村咲紀さん。
中村さんが、それまでの全人生を投入して書いた、渾身の作文。

「ゴーシュは、ようちえん時だいのわたしとそっくりでした」

と、書く、中村さんのこの作文は、「セロ弾きのゴーシュ」にかんする最高の手引き書だと思う。

「《セロ弾きのゴーシュ》の音楽論」(梅津時比古 東京書籍 2003)、という本のことも思い出した。
じつは未読。

著者の梅津さんは、長いこと毎日新聞にクラシックについてのコラムを書いている。
新聞のなかで、そこだけ湖面のようにみえる、静けさをたたえたコラム。
その文章は一種の美文で、マンガ「のだめカンタービレ」(二ノ宮知子 講談社)に、やたらと気の利いた文句を並べ立てる音楽評論家があらわれたとき、失礼ながら梅津さんのことを思い出した。

梅津さんのコラムは「フェルメールの音」(梅津時比古 東京書籍 2001)で読むことができる。
「《セロ弾きのゴーシュ》…」もいずれ読んでみたい。

またべつのことを思い出した。
花巻の宮沢賢治記念館にいったときのこと。
各国語に訳された賢治作品が展示されていて、中国語になった「風の又三郎」の冒頭はこんなふうだった。

「斗斗斗斗斗斗斗斗斗斗斗」

字の数はちょっとちがっているかも。

――小説のディティールを読まないなら、いったいなにを読んでいるのか?
たぶん構成ばっかり読んでいるんだと思う。

山本周五郎に「よじょう」という、宮本武蔵を題材にした短篇がある。
この作品は、ラヴェルの「ボレロ」から想を得たと、たしか文庫本の解説に書いてあったと思った。
どの文庫に収録されていたのか、忘れてしまったけれど。

「ボレロ」でまた思い出したけれど、アニメ映画「デジモンアドベンチャー」でも、「ボレロ」は効果的につかわれていた。
「よじょう」と「デジモン」は「ボレロ」でつながっている。

「ティーパーティーの謎」(カニグズバーグ 岩波書店 2000)
この作品も、クラシックから構成の想を得たもの。
巻末の、娘さんによる文章によれば、カニグズバーグはモーツァルトの交響曲40番ト短調の第一楽章を聴いて、いつの日かこの曲をモデルにして本を書いてみよう、と思ったそう。

「短い導入部分や主題のくり返しがある本を書いてみたいわ。それぞれ別のメロディーなのにからみあっていて、それがくり返しながらつながっていくのよ」

本書の導入は、「博学大会」州大会決勝戦から。
決勝戦の模様とともに、参加メンバーの4人と担任の先生の話が織りまぜながら語られる。
その構成はみごとのひと言。
カニグズバーグの本をぜんぶ読んだわけではないけれど、いまのところこの作品がいちばん好きだ。

気になってモーツァルトも聞いてみた。
クラシックは聴くとあれかあと思い当たるものが多いけれど、この曲もそうだった。

最初のほうで、長田さんによるシューベルトについての詩を紹介したけれど、シューベルトは絵本にもなっている。
「リトル シューベルト」(M.B.ゴフスタイン アテネ書房 1980)。

タイトルはすこし固いように思う。
「シューベルトくん」くらいでいいような気がする。

この作品でも、シューベルトくんは素寒貧。
火の気もない小さい部屋で、せっせとだれにも聞こえない音楽を書きつける。
寒さで指がこごえると、ぽかぽかするまで部屋のなかで踊る。

1980年に出版されたこの絵本には、付録としてレコードがついている。
「いまから150年ほど前、ウィーンの町のあの小さな部屋で、フランツ・シューベルトが書きあげた「高雅なワルツ」全12曲のうち5曲をおさめたものです」

でも、うちにはレコードプレイヤーはない。
いつか、CDででも聴いてみたいものだ。

ゴフスタインにはこんな作品も。
「ピアノ調律師」(M.B.ゴフスタイン すえもりブックス 2005)

デビーのおじいさん、ルーベン・ワインストックは素晴らしいピアノ調律師。
デビーもピアノ調律師になると心にきめているが、おじいさんはピアニストになってほしいと思っている。
ある日、ルーベンの友人で偉大なピアニスト、アイザック・リツプマンが町にやってくる。
ルーベンは、リップマンの演奏を聴けば孫娘も心変わりをするのではないかと思うが…。

リップマンの演目はこう。
・バッハの「幻想とフーガ」
・ベートーベンの「3楽章からなるソナタ」
こういうとき、教養があって、すぐ曲を思い浮かべることができたらなあ。

リップマンの演奏がどんなだったのかは、まるで書かれていないのだけれど、素晴らしい演奏だったにちがいない。
そう思わせるのはゴフスタインの筆力だろう。

…なんだか、とりとめがなくなってきた。
最後に、「ピアノ調律師」からリップマンの名セリフをひいて終わりにしよう。

「もし、ピアノを弾くことが本当に好きな人だけがピアノを教えてくれたら、世界はもうすこし良いところになっているかもしれないよ」


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