2014年 ことしの一冊たち

1月

三国末史物語、ブラックサッド、ヘルボーイ
「三国末史物語」(内田重久 中央公論事業出版 1979)。
「ブラックサッド 赤い魂」(フアン・ディアス・カナレス/作 フアンホ・ガルニド/画 大西愛子/訳 Euromanga 2013)
「ヘルボーイ:疾風怒濤」(マイク・ミニョーラ/著 ダンカン・フィグレド/著 今井亮一/訳 石川裕人/訳 ヴィレッジブックス 2013)。
孔明死後の三国志を書いた小説としては、宮城谷昌光さんの「三国志」があった。読もうと思いながら、一年が終わってしまった。
「ブラックサッド」は、最初の巻がEuromangaから再版された。早川書店版を買った者にとっては、悩ましいかぎりだ。外国の漫画でことし目を引いたのは、「リトル・ニモ1905-1914」(ウィンザー・マッケイ/著 小野耕世/訳 小学館集英社プロダクション 2014)。値が張るので見送ったのだけれど、買っておけばよかったか。

「かぐや姫の物語」(高畑勲(ほか)/著 スタジオジブリ 2013)
ことし話題をさらった映画といえば、なんといっても「アナと雪の女王」だろう。「かぐや姫の物語」よりずっと面白かったというひとが周りにいて、大いに驚いた。


2月

巨匠とマルガリータ
巨匠とマルガリータ(承前)
「巨匠とマルガリータ 上下」(ミハイル・ブルガーコフ/著 法木綾子/訳 群像社 2000)
原作を読んだあと映像をみたり、映像をみたあと原作を読んだりということをよくする。そうすることで、原作の構成をよく知ることができる。特に、本書は話になじむまで時間がかかる。原作と映像、両方に接せられたのは運がよかった。「黄金の仔牛」もそうだったけれど、映像が原作どおりのストーリーなのには感心した。「巨匠とマルガリータ」は、その内容と、作品がたどった運命が一体となっている。こんな本はそうないのではないか。

3月

「ヴェネツィアの薔薇」(ミッシェル・ロヴリック/著 ミンマ・バーリア/著 富士川義之/訳 集英社 2002)
この記事は入力したあと間違えて消してしまい書き直した。書き直しには思ったほど時間はかからなかった。一度書くと、案外内容をおぼえているものだ。

「ラ・ロシュフーコー公爵伝説」(堀田善衛/著 集英社 1998)


4月

ラ・ロシュフーコー公爵伝説(承前)
「近代の呪い」(渡辺京二/著 平凡社 2013)では、カトリック同盟のことを「リーグ」と呼んでいた。最初、なんのことやらわからなかった。本書は、発表時、多少評判になったのだろうか。あまりなじみのない時代を舞台にしているし、語り口は独特だし、評するには始末に困る小説だと思う。こんなに面白いのに。

ムーミンについて その1
「ムーミン谷の仲間たち」


5月

ムーミンについて その2
「たのしいムーミン一家」
「ムーミン谷の彗星」
「ムーミンの夏まつり」
「ムーミン谷の冬」
「ムーミンパパの思い出」
「ムーミンパパ海へいく」

ムーミンについて その3
「ムーミン谷の11月」
「小さなトロールと大きな洪水」


6月

ムーミンについて その4
「ムーミン・コミックス」など
ことし、はじめてムーミンを読み、その不思議な面白さに驚いた。たまたま、ことしが作者トーベ・ヤンソンさんの生誕100周年だったので、関連本がたくさん出版され、展覧会も開かれた。展覧会はみにいったけれど、関連本はあんまり出版されすぎて、ほとんど目を通していない。来年、生誕101周年に、なにか本はでるのだろうか。ムーミンの小説とコミックスについては、けっこう書いたけれど、絵本についてはふれるのを忘れていた。「ムーミン谷へのふしぎな旅」(渡部翠/訳 講談社 1991)が、ヤンソンさんの水彩画が楽しめ、いつものことながら天変地異が起こり、かつ大勢のキャラクターがでてきて楽しいと、ここに書いておこう。ヤンソンさんの、大人向けの小説はまだ読んだことがない。いつか読むのが楽しみだ。

