昔日の客

「昔日の客」(関口良雄 夏葉社 2010)

これもきれいな本。
装丁は、櫻井久。

著者は、山王書房という古本屋をいとなんでいたひと。
この本は随筆集。
はじめての著書であるこの本の完成を見ずに亡くなったそうで、「自分が死んだら、あとがきはお前が書け」といわれた息子の直人さんの手により出版されたそう。

まず、1978年に三茶書房から出版。
そして、2010年に、版元を変え、装いを改めて復刊。
手元にあるのは復刊のほうで、2刷目。
おお、この本が2刷いったのかと、なにやら嬉しい。

内容は、尾崎士郎、尾崎一雄、上林暁といった作家との交流、十三のとき亡くなった父の思い出、淡い恋、さまざまなお客とのやりとりなど。
文章は簡潔で、品があり、おかしみがあり、哀切がある。
哀切さがあるのは、亡くなったひとの話が多いためでもあるだろう。

読んでいると、ひととひととの距離が近いことに感じ入る。
これは、時代のためか、著者のお人柄のためか。
山王書房の近所には、三島由紀夫が住んでいたいたそう。
あるとき、三島由紀夫が店にやってきて、自作の「文章読本」に触れ、「御主人、これは内緒の話だがあの本は寝ころびながらの口述筆記でできた本ですよ」などと話していったという。

また、三島由紀夫が亡くなってから、その父親が自分の倅の本「潮騒」を本屋で買っているのをみかけたそう。

「そのとき、本屋のおばあさんが、誰にともなく、わたしゃあ、三島さんのお父さんの顔を見るとおかわいそうでならない、と涙声でいったのを耳にしたことがある」

店にやってくるいろんな客の話が面白い。
あるとき、広島に引っ越したその名も古本さんというひとから電話がかかってきた。
広島は古い本が少なくて淋しい、棚の本をかたっぱしから読んでくれといわれて、かたっぱしから読んであげると、「雑本ばかりになったねえ」といわれて不愉快に。

一番上の棚にある、帝国文庫の「里見八犬伝」をみつけたお客。
俺が本を読むようになったのはこの本がはじまりだと、好きなところを暗唱しはじめる。
およそ10分もやって、一字一句ちがわない。
ほかの客は驚いて、この暗唱見守るばかり。

この暗唱のお客は、あんまり古本ばかり買うので最初の奥さんに逃げられてしまったそう。
そこで、著者はこう書く。

「私はこの話を聞いたとき、少しばかり古本屋の責任を感じた」

こんな風に紹介していると、ぜんぶ引用したくなってくる。
ひょっとしたら、そのせいで復刊されたのかも。
あとひとつ、タイトルにもなった昔日の客の話について触れたい。

あるとき、芥川賞を受賞したばかりの野呂邦暢さんから電話がかかってきた。
以前、よく山王書房を訪れ、本を買ったので懐かしいという。
あのころ、奥さんはよく小さい女の子を抱っこしていたけれど、もう大きくなられたでしょうね。
ええ、この3月には嫁にいきます。

著者は、芥川賞の授賞式に招待される。
でも、大変な人混みだったので、屋台のおでんを一皿食べて早々に退散。
すると、2、3日たって、ちょうど嫁入り道具をはこびだしているところに、野呂邦暢夫妻があらわれた。
野呂さんは、娘さんに祝いの品を渡し、手伝いましょうと荷物をはこびこんでくれる。
そして、なにかお土産をと思ったけれど、僕は小説家になったから、まず僕の小説を贈りたい――と、野呂さんは「海辺の広い庭」を渡してくれた。
その見返しには、こう書かれていたという。

「昔日の客より感謝をもって」 野呂邦暢

サイト「日本の古本屋」のメールマガジンのバックナンバーに、関口直人さんによる本書についての文章が記されていたのでリンクを張っておく。


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マンガの創り方(承前)

続きです。

著者が本編から抽出した、「Pの悲劇」のプロットの、「起」の部分はこうだ。

・ペット飼育禁止の団地
・こっそり飼っている人がいる。それを摘発する人がいる(筧(敵役)を筆頭に)
・羽賀(主人公)がペンギンを預かることになる。

これをどう場面にしていくのか。

「この場合は出来上がった作品があるので、高橋さんがどうしたかは見ていただければ一目瞭然ですが、この3行の文章を普通に場面に描いただけじゃないのと思うくらい実に自然で、これ以外のやり方はないと思わせるくらい、よく出来ています」

「けれども出来上がった作品を読むから、そう言えるのであって、作品を読まないで「この3行を場面にしてみなさい」と言われたら、これはなかなか難しいわけです」

山本さんは、まず自分でいく通りかのファーストシーンを考えてみる。
そのうえで、ファーストシーンで一番重要なのは、「読者が感情移入できるかどうか」だとして、考えたファーストシーンに検討を加えていく。

「まず、全体状況としてペット禁止があり、ペットをこっそり飼っていた老人の引っ越しを描き、筧さんの登場。その筧さんは摘発者だということを示しておき、主人公は賛成派でも反対派でもないと表明した後にポンとペンギンの登場というこの順番です」

「そういう順番をオーソドックスに踏まないと、羽賀のほうに読者の距離が近づいていかないのではないかと作者は考えていると思います。ペット禁止の説明も老人の引っ越しも誰の感情も入らないように、わざとペタンとやっています」

「おばあさんが引っ越すところも下手な人がやると、おばあさんがシクシク泣いてたりするのでしょうが「この子(ペットの犬)と別れられないからしょうがないのよ」と、あっけらかんと感情が出ないように描いてあります」

作品を読むとき、ここまで考えて読んだりはしない。
著者の指摘により、はじめて作者の芸に気づく。
そういう指摘をたくさん教えてもらえるのが、この本の最大の魅力だ。
著者は、このプロットから箱書きへの解説を全篇に渡っておこなう。

そして、第3部「ネーム(シナリオ)を作る」。
ここでも、モンタージュ、視点、カッティングといった映画用語をつかって説明。
さらに、ネームの段階でセリフを練る。

面白いのは、いままで「Pの悲劇」→「UFOを見た日」の順番で解説してきたのに、第3部ではそれが「UFOを見