2010年 ことしの一冊たち 下半期

7月

「マンハント」 1958年8月創刊号
「酔いどれ探偵街を行く」は全部読む前に図書館に返す日がきてしまった。けっきょく本屋で買ってきた。

図書館関係本2冊
「図書館 この素晴らしき世界」(藤野幸雄 勉誠出版 2008)
「図書館ラクダがやってくる」(マーグリート・ルアーズ さ・え・ら書房 2010)
「図書館 この素晴らしき世界」はまだ手に入れてない。あと、ことしもう一冊とり上げようと思い、できなかった図書館本がある。
「図書館 愛書家の楽園」(アルベルト・マングェル 白水社 2008)。
この本は図書館というより、愛書家、あるいは大量の蔵書についての本。著者は博覧強記で、おびただしい逸話が語られるのだけれど、それが引用というより、召喚といいたくなるような文章で記されている。とても魅力的なのだけれど、メモをとるのにこんなにむつかしい本もなく、けっきょくとり上げるのをあきらめた。図版もたくさんあり、書物や蔵書や読書について興味のあるひとには、ぜひ薦めたい。

「小説のために」(コリン・ウィルソン 紀伊国屋書店 1977)
ことしは文学史ブームも起きた。「ミメーシス」にとり上げられた作品のリストもつくりたいと思っていたのだけれど、できなかった。

「ボローニャ紀行」(井上ひさし 文芸春秋 2008)
井上ひさしさんが亡くなられたので、とりあえずこの本を読んでみた。

井上ひさしさんの講演を聴いた話
一度だけ、井上ひさしさんの講演を聞いたことがある。それについてのメモ。


8月

「機械探偵クリク・ロボット」(カミ 早川書房 2010)
売れたのかなあ。

「世界文学全集 37」(集英社 1966)
この本はお買い得だった。ジーヴスの短篇タイトルについて、「あとでしらべておこう」なんていって、まだ調べていない…。

「黄金の仔牛」(イリフ、ペトロフ 東京創元社 1957)
「十二の椅子」に負けていないと思うが、どうか。

「マレーシアの冒険」(ジャン・エシュノーズ 集英社 1996)
このあたりから、フランス小説ブームに突入。


9月

「愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える」(マンシェット 光文社 2009)
マンシェットは素晴らしかった。

「法王庁の抜穴」(アンドレ・ジッド 新潮社 1952)
こんな小説だったとは。

この30年で日本の読書環境は激変した
・雑誌「現代の図書館」(48巻1号 通巻193号)に掲載された、永江朗さんによる記事についてのメモ。

「彼方」(ユイスマンス 東京創元社 1975)
ユイスマンスもはじめて読んだ。不思議な小説だった。


10月

「クレランバール」(マルセル・エーメ 白水社 1956)
戯曲のほうが、エーメはとっつきやすいかもしれない。問題は、そもそも戯曲を読むことがとっつきやすいかどうかだけれど。


11月

神田古本祭りにいった話2010
「ドガに就て」(ヴァレリィ 筑摩書房 1977)はとても面白かった。

「老教授ゴハルの犯罪」(アルベール・コスリー 水声社 2008)
なんだって、こういう小説を読んでいるのか。われながら不思議だ。

橋の上から身を投げようとしているひとを止める話
「幸福論」(アラン 集英社文庫 1993)におさめられた清水徹さんの文章によれば、「橋のうえで若い娘が身投げしようとしていた。ひとりの哲学者が通りかかって、スカートを摑んで娘をひきとめる。そのあと、この二人はどのような対話をかわしたか?」というテーマで、アランは生徒に論文を書かせたそう。その一番短い論文がマルローのものだったとまでは、この文章には書いていなかった。

「書棚と平台」(柴野京子 弘文堂 2009)
「本は、これから」(池澤夏樹/編 岩波新書 2010)という、いろんなひとたちが「本」についての考えを記した本が最近でた。この本にも柴野さんの文章が収められていて、この文章は理解できた気がする。

図書館は出版営業を妨げているか
・雑誌「出版ニュース」(2010年8月中旬号)に掲載された記事についてのメモ。


12月

「いと低きもの」(クリスティアン・ボバン 平凡社 1995)
なんとなく、フランス小説は時空間を無視する傾向があるように思う。

「OPUS(オーパス)」上下巻(今敏 徳間書店 2010)
このマンガは連載当時、ほんとうに楽しみにしていた。作者が亡くなったおかげで読めるようになったのは皮肉な話だ。