「マクナイーマ」(マリオ・ヂ・アンドラーヂ/著 松籟社 2013)
もうずいぶん前のような気がするけれど、ことしはワールドカップ・ブラジル大会が開催されたのだった。それで、ブラジル産の小説を読んでみようと思い、この本を手にとってみた。内容は、じつにいいかげんな主人公、マクナイーマの一代記。因果関係があるんだかないんだかわからない話が、とにかく語り続けられる。最近、「ブッシュ・オブ・ゴースツ」(エイモス・チュツオーラ/著 橋本福夫/訳 筑摩書房 1990)を読んでいたら、似たような語り口で書かれていた。思えば、以前読んだ「小人たちの黄金」も、似たような語り口だった。場面場面がくっきり分かれておらず、ずるずると語られていく。
ブラジルの作家はだれも知らないと思っていたけれど、「ブラジルを知るための56章」(アンジェロ・イシ/著 明石書店 2010)を読んでいたら、パウロ・コエーリョの名が挙がっていて、おおそうかと思った。読んだことはないけれど、名前だけは知っている。以前、アメリカのTVドラマ「フレンズ」をみていたら、登場人物がコエーリョの「アルケミスト」を手にしていた。それがあの長いシリーズの、シーズンいくつの第何話だったのかはおぼえていないけれど。アンジェロ・イシさんは、パウロ・コエーリョについてこう書いている。

《決して優れているとはいえない彼の「アルケミスト」やピエドラ川のほとりで私は泣いた」だけを読んでブラジル文学の水準を見くびられないためにも、ブラジルの名著がより積極的に日本語訳されることを私は望んでいる》

この正直なものいいには、思わず笑ってしまった。文芸批評は、文学書の棚にはないのかもしれない。


7月

「ブラス・クーバスの死後の回想」(マシャード・ジ・アシス/著 光文社 2012)
ブラジル小説第2弾。まるでヴォネガットの小説みたいだと思った。その後、「天使と悪魔の物語」(風間賢二/編 筑摩書房 1995)という本をみていたら、マシャード・ジ・アシスの「悪魔の教会」という短編が収録されているのをみつけた。作品の冒頭に、簡単な作者紹介がついていたので引用してみよう。

《マシャード・デ・アシス(1839-1908) ブラジルの作家。ブラジルの近代小説の創始者。代表作に幽霊が語り手である「卑劣な勝者の墓碑銘」、その続編で、いかれた哲学者とその飼い犬が主人公の「キンカス・ボルバ」などの長編があるが、いずれも未訳。短編集も「精神科医、その他の物語」や、「悪魔の教会」があり、ロレンス・スターンやフロベールにも比較される奇想と精緻な文体をもったユーモラスな作風は、ボルヘスやコルタサル、あるいは、ジョン・バースなどに多大な影響を与えた。尚、本編は英語からの意訳である。》

この、「卑劣な勝者の墓碑銘」と紹介されている作品は、本書「ブラス・クーバスの死後の回想」のことだろう。「悪魔の教会」は、寓話的な、いかにもこの作者らしいと思わせるような一篇だった。マシャード・ジ・アシスの作品はほかに「ドン・カズムッホ」(マシャード・ジ・アシス/著 武田千香/訳 光文社 2014)が出版されている。買ったものの、まだ読んでいない。リオ・オリンピックがはじまるまでとっておこうか。

「迷宮の将軍」「ラッフルズ・ホームズの冒険」「キマイラ」
「迷宮の将軍」(G・ガルシア=マルケス/著 木村栄一/訳 新潮社 1991)
「ラッフルズ・ホームズの冒険」(J・K・バングズ/著 平山雄一/訳 論創社 2013)
「キマイラ」(ジョン・バース/著 国重純二/訳 新潮社 1980)
ことしはガルシア=マルケスが亡くなった。また秋に、「宰相の二番目の娘」(ロバート・F・ヤング/著 山田順子/訳 東京創元社 2014)という小説が出版され、この本も「キマイラ」に所収の、「ドニヤーザード姫物語」同様、シェヘラザードの妹に焦点を当てた物語のようだ。買ったものの、まだ読んでいない。


8月

「マルテの手記」(リルケ/著 松永美穂/訳 光文社 2014)
リルケのことを、「気病みの詩人」をいったのはだれだったか。

「霧の中の悪魔」(リアン=ガーフィールド/著 飯島淳秀(よしひで)/訳 講談社 1971)
この頃から児童文学ブームに突入。「限定相続」をあつかったところや、ひとをやけに不安にさせるサスペンスなど、イギリスの児童文学らしい作品だった。


9月

「ぼくのすてきな冒険旅行」(シド・フライシュマン/著 久保田輝男/訳 学習研究社 1970)
ほんとうにシド・フライシュマンは上手い。それから当時、学研で「少年少女学研文庫」のラインナップをつくったひとの、その識見の高さには脱帽する。

