神田古本祭りにいった話

ちょっとまえのことだけれど、神田古本祭りにでかけた。
古本祭りでは、いつも露店で売っているカレーと紅茶が目当てだ。
これが美味しい。
今回、本をみていたら紅茶を飲み損ねた。
深く反省している。

古本祭りにいくときは、こんな本があったら買おうと軽くきめていく。
今回は「心地よく秘密めいたところ」(ピーター・S・ビーグル 山崎淳訳 月刊ペン社 1976)の下巻。
この本、上巻だけ手元にある。
以前、一巻本だと勘違いして買ったら、それが上巻だった。
月刊ペン社の妖精文庫の本は、手放すのも惜しい気がする。
下巻があったら、少々高くても購入しようと思っていたのだけれど、けっきょくみつからなかった。

今回はみつけられなかったけれど、神田の古本街はさすがに本がよくみつかる。
ただし、それなりに値が張るのが難。
いつも賞味期限が切れかかった本ばかり読むのは、なにより安いからだけれど、その有難味がここではなかなか味わえない。

とはいうものの、なんとなくだけれど、この有難味が以前より増してきたきがする。
ネットで手軽に古本がさがせる昨今、古本街の性格もすこし変わってきつつあるのかも。
ネットをつかえば、味気ないほど簡単に本がみつかるし。

古本祭りでは、古本屋だけでなく、出版社も自社の本を割り引いて販売している。
創元推理社の露店のまえを通ったら、文字通り黒山のひとだかりで、アリの入るすきまもなかった。
いったいなんだったんだろう。

2時間ほど大急ぎでみてまわり、何冊か購入。
「世界のかなたの森」(ウィリアム・モリス 晶文社 1979)をみつけたのが嬉しかった。
買ったんだからちゃんと読むんだぞと、自分にいいきかせる。

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ボッコちゃん おーい でてこーい

「ボッコちゃん おーい でてこーい」(星新一 新潮社 1996)

今回のたら本のテーマ、「夢見る機械」でまず思いついた作品は、じつは星新一の「ボッコちゃん」だった。

本がみつからなくて、ブログに書かなかったのだけれど、先日、本棚から発見。
新潮社pico文庫の絵も描きたくて、今回載せた次第。
収録作は以下。

「悪魔」
「ボッコちゃん」
「おーい でてこーい」
「約束」
「生活維持省」
「ねらわれた星」
「誘拐」
「マネー・エイジ」
「闇の眼」
「妖精」
「プレゼント」
「なぞめいた女」
「診断」
「欲望の城」
「白い記憶」

みんな、新潮文庫版の「ボッコちゃん」に収録されているらしい。
今回再読してみたら、「悪魔」「ボッコちゃん」「おーい でてこーい」が面白いのは当然として、「妖精」も皮肉が効いていて面白かった。
あと、ばかばかしくも切れ味に富んだ「ねらわれた星」も。

新潮社pico文庫は、廉価な文庫としてコンビニなどで売られたものだと記憶している。
カバーはなく、奥付は裏表紙に。
この本は全94ページ。
定価150円。

ほかのラインナップとして、森鴎外や芥川龍之介の作品があったような気がするけれど、記憶があやふやだ。

よほど売れなかったのか、一瞬で店頭から消えたようなおぼえがある。


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エミリ・ディキンスン家のネズミ

「エミリ・ディキンスン家のネズミ」(エリザベス・スパイアーズ みすず書房)

絵は、クレア・A・ニヴォラ。
訳は長田弘。

絵がたくさんある、小振りの本。
はしばしにまで気持ちがいきとどいた感じの絵がよく、絵と文章のバランスがよく、涼しげな訳文がいい。

冒頭はこう。
「わたしはネズミ。名はエマライン。白ネズミです」
突然、耳にネズミの声が聞こえてくるような思いがする。

ストーリーは、エミリ・ディキンスン家にやってきた白ネズミのエマラインが、詩を通じてエミリと心をかよわせるというもの。
エマラインは、エミリの書いた詩に自分の思いをみつけ、自分でも詩作をこころみる。
大きな羽根ペンをもって机にむかう、エマラインの絵が可愛らしい。