ことしメモをとった本は以上。
ブログではとり上げなかったけれど、こんなフランス小説も読んだ。

「コーヒーの水」(ラファエル・コンフィアン 紀伊国屋書店 1999)
作者はカリブ海マルティニック島のひと。それまでクレオール語で書いていたが、フランス語でもクレオールの現実は表現できると考え本書を執筆したそう。内容は、多彩なエピソードが語られるけれど、全体としては判然としないというもの。判然としないのは、時間順に書かれていないから。時間順に書かないのは、入植者がくるまで、もともと島には歴史がなかったということを反映させたからだそう。でも、これだと読者に負担を強いるのではないかと思った。「百年の孤独」が時間順に書かれていなかったら、あれほど受け入れられたかどうか。

これは余談だけれど、たしか橋本治さんが「百年の孤独」の感想で、「田舎では不思議なことが起こるに決まっている」といった意味のことを書いていたのを思い出した。一刀両断とはこのことだと、読んだとき思ったものだった。

さて。
後半は忙しさのせいもあって、ほとんど更新できなかった。
記事自体も長大化の傾向をみせていて、更新の妨げにひと役買っている。

もう少し軽く書いて、頻繁に更新するべきか。
でも、あっさり書くと、本の内容がまったく思い出せなくて、メモをとったかいがなくなってしまうし。
このブログも長くなってきたので、とり上げた本の索引をつくったりしたいのだけれど。
とまあ、いろいろ悩ましいことがあるのだけれど、今後の課題ということに。

ことしの更新はこれが最後。
なにかの縁で読んでくださったかたは、どうもありがとうございます。
来年も折をみて更新していきたいと思います。
では、皆様、よいお年を。


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2010年 ことしの一冊たち 上半期

例年通り、ことし読んだ本、書いた記事についてまとめたい。

1月

「盗まれた美女」(ジョナサン・ラティマー 新樹社新社 1950)
この本は、訳文が古めかしくて面白かった。ストーリーももちろん面白く、このあと同じ作者の「処刑6日前」(東京創元社 1981)を手に入れたのだけれど、例によってまだ読んでいない。

月刊「たくさんのふしぎ」2010年2月号についてのメモ
これは、月刊「たくさんのふしぎ」2010年2月号『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』に、喫煙シーンが頻繁にえがかれていると指摘がなされたことについてのメモ。
この作品は、修整がほどこされ、「カラクリ江戸あんない」(太田大輔 福音館書店 2010)として、最近出版された。おじいちゃんはもうタバコをやめたようだ。

「年刊推理小説・ベスト20 1962年版」(荒地出版社 1961)
いま記事を読み直してみたら、「安全殺人」(ケネス・ムーア)のオチがまるで思い出せない。うーん、気になる。

「馬鹿★テキサス」(ベン・レーダー 早川書房 2004)
思うに、面白い作品よりも、面白くなりそうでならない作品のほうが、なにかいいたくなるものかもしれない。最近読んだ本では「暗黒太陽の浮気娘」(シャリーン・マクラム 早川書房 1989)がそうだった。タイトルは素晴らしいんだけどなあ。

「人文会ニュース 2009年5月号」(通巻105 人文会 2009)
20の出版社から成る「人文会」というあつまりがあって、この冊子は「人文会創立40周年記念東京合同研修会」についてまとめられた特集号。出版流通に興味のあるひとは読むと面白いのではないかと思う。


2月

「人文会ニュース 2009年5月号」〈承前〉
現在、こういう話し合いをしたら、電子書籍の話ばっかりになるかも。

母と子の20分間読書
椋鳩十さんが鹿児島県立図書館の館長をつとめたとは知らなかった。

「ヘンリー・ソローの日々」(ウォルター・ハーディング 日本経済評論社 2005)
ことしはなぜだかソロー・ブームがやってきた。そのきっかけはこの本。最近「アメリカ・ルネッサンスの作家たち」(酒本雅之 岩波新書 1977)を読んでいたら、巻末の参考文献にこの本が載っていた。参考文献に挙げられている本をあらかじめ読んでいると、なんだか得意な気分になる。そうだ、「大理石の牧神 上下」(ホーソン 国書刊行会 1984)も手元にあるんだった。読まないと。