「火のくつと風のサンダル」(ウルズラ・ウェルフェル/作 関楠生/訳 童話館出版 1997
気持ちのいい一冊。


10月

翻訳味くらべ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(まとめ)に追加
ことし、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の新訳が、光文社と新潮社から出版された。そこで、以前「郵便配達」の訳文をくらべた記事に、新たに新訳の訳文を追加した。10月に記事を更新したときは、光文社の池田訳だけだったが、今回、新潮社田口訳もつけ加えた。しかしまあ、「郵便配達」ばかりが訳される。ケインの他の作品も翻訳されないだろうか。

「オタバリの少年探偵たち」(セシル・デイ・ルイス/作 瀬田貞二/訳 岩波書店 1957)
瀬田貞二訳は、古びてはいるけれど、まだ読むにたえる。さすがというべきだろう。


11月

「はるかなるアフガニスタン」(アンドリュー・クレメンツ/著 田中奈津子/訳 講談社 2012)
シド・フライシュマンも上手いが、アンドリュー・クレメンツもとんでもなく上手い。社会性があり、子どもたちが英雄的な行動をとらず、かつ面白い。途方もない完成度だ。

「木曜日はあそびの日」(ピエール・グリパリ/作 金川光夫/訳 岩波書店 1980)
短編集をとり上げるとき、収録作をすべて紹介するかどうか、いつも悩む。収録作すべての要約をつくっていたら時間がかかって仕方がない。しかし、今回はすべての作品を紹介してしまった。それだけ、作品に魅力があったということか。


12月

「月明のひとみ」(ジョセフィン・プール/著 美山二郎/訳 大日本図書 1976)
えたいの知れない作品だったなあ。


以上。
こうしてみると、ことしは児童文学ばかり読んでいたようだ。
児童文学の古典は、読んで落胆するということがまずない。
まだまだ読んでいない本がたくさんあるから、折をみて読んでいきたい。

ことしのはじめに書いた月に2回の更新は、なんとか守れた。
来年もこのペースでいきたいものだ。

読んだものの、とり上げなかった本もたくさんある。
その筆頭として、「翻訳問答」(片岡義男・鴻巣友季子/著 左右社 2014)を挙げておこう。
この本は対談集。
「高慢と偏見」「ロング・グッドバイ」「バナナフィッシュにうってつけの日」「赤毛のアン」「冷血」「嵐が丘」「アッシャー家の崩壊」
以上の作品の冒頭を、片岡さんと鴻巣さんがそれぞれ訳し、比較し、一語一句についてあれこれ語りあうというもの。

おふたりの翻訳は、タイトルからして思いがけないものになっている。
「高慢と偏見」は、「思い上がって決めつけて」(片岡訳)と、「結婚狂想曲」(鴻巣訳)。
訳文マニアのひとは、必見の一冊だ。

ことしの更新はこれが最後。
では、皆様よいお年を――。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

月明のひとみ

「月明のひとみ」(ジョセフィン・プール/著 美山二郎/訳 大日本図書 1976)

正体不明の本を紹介するのは不安だ。
すでに定評のある作品なら、それを支えとして自分なりの感想を書けばいい。
著名な作者なら、別の作品や前評判を引きあいにだせばいい。
でも、今回とりあげる本書の著者は、この一冊しか邦訳がないようだから、ほかの作品を引きあいにだすわけにもいかない。
というわけで、とりつくしまがない。

本書は英国の児童文学。
訳者あとがきによれば、作者のジョセフィン・プールは、1933年イギリスの生まれ。
読み進めてわかったのだが、この小説はホラー小説だった。
ホラー小説というのが極端なら、怖い小説といい直してもいい。
主人公である15歳の少女ケイトが、家に入りこんできた女性と対決するというのが、そのストーリーだ。

怖い小説は好きではないので、普段は絶対読まない。
ただの英国児童文学だと思って読みはじめたら、恐ろしい目にあった。

さて、ストーリーを追っていこう。
ケイトのお父さん、ポーレイ氏は画家。
お母さんは、弟のトーマスを生んだあと、亡くなってしまった。
ポーレイ氏は、ロンドンで展覧会を開いたこともあったが、いまは絵を描く情熱を失ってしまっている。
そこで、情熱をとりもどすために、旅行にでかけることに。