この、ネズミを主人公にもってきたところがうまいと思った。
エミリは変わったひとだったから、これが人間だったら生なましくなってしまったかも。

エミリ・ディキンスンは、アメリカの実在した詩人。
1830年に生まれ、1886年に亡くなった。
成人してからは、家からでず、客にもほとんど会わずにすごしたそう。

とはいえ、ひとと交流を断っていたわけではない。
たくさん手紙を書いた。
また、この本にもそういう場面があるけれど、ジンジャーブレッドを焼き、それをヒモでつないだバスケットに入れ、窓から近所の子どもたちにあげたりしていた。

生涯に書いた詩は、1789篇。
でも、エミリの詩は破格だったので、生前に発表できたのはほんのわずかだった。
姉の死後、妹のラヴィニアが大量の詩稿をみつけ、家族と親しかったメイブル・トッド夫人の協力を得て、1890年に最初の詩集が出版されたという。

手元に「エミリの窓から」(武田雅子編訳 蜂書房 1988)という詩集があって、それをみると、鉛筆に巻いた紙に書かれた語句までが収録されている。
これもやっぱり、妹のラヴィニアさんがみつけたのだろうか。

「エミリ・ディキンスン家のネズミ」は、エミリの詩が12篇編まれた小詩集ともなっている。
「エミリの窓から」とかぶっている詩があるので、ちょっと訳文をくらべてみたい。

エミリの詩にはタイトルがなく、その詩は、初行と(ジョンスンによる)作品番号で示されるそう。
249番を、それぞれ一連だけ引用する。
まずは、「エミリ・ディキンスン家のネズミ」から。

「あらしの夜――あらしの夜!
 あなたといっしょにいられるなら、
 あらしの夜こそ、
 すばらしい夜!」

つぎは「エミリの窓から」。

「嵐の夜 嵐の夜
 あなたと一緒なら
 嵐の夜も
 二人の法悦!」

ほかにもないかなとさがしたら、「英詩のわかり方」(阿部公彦 研究社 2007)という本に、かぶっている詩をみつけた。
1763番。
名声についての、警句のような詩。
今回は全部引用。
まずは「エミリ・ディキンスン家のネズミ」。

「名声は、蜂だ。
  蜂は歌う――
 蜂は刺す――
  そう、それに、蜂は飛び去る。」

つぎは、「英詩のわかり方」の訳から。

「名声とは蜂
  歌をうたうし
 針があるし
  ああ それに 羽根もあるし」

「英詩のわかり方」には原文も載っていた。

”Fame is a bee
  it has a song――
 it has a sting――
  Ah,too,it has a wing.”

ある一定の枠に収まりつつ、でもそれぞれがちがっている訳詩をながめるのは、興味がつきないことだ。

「エミリ・ディキンスン家のネズミ」には、実際あったエピソードが織りこまれていて、エミリが編集者のヒギンスンさんと会うところもそのひとつ。
「エミリの窓から」には、エミリが自作の批評をしてほしいと、ヒギンスンさんにだした手紙が載っている。
その真率さには、なにか打たれるものがあるので、最後にメモを。

「お忙しいとは存じますが、私の詩が生きているかどうか教えていただけないでしょうか?」


=追記=

「対訳ディキンソン刺繍」(亀井俊介編訳 岩波文庫 1998)を読んだら、249番「嵐の夜」についての訳があった。

「嵐の夜――嵐の夜!
あなたとともにいられれば
嵐の夜も
豪奢のきわみ!」

この本には原文もついている。

”Wild Night――Wild Night!
Were I with thee
Wild Night should be
Our luxury!”

注釈によれば、2行目のtheeを「神」ととり、この詩を宗教的な思いの表現と解釈する説もあるそう。
「エミリの窓から」で、「二人の法悦!」と訳されているのは、この解釈が反映しているのかもしれない。

「対訳ディキンソン詩集」にはいきとどいた「まえがき」がついているのがうれしい。
これによると、エミリが生まれたマサチューセッツ州アマストは保守的な土地柄で、ピューリタニズムの伝統が色濃く残った地域だったそう。
進行復興運動というのが何度もおこなわれ、ひとびとに信仰告白を要求し、家族も友人たちもおこなったけれど、エミリにはどうしてもそれができなかったという。

少女時代のこの試練が、エミリの精神を強靭にし、その生き方を決定づけたのではないかと編訳者の亀井さんは推察している。
「それは、ひとことでいえば、自己の内面の真実をつかみ、その自由を探る生き方であった」

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たらいまわし本のTB企画

たらいまわし本のTB企画
通称「たら本」。

主催者がテーマを提示し、そのテーマに沿った記事を自分のブログで発表して、主催者の記事にトラックバックをする、というのがその趣向。

世間がせまく、こんな企画があるとは知らなかったのだけれど、kazuouさんのブログでその一端を知り、楽しそうだなあと思っていた。
で、今回、kazuouさんが主催者でもあり、初参加することに。

今回のテーマは、「夢見る機械」。
不思議な「道具」や「機械」をあつかった作品を挙げてほしいとのこと。
kazuouさんの紹介した作品群の密度は、圧巻!のひとこと。

このテーマならいろんな作品が思い浮かぶぞと思ったのだけれど、じっさい挙げようとすると、なかなか思い浮かばない。
「道具」に着目して本を読んだことがないのだなあと、自身の読書のクセを知ることができた。
それでも、本棚から本棚にとびうつったりしながら、なんとか思いついたのは以下。

「漂流物」(デイヴィッド・ウィーズナー BL出版 2007)

これは絵本。
デイヴィッド・ウィーズナーは、その超絶技巧により、リアリティに富んだ幻想的な物語を展開する名手。

少年が海岸で拾ったカメラ。
現像してみると、不思議な海中のようすが。
さらに、写真を手にした女の子の写真があり、その写真をのぞきこむと…。

小道具にカメラを用いた作品は、それ自体ひとつのテーマになるほど存在するだろう。
これは、その最新の成果の一冊。

「メカフィリア」(押井守 大日本絵画 2004)

副題は「押井守・映像機械論」。
画は竹内敦志。

いきなりマニアックで恐縮ですが…。
著者の押井さんは、おもにアニメで活躍されている映画監督。
本書は、押井監督が自作に登場させたメカニックについて記したもの。

アニメでメカといえば、ロボットか兵器のこと。
本書でふれられているメカも、この二つに尽きている。

映画に登場するメカは、まず第一に、作品の世界観を体現したものでないといけない。
さらに、登場場面に応じたデザインであることが必要。
くわえて、監督の思い入れや美意識に合致している必要もある。

押井監督自身は絵を描かない。
なので、デザイナーに発注をだすのだけれど、これが往々にしてうまくいかない。
どういう意図をもってして、そのメカがデザインされなければならないか、監督は縷々語るのだけれど、理論武装をすればするほど、好みとの両立がむつかしくなってくる。
「夢見る機械」というより、監督が「夢見た機械」。
そのあたりの悶絶ぶりが、なんとも面白い。

押井監督のファンでなければ読めないような本ではあるけれど、映像作品におけるメカニックの考察は、じつに含蓄に富む。
あと、文章にでてきた兵器などを、注釈で写真をつけて解説している点、編集の労力も大変なものだったのではないだろうか。

 

「踊る黄金像」(ドナルド・E・ウェストレイク 早川書房 1994)

訳は木村仁良。
ミステリアスプレス文庫の一冊。

kazuouさんの挙げられた本に、「十二の椅子」という本があった。
十二の椅子のどれかかにある、資産家の老婦人がかくしたダイヤモンドをめぐる物語だそう。
(じつは手元にあるのだけれど、読んでいなくて、読まなくちゃと思った)。

「踊る黄金像」も同趣向の話。
南米の某国から盗まれた黄金像。
複製品が15体もあるそれを、小悪党どもが奪いあう。

ウェストレイクのストーリー・テリングが冴え渡った、ユーモア・ミステリの逸品。
でも、いま検索してみたら、どうも品切れのよう。
こんなに面白いのになあ。

「ミエナイ彼女ト、ミエナイ僕。」(アンドリュー・クレメンツ 求龍堂 2005)

訳は坂本貢一。

これはヤングアダルト小説。
主人公の〈僕〉、15歳の少年ボビーは、ある日突然、透明人間になってしまう。
着膨れていった図書館で出会ったのは、目の見えない女の子アリーシャ。
ボビーはアリーシャの協力を得て、もとの姿にもどろうと奮闘する。

アンドリュー・クレメンツは、話を進める手続きがとてもていねい。
透明人間モノとして、たいへん楽しめる。

また、この作品は電気毛布が重要な役割をはたす、電気毛布小説でもある。
それでラインナップに加えてみた。

さて。
じつをいうと、読み終わった本はたいてい手放してしまう。
なので、あんな作品もあったなあと思いついても、モノがないので、本当にその本だったか確定できない。
上記の本は、みな確定できたものだけれど、できなかった本として、あと二つ挙げておきたい。

「小惑星帯(アステロイド)遊侠伝」(横田順彌 徳間書店 1990)
任侠モノとスペース・オペラを合体させた、キテレツな作品。
「光線ドス」というネーミングが、あまりにも素晴らしい。

「タイムマシンのつくり方」(広瀬正 集英社 1982)
ショートショート集。
この本に、「もの」という作品が所収されているはず。
小道具としてではなく、まさに、その「もの」についての作品。
テーマに沿った本を、うんうん考えていたら思いつき、これはなかなかぴったりの作品だぞ、と思った次第。

あと、kazuouさんからお話をいただき、次回、主催者をやることになりました。
どんなテーマにしようかなー。

 

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表紙紹介問題

知り合いの児童図書館員から聞いた話。

多くの図書館でおこなわれていることだけれど、その図書館でも子どもむけの、オススメの本を紹介する冊子をつくることになった。
そのさい、表紙の写真を載せるかどうかで、問題が生じた。

表紙って、許諾を得ないと配布物などにかってに載せてはいけないんじゃないの?

というわけで、オススメの本を出している出版社に確認してみることに。
ほうぼうに電話をかけると、どこも「かまいませんよ」という返事。
ただ、1社だけがちがった。
「あらかじめ原稿をみせてもらえませんか」
という返事だった。

その電話をかけていた図書館員は、とても短気なひとだった。
「じゃ、いいです。おたくの本載せませんから」
ガチャン、と電話を切ってしまったという。
……

不幸な話だ。

社団法人著作権情報センターがだしている「コピライト」(2007年10月号)という冊子の、「本の紹介と表紙の著作権」という文章を読んでいたら、上記のような話を思い出した。
この文章を書いたのは、出版ニュース社代表、清田義昭さん。

清田さんは数年前はじめて、大手取次会社から、自社の出版物の表紙にかんする許諾をもとめられたという。

「私は40年も出版の仕事をしてきたが、このような申し入れを受けたのは、その時が初めてだった」

「じつは、私の社で発行している『出版ニュース』という雑誌でも、多くの本を紹介しているが、表紙の写真を掲載することについて、その出版社の許諾を取ったことはない。それが出版界での常識、慣例だと思ってきた」

その取次会社は、ネットでも写真をつかいたいので許諾が必要だと思ったそう。


で。
ここから先は素人が簡単に調べただけなので、けっして鵜呑みにしないでほしいのだけれど、どうも著作権法によれば、表紙の紹介にも許諾が必要なよう。

書名や、著者名、出版社名は著作物ではないので、これだけしか書いてない表紙の場合はオーケー。
ただし、表紙に写真や絵がつかわれている場合、著作権者の許諾が必要。

これは日本図書館協会の「お話会・読み聞かせに関する著作権Q&A」に書いてあった。

清田さんの文章でもふれられているけれど、この「Q&A}は、2006年5月に児童書関係の権利4団体が「お話会・読み聞かせ団体等による著作物の利用について」という「手引き」を発表したのを受けて、日本図書館協会著作権委員会が作成したもの。

「Q&A」によれば、

「児童書四者懇談会に係わる作品に関しては、表紙に写真や絵画がある場合でも、懇談会手引きに従い、無許諾で掲載しても問題ないと考えられます」

上記の図書館員との話で、相手の出版社がこの4者懇談会にふくまれているかどうか。
そこまでは調べなかった。
まあ、この話も、2006年5月以前のことだろう。

お話変わって。
当ブログでは、本の表紙を絵にして紹介している。
これは、画像を貼るよりも、絵を描いちゃったほうがラクだという、個人的事情によるもの。

でも、この行為も、表紙をかってに翻案していることになるので、著作権法に抵触する確率が高いようだ。
個々の作品に対し、許諾をとってはいないし。

なので、もし当ブログの表紙紹介に不愉快な思いをされている権利者のかたがいらっしゃったら、ご一報ください。
表紙紹介の絵は取り下げます。

(と、ここまで書いて思ったのだけれど、相手が権利者だということをどうやって確認したらいいのだろう。法を遵守する道のりは果てしがない)

清田さんはこんなこともいっている。

「著者、出版社、読者の3者にとってプラスになるのだから、本の紹介のために表紙の写真を利用することは自由であっていいと思うのだが、どうだろうか」

賛成。
でも、こういう具合にはいかないものなのかなあ。


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武器製造業者とイシャーの武器店

「武器製造業者」(A・E・ヴァン・ヴォークト 東京創元社 1967)
「イシャーの武器店」(同上 1966)

訳は沼沢洽治。
両方とも創元SF文庫。
表紙がとてもカッコイイ。

ジャンルとしては、スペース・オペラ。
「スター・キング」を読んだ勢いで手にとってみた。
まずは「武器製造業者」
が、これがじつに読みにくい。
冒頭を引用してみよう。

「ヘドロックは、もうスパイ光線のことなどほとんど眼中にない。あい変わらずスパイ光線は輝きつづけ、スクリーンにはイシャー宮殿会議室の情景がくっきり浮かび上がっている。冷然とした表情の若い女性が玉座にすわり、男たちがその女性がさし出す片手の上に、うやうやしく頭をかがめる。一座の声もはっきりと聞きとれ、万事前と同じ情景だった。
 が、ヘドロックは、このきらびやかな大広間、そこに繰りひろげられる殿上風景には、いっさい興味を失っていたのである」
……

うーん、ツライ。
意地になりぜんぶ読んだけれど、なにがなんだかよくわからなかった。
本についているあらすじなどを参考に、ちょっと要約してみたい。

時代は7千年先の未来。
地球は女帝をいただくイシャー王朝の支配下にあった。
この専制に対抗すべく、3千年前に組織されたのが〈武器店〉。
さまざまな特殊兵器を楯に、永遠の監視をつづける地下組織だ。

と、これが基本設定。
「武器製造業者」では、主人公であり、地球唯一の不死人ヘドロックが、王朝と武器店双方から狙われるはめになる。
王朝に狙われるのは、イシャー宮廷に出入りしていたヘドロックが、武器店側の人間でもあると露見したため。
また、武器店に狙われるのは、素性に不明な点が多いため。

追われたヘドロックは、人類初の恒星間動力船に立てこもったすえ、ケンタリウス座へ。
そこで、蜘蛛型の超生物と遭遇。
蜘蛛生物は、人間に興味があり、ヘドロックを監視下に。

その後、ヘドロックは地球にもどり、身長50メートルのロボットを出撃させたり、女帝イネルダと結婚したり、また蜘蛛生物に試されたり……。
もうなにがなにやら。

もし、この要約を読んで、案外わかりやすいじゃないかと思うひとがいたら、それは誤解だといっておきたい。
展開の、飛躍につぐ飛躍はあきれるばかりだ。

ヘドロックが蜘蛛生物にとる対抗手段が面白かった。
蜘蛛生物は、自分たちの存在を知られたくないと思っている。
そこで、ヘドロックは木を円盤状に切り、そこに蜘蛛生物についての説明その他を焼きつけ、反重力圧をかけて、惑星中にばらまくのだ。
これはいったい、ハイテクなのかローテクなのか……。

原書では「イシャーの武器店」のほうが後に出版されているけれど、内容は「武器製造業」のまえの話。
出版年をみるかぎり、この創元SF文庫版では、内容の順番で出版されたらしい。
でも、読んだのは、原書の順番だった。

「イシャーの武器店」は、「武器製造業者」よりも、やっていることがよくわかり、面白かった。
ひょっとすると、この訳文や作者のスタイルになれてきたのかも。
それを思うと、いささか不安をおぼえる。

さて、「イシャーの武器店」は、いくつかのプロットが錯綜するつくり。
まず、冒頭、1951年の世界に、突如武器店があらわれる。
入店した新聞記者マカリスターは、結果的に7千年と時をとびこえ、そのからだに地球を破壊するほどの時間エネルギーをためこんでしまう。
武器店を追い出されたマカリスターは、〈時間シーソー〉となり、時をさまようはめに。

つぎに、グレイ村出身の青年、ケイル・クラークの出世譚。
天才的な策謀能力をもったケイルは、武器店の監視下のもと帝国首都におもむいたのち、ギャンブル場で拉致されてしまう。
ケイルに惚れた監視員のルーシーは、ケイルが連れ去られた〈幻の館〉に潜入する…。
この潜入シーンは精彩に富んでいた。

さらに、ケイルの父、ファーラ・クラークの物語。
イシャー王朝への忠誠心にあふれたファーラは、村にあらわれた武器店に猛反発。
しかし、銀行そのほかの陰謀により、自分の店を手放すはめに。
そこで、ファーラは毛嫌いしていた武器店を訪れる。
このエピソードは、てきぱきしていて、とても面白かった。

これら3つのプロットをつなぐように、ヘドロックと女帝イネルダの物語が語られる。

「イシャーの武器店」は、1995年版で読んだ。
これには、「スター・キング」同様、高橋良平さんによる素晴らしい解説がついている。
わけがわからない読後感を得た者にとっては、こんなにありがたいものはない。

この解説で、ヴォークトがつかった手法について紹介されているのだけれど、なかでも「ハングアップ(宙吊り)というのが興味深かった。
これは、「一から十まで説明しないことで読者の想像力を刺激する」というもの。
「SFのミソ」だという。

世の中には、宙吊りにされて、想像力が刺激されるひとと、わけがわからないというひとがいる。
前者はSFのよい読者になれるのだろう。

さらに、文体について。
ヴォークトは、まだSFを書くまえ、告白体小説を書いているときに文章の秘訣を身につけたという。
それは、つねにエモーション(情感)をこめること。
解説から、ヴォークトのことばを引用すると、こう。

「彼女はブラウン・ストリート1234番地に住んでいた、なんてのはいけない。エモーションがないからね。どう書くかというと、ブラウン・ストリート1234番地の小さな部屋のことを思い出すと、彼女の目に涙があふれた、とやるんだ」

ところで、外国の小説を読んだとき、これを日本人が書いたらどんなものになるだろうと考えることがよくある。
不死人のヘドロックが日本の小説にあらわれたら、どんなものになるだろう。
きっと、時間がすぎてゆく感慨などをもらすのではないだろううか。

しかし、じっさいのヘドロックはそんなことは微塵も口にしない。
そんなところも、読んでいて面白いところだった。


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