「アップルビィの事件簿」(マイケル・イネス 勉誠社 1996)
訳は森一。追記に記したけど、あとで深町眞理子訳をみてみたら、森さんの指摘どおりに訳されていて驚いた。


3月

「ルコック探偵」(E・ガボリオ 旺文社 1979)
面白かったなあ。

雑誌「外交フォーラム」とか
政権交代の影響がこんなところにと思いメモ。9月に外務省は「外交」という雑誌を発行した。編集は「外交」編集委員会。企画・製作・発売は時事通信社。これで仕分けをした意味はあるのだろうか。

ディキンスンとかソローとか
これは、エミリ・ディキンスンとソローについての記事。エミリはソローと似たようなことをしたのではないかという、「対訳 デイキンソン詩集」の指摘に感銘を受けて書いた。なんだか自由研究でもしているような気分になった。

「だから人は本を読む」(福原義春 東洋経済新聞社 2009)
出版社、編集者、書店、図書館などについての問題点を指摘しているところが面白くてメモ。多くのひとが妥当と思う意見はこのあたりだろうか。

「ドイツ幻想小説傑作選」(今泉文子/編訳 筑摩書房 2010)
ドイツ・ロマン派はなんとなく気になる。このあと、「七つの伝説」(ケラー 岩波文庫)を読んだら、これがとても面白くて、ケラーが好きになった。メモをとろうと思っていたんだけどなあ。

「一枚の絵から」〈日本編・海外編〉
これも面白かった。著者の、描写力、論理力の粘り強さには感銘を受けた。それでいて、楽しそうに書かれているのだからスゴイ。


4月

最近読んだ本
「事実と創作」(桑原武夫 講談社 1978)を読んで、「通俗三国志」を手に入れ、夢中で読みはじめた。が、孔明がでてきてからつまらなくなってしまい、現在ストップ中。孔明のすることはなんでも成功するからなあ。

ケンリック3冊
トニー・ケンリックの本を3冊とりあげた。
 ・「俺たちには今日がある」(トニー・ケンリック 角川文庫 1985)
 ・「三人のイカれる男」(トニー・ケンリック 角川文庫 1987)
 ・「バーニーよ銃をとれ」(トニー・ケンリック 角川文庫 1982)
このあと、「殺人はリビエラで」(角川文庫 1976)を読んだ。2人組のコメディアンが殺人に巻きこまれるというストーリー。ケンリック作品のなかではちょっと落ちる。えーと、ケンリック作品で、あと読んでないのはなんだろう。

ロバート・ブロック3冊
 ・「トワイライトゾーン」(安達昭雄/訳 角川文庫 1983)
 ・「楽しい悪夢」(仁賀克雄/編 早川文庫 1975)
 ・「血は冷たく流れる」(小笠原豊樹/訳 早川書房 1976)
せっかくこうしてメモまでとったのに、オチをおぼえていないのが情けない。「ブロックはオチの作家だ」なんて書いているくせに。

「賞をとった子どもの本」(ルース・アレン/著 こだまともこ/監訳 熊谷淳子/訳 本間裕子/訳 玉川大学出版部 2009)
何度もいうけれど、素晴らしい本だ。


5月

「天来の美酒/消えちゃった」(コッパード 光文社 2009)
コッパードは楽しい。もっと紹介されないかなあ。

翻訳味くらべ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(まとめ)
訳文をくらべる「翻訳味くらべ」の記事。

「ブックオフという妖怪が徘徊している」
雑誌「新潮45」(2010年1月号)に載った記事についてのメモ。ブックオフでみかけた転売目的で本を買いこむひとのことを「セドラー」というのだと、あとで知った。一度、店内にセドラーのひとたちしかいないことがあって、これには驚いた。

翻訳味くらべ「シャーロットのおくりもの」
翻訳味くらべ「シャーロットのおくりもの」(承前)
「シャーロットのおくりもの」の訳文にかんする記事。それにしても、しだ子といのきちにはびっくりしたなあ。


6月

「マイホーム」(カリ・ホタカイネン 新評論 2004)
これはフィンランドの小説。面白かった。できればもっと、いろんな国の小説が読みたいという気持ちがある。誇大妄想だけれど。

「びんの悪魔」(R・L・スティーブンソン 福音館書店 2010)
スティーブンソンの短篇が1冊の児童書になった。それについての記事。

「虹をつかむ男」(サーバー 早川書房 1962)
「空中ブランコに乗る中年男」(講談社文庫 1987)についてもメモをとった。

ヴォネガット、ヘルボーイ、オーパ!直接原稿版
 ・「デッドアイ・ディック」(カート・ヴォネガット 早川書房 1984)
 ・「小森陽一、ニホン語に出会う」(小森陽一 大修館書店 2000)
 ・「ヘルボーイ:百鬼夜行」(マイク・ミニョーラ ジャイブ 2010)
 ・「ヘルボーイ:闇が呼ぶ」(ジャイブ 2008)
 ・「オーパ! 直筆原稿版」(開高健 集英社 2010)
けっきょく「夏の闇」の直筆原稿版は買わなかった。「新しい天体」の直筆原稿版がでたら欲しいけれど、まずないだろうなあ。



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同じ本を2冊買ってしまう話

今年も押し迫ってきたので、本の整理をはじめた。
すると、やっぱりというか、同じ本を2冊買っていたのを発見。

「恐怖」(コーネル・ウーリッチ 早川文庫 1982)
「妻を殺したかった男」(パトリシア・ハイスミス 河出文庫 1991)

なんで、この本を2冊もっているのか…。
よくわからない。
とりあえず、きれいなほうをとっておこう。

そういえば、こないだ「古城ホテル」(ジェニファー・イーガン ランダムハウス講談社 2008)も2冊目を買ってしまった。
たまたま、よった古本屋でセールをしていて、とにかくなにか買わなければいけないという気になり、つかんだのがこれだった。
で、家に帰り、椅子に腰かけて買ってきた「古城ホテル」を手にとると、瞬間、ひらめくように部屋のある場所を思い出した。
突然、そこがピカリと光ったよう。
いってみると、案の定、以前買った「古城ホテル」が鎮座していた。

というわけで、本のことはかなり「置き場所」でおぼえているのだと思う。
以前、図書館で、「なぜ勝手に置き場所を変えたのか」と図書館員に食ってかかっているおじいちゃんをみかけたことがあるけれど、気持ちはよくわかる。
本屋にしても、新装開店などされると、大迷惑だ。

でも、そもそも同じ本を2冊買ってしまうのは、その本を読んでいなかったという理由が大きい。
思えば、「恐怖」も「妻を殺したかった男」も「古城ホテル」も読んでいなかった。
読んでいれば、2冊目を買うことはなかったろう(と思いたい)。

「古城ホテル」もきれいなほうをとっておく。
それにしても、この本を2冊もつているひとなんて、ほかにいるだろうか?



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山田風太郎による司馬遼太郎評

――山田風太郎は、司馬遼太郎のことをどう見ていたのか。

と、いうことがなんとなく気になっていた。
先日、「風山房風呂焚き唄」(山田風太郎 筑摩書房 2008)というエッセイ集をぱらぱらやっていたら、「挫折した人間としてとらえる」という、司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」(講談社文庫)についての書評が収録されているのをみつけた。

「徳川初期の、五人の豪傑の物語り。むろん作者は、この豪傑たちの講談的武勇伝を避けて、それぞれ豪傑にはちがいないが、彼らを挫折した人間と見て描いている」

「この時代の武将を、のちの儒教道徳の眼鏡を通して見ることの、誤っていることはいうまでもないが、さればとて現代の作者が顔を出すと、海音寺潮五郎氏の「ぼくはこう見る」式の史伝となる。作者はそれを避けて、同時代の人間に、彼らの人間像を語らせる手法をとっている」

「作風には凛呼としたものがあり、清爽なものがある。ただ対象が豪傑であるためか、やや大ざっぱなところがないでもない」

作品の内容から、手法、その作風まで、勘所を押さえて間然とするところがない。
さらに、「作家を何々派と動植物的に分類するのは私はきらいだが」と、前置きしてこうもいっている。

「時代小説を推理小説式に、大ざっぱに本格派と変格派にわけると、この作者は、やはりオーソドックスな本格派に属する人のように思われる」

どう見ていたのかという疑問は、「よく見ていた」と答えるほかない。
この書評が書かれたのが1962年というのも驚く。
並なみならぬ眼力だ。

ついでながら、この本には「露伴随筆」(岩波書店 1983)についてのエッセイも収録されている。
現代露伴を読むひとはそうたくさんはあるまい、それは読めるひとがいないからだと嘆息して、こう続けている。

「作品は歳月の間に淘汰されて、いいものだけが残るというのは真実ではない。淘汰されて悪貨ばかり残るのは、作品だけでなく、読者もまた然りなのである」

ミもフタもない。
あんまりミもフタもないので、思わず笑ってしまった。
あんまりものが見えるひとは、ミもフタもなくなってしまうのかもしれないなあ。

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OPUS(オーパス)

「OPUS(オーパス)」上下巻(今敏 徳間書店 2010)

「OPUS」の単行本がでた!。
こんなことがあろうとは考えもしなかった。
ほんとうに、びっくりだ。

「OPUS」は、昔、学習研究社がだしていた青年向け漫画雑誌「コミック・ガイズ」に連載されていたマンガだ。
単行本に記載されていた情報によれば、1995年10月号から1996年6月号まで連載されていたよう。

ちなみに、「コミック・ガイズ」の発行は隔週だったはず(いま国会図書館でしらべてみたら月2回の発刊だった)。
たしか、新谷かおるの「烈風伝」が連載されていたと思う。
あと、武林武士の連載もあったような。

いままで単行本が出版されていなかったので、「OPUS」がどんなに面白いマンガなのか説明しても、実物を読んでもらうということができなかった。
それに、「あのマンガ面白かったね」というひとにも会ったことがない。
でも、これでようやくひとに勧められる。
嬉しくてならない。

さて、「OPUS」のストーリーを簡単に説明しよう。
ひとことでいうと、このマンガはメタフィクション・マンガだ。

主人公は、雑誌「ヤングガード」に「RESONANCE(レゾナンス)」というマンガを連載中の漫画家、永井力(ながい・ちから)。
「レゾナンス」は、超能力者が仮面と呼ばれる新興宗教の教祖とたたかうというストーリー。
現在、第3部の佳境に突入している。
ちょうど、超能力者の少年リンが、仮面と相討ちになるという、壮絶なクライマックスを迎えようとしているところ。

というわけで、マンガを完成させるべく、永井が深夜せっせと仕事をしていると、どこからか声が。
さらに、目の前にあったはずの、相討ちシーンの原稿が消えている。
代わりに原稿には穴が開いていて、奥に相討ちシーンの原稿を手にしたリンが。
「こいつはオレが貰っていくからな! バカヤロオ!!」
そして、永井は原稿に吸いこまれ、ヒロインのサトコが仮面と争っているその渦中に落下して――。

さきほどもいったけれど、「OPUS」は、漫画家が自分が描いているマンガのなかに入ってしまうという、メタフィクション・マンガだ。
よくある話じゃないかと思われるかもしれないけれど、これがもうとんでもなく面白い。

まず、作者の今敏さんは、べらぼうに絵がうまい。
ただうまいだけではなく、アイデアを絵でみせることに長けている。
メタフィクションを描く上でのさまざまなアイデアを、素晴らしいイメージでみせてくれる。

それから、ストーリー展開が素晴らしい。
メタフィクションものは煮詰まりやすいものだと思うけれど、毎回毎回新しい展開がある。
このあと、リンは自分が死ぬのを避けるために、若き日の仮面を倒しに第1部へいく。
が、そんなことをされると作品世界が崩壊するし、なによりリンは、若き日の仮面によって殺された男が転生した登場人物なのだから、リン自身が消滅してしまう。
そこで、永井とサトコ、それにリンの妹メイは、リンを止めようと奔走。
さらに、自分がただのマンガの登場人物だと知った仮面は、永井に代わって世界を支配しようとする――。

本編のストーリーもスリリングなら、本編に侵入した永井たちのストーリーもスリリング。
サスペンスにサスペンスがかさなった展開と、それを淀みなく語るストーリーテリングの冴えには、心底ほれぼれさせられる。

それから、ところどころにあるユーモラスな味わいもいい。
メタフィクションというのは、全体がバカバカしくはあるのだけれど、そのことを効果的にみせている。
ひとつ例をあげると、自分がつくった登場人物にことごとく反抗された永井は思わずこう口走る。

「何だよ!? オレが何したってんだよ!! どうして皆逆らうかなァッ!! オレが作ったキャラなのに!!」

すると、リンとメイの親代わりであるらしい、とある老婆がこうツッコむ。

「そんな考えだからさ」

でも、ストーリーが進むにつれ、登場人物と真摯に向きあうようになった永井は「そんな考え」を徐々に改めていく。
その姿は感動的。
ひととひととが向きあうことは、たとえそれが作中人物であっても感動を呼ぶのだ。

ところで、「OPUS」は未完で終わっている。
連載していた「コミック・ガイズ」が休刊してしまったからだ。
ある日、「コミック・ガイズ」を開いたら、あらゆる連載マンガのページ下に「この続きは単行本で!」とかなんとか書かれていて、まさかと思ったらそれが休刊号だった。
これには呆然とした。
だから,新谷かおるの「烈風伝」を続けていればよかったのになどと思ったものだった。

「OPUS」には、現実世界にもどってきた永井が、編集長に打ち切りをほのめかされるシーンがある。
けれど、よもや雑誌が休刊して連載が終わるとは、まったく思いもしなかった。

この後、作者の今敏さんは、アニメーションの監督となり、「パーフェクトブルー」「千年女優」「東京ゴッドファーザーズ」「パブリカ」などの傑作、力作、意欲作を残す。
タイミングとしては、休刊はよかったのかもしれない。

(今監督のアニメ作品を全部みてはいないけれど、一番好きなのは「東京ゴッドファーザーズ」だ。今さんはアニメでも、メタフィクション的な作品をつくっていて、どれもこれもややこしい。でも、「東京ゴッドファーザーズ」はややこしくなくて楽しめた)

ところが、今年、今敏さんは急逝されてしまった。
まだ40代だというから、なんとも惜しい。
そして、作者が亡くなったために、「OPUS」は刊行されることになったのだから、このメタフィクション・マンガの運命はずいぶんと不思議なものだ。

今回の単行本には、あるていどペンやベタが入った、幻の最終回が収録されている。
でも、この最終回は、休刊が決まってから帳尻合わせに描いた感じが否めない。
できれば、連載を続けてきちんと終わらせてほしかったなあとつくづく思う。

単行本の「OPUS」を読んでいたら、連載当時のことを思いだした。
「コミック・ガイズ」を読んでいた部屋の様子や、どんなに次の回を心待ちにしていたかということを思い出した。
当時のあらゆる連載マンガのうち、「OPUS」を一番楽しみにしていた時期が自分にはあったのだということを思い出した。

ご冥福を――。

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いと低きもの

「いと低きもの」(クリスティアン・ボバン 平凡社 1995)

訳は中条省平。
副題は、「小説・聖フランチェスコの生涯」。

本書もまたフランスの小説。
副題どおり、聖フランチェスコについて書かれたもの。
でも、通常イメージする歴史小説とはぜんぜんちがう。
読んでいて、これこそフランスの小説だと思った。

では、どこがフランスの小説っぽいのか。
その前に、ストーリーを説明しよう。

1182年秋、イタリアのアッシジでフランチェスコは生まれた。
父の名は、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ。
布地と毛織物の商人。
母親はピカの奥方と呼ばれる、プロヴァンス地方出身の女性。
作者は、ピカの奥方がプロヴァンス地方出身であることを重くみる。
当時、プロヴァンスには宮廷風恋愛があらわれていた。
母を通して、宮廷風恋愛のなにがしかがフランチェスコにつたわったのではないか。

父が不在のおり生まれたフランチェスコは、最初母からジョヴァンニという名前をあたえられる。
が、帰宅した父により、名をフランチェスコに。

父親と同じ背丈になったフランチェスコは、父の商売を助けた。
生まれつき商才があり、生地の柔らかな手ざわりを自慢するのに1万もの言葉をもっていた。
明るい目、広い肩、娘のような白い手の美男。
店に入る金を賭け事でつかい果たし、友人たちがきては去り、娘たちがきては去った。

ペルージアとアッシジの2つの共和国のあいだに戦争が起こり、騎士道の栄光を夢みてきたフランチェスコは戦場におもむく。
1202年、捕虜になり、1203年に解放。
1204年、病の床につく。

1205年春、ふたたび戦争が起こる。
フランチェスコはまたもや出発するが、スポレートの街から引き返す。
放蕩生活のあと、放浪をし、癩病施療院において“いと低きもの”がどこに宿るかを知る。

そして、父親から訴訟を起こされる。
フランチェスコが司祭たちにあたえた店の金の返却と、財産の相続を禁じるため。
裁判ののち、フランチェスコは森へいき、シダと木の枝で建てた小屋に住みはじめる――。

以上が、この本から拾い上げたフランチェスコの前半生。
よく知られた話だ。
その後のフランチェスコの人生についても、本書では触れられているのだけれど、これについては省略。

で、こんな風に紹介しても、この小説について語ったことにはまったくならない。
本書は、通常の歴史小説とはちがう。
先にもいったとおり、いかにもフランス風の小説なのだ。
では、フランス風の小説とはなんなのか。

まず、時空間に無頓着。
本書は、フランチェスコの生涯について書かれたものだけれど、当時の風俗を再現しようなどとは、これっぽっちも思ってはいない。
一応、フランチェスコの生涯は順番どおりに語られるけれど、ある空間のなかで、ある行為が時間順に語られるということがない。
つまり、「場面」というものがない。
この「場面」のなさは、英米小説とくらべた、フランス小説の特徴だろうと勝手に思っている。

(だしぬけだけれど、劇でいう「三一致の法則」ということをいいだしたのも、この「場面」のなさと関係があるんじゃないだろうか。「場面」をつくる能力がなければ、「場面」はひとつしかつくれないだろうから)

というわけで、この小説は「場面」、つまり物語の空間をつくらない。
登場人物は、立ったり、すわったり、言葉をかけあったりしない。
では、どうやって話を進めるのか。
エセーの文体を用いて話を進める。
エセーの文体であれば、時空間は止まったままでいい。
読者は、登場人物の行為よりも、作者の声を大きく聞く。

エセーの文体は、作者の考えていることへ、読者を直接みちびく文体だ。
物語空間でおこる、劇的な臨場感は、エセーの文体のもとでは起こらない。
その代わり、あちこちで閃光を発しているような、断言調の、詩的な言葉のつらなりが、緊張感を持続させる。
そのスピード感にあふれた魅力的な文章は、たとえばこんな風。

「その女性は美しい。いや、美しいどころではない。暁のかぎりなくやさしい輝きのなかにある生命そのものだ。あなたは彼女を知らない。だが、たった一枚の肖像画さえ見たことがないにもかかわらず、明らかな事実がそこにある。彼女の明らかな美しさであり、彼女が揺りかごに身をかがめ、幼いアッシジのフランチェスコに息吹きに耳を傾けるとき、その肩に落ちかかる光である」

「幼子はまだフランチェスコとは呼ばれず、ひと抱えの皺ばんだ薔薇色の肉にすぎず、仔猫よりも、潅木よりも裸の、人間のかけらにすぎない。この子供の裸体をおおうため、彼女はみずからの愛を脱ぎさる。その愛ゆえに、彼女は美しい」

この文章の緊張感は、最後まで維持される。
大変な膂力だ。

ところで、訳者あとがきによれば、タイトルの「いと低きもの」というのは、神をあらわす「いと高きもの/至高者」の反語として、作者がつくったことばとのこと。
そのことばどおり、女子どもや貧者や病者など、「いと低きもの」とともにいるフランチェスコを、作者は喜ばしく描きだす。

フランス小説の特徴はこういうものだろうと思っていたら、そのイメージどおりの実物があらわれた。
予想ははずれてはいなかったという気がして、なかなか嬉しい。
つぎに思うのは、こういう詩的な文体をつかいながら、なおかつ「場面」もちゃんとある小説はないだろうかということ。
べつにフランスの小説でなくてもいいので、そんな小説があったら読んでみたいものだ。

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