ケイトとトーマスは留守番。
お父さんの留守中は、近所のビアおばさんが毎日世話をしにきてくれることに。
このビアおばさんは、

「おばさんのからだの中にはおしゃべりすることが、ぎっしりつまっていて、ちょっとしたきっかけがあれば、よどみのない川のように流れでてくるのだった」

というタイプのひと。

弟のトーマスは5歳。
口をきかず、ひとりで何時間でもすわって切り紙細工をしたりする。
専門医にみてもらったが、口がきけなくなるような悪いところはどこにもないと診断された。

さて、留守番をはじめると、妙なことが次つぎと起こる。
庭の池にある、トーマスによく似た石像の台座に、落書きがされている。
その文句は、

「はじめに、われら待たん。
 つぎに、われら口笛を吹き、
 そして、われらとともに踊らん。」

というもの。

この作品は3章立て。
この文句がそれぞれの章の章題となっている。

それから、トーマスが、お父さんが絵を描いた本を一枚ちぎって暖炉で燃やしてしまう。
それは、鳥を口にくわえた黒い犬の絵だった。

その後、じっさい庭に大きな黒い犬があらわれる。
さらに、ローダという女性が登場。
ローダは、ケイトのおじいさんの2度目の奥さんの娘。
この奥さんも2度目の結婚だったので、ローダは連れ子だった。

ローダは、ポーレイの家では暮らさず、近所で家を借りていた。
結婚して1年あまり、生活がうまくいかなかったポーレイ夫人もこの家に越してきて、2人はじきいなくなった。

学校の帰り、ローダに会ったケイトは、自分の家に泊まるようローダを誘ってしまう――。
このあたりまでが、第1章だ。

さて、ローダを泊める部屋を掃除していたケイトは、壁紙の下に星のしるしをみつける。
この星と、黒い大きな犬とはなにか関係があるよう。

ローダがくると家のなかは不穏な雰囲気に。
ケイトはローダを誘ったことを後悔。
はじめてローダに会ったとき魔法にかけられていたのだと、ケイトは思う。
そしていま、ローダに魔法をかけられているのはトーマス。
ローダが叱らないので、トーマスはすっかりローダになついてしまった。

家は男の子が継ぐものだ。
だから、ローダはこの家をねらっているのだ。
と、これはビアおばさん。

ケイトがローダの部屋をのぞきみすると、ローダは魔法の書のようなものを読んでいる。
ひょっとすると、主人はあの黒い犬でローダはその手下なのではないか。
つぎ家のなかに入ってくるとしたら、それはあの黒い犬にちがいない。
そう考えて、ケイトはおびえる。

本書は3人称ケイト視点。
なにをみるのも聞くのも、ケイトを通してえがかれる。
そのため、すべての描写が意味をもっているように感じられ、不穏さをかもしだす。

ローダがきてから、ケイトの不安はつのっていく。
でも、具体的にローダとのあいだになにか起こったということはない。
にもかかわらず、ケイトは追いつめられる。
この、じわじわと不安が増していくえがきかたは見事なものだ。

また、本書は、最後まで読んでもローダがじっさい魔女だったかどうか判然としない。
そういう書きかたがされている。
ひょっとすると、すべてはケイトの妄想だったのではないかという読みかたが可能だ。
ここで思い出すのは、同じ英国の児童文学作家、ジョーン・G・ロビンソンによる、「くまのテディ・ロビンソン」「思い出のマーニー」
どの作品も、同じ趣向がとられている。

でも、本書の緊張感は、「マーニー」に勝るともおとらない。
こんなに緊張感をださなくてもいいのではないかと思うほど。

本書の後半は、侵入をこころみる黒い大きな犬と、それをふせごうとするケイトとのたたかい。
ケイト視点で書かれた本書中、1か所だけトーマス視点で書かれたところがある。
それは、ケイトがトーマスを連れて教会にいく場面。
日差しが教会の窓からさしこみ、姉の姿を照らすのをトーマスはみる。

最後に、大きな役割を果たすのはトーマス。
じつは、たたかいは、ケイトとローダのあいだではなく、トーマスとローダのあいだで起こっていたのではないかとケイトは悟る。

本書の訳文はとても読みにくい。
語尾が、「――だ」の単調なくり返しのため、読んでいても意味がよくのみこめない。
この点では、さきほど挙げた「マーニー」などとくらべると、格段に落ちる。
でも、本書をホラー小説だと考えれば、この訳文も効果的だといえるかも。
意味不明な文章は、それだけで読者を不安にさせるものだから。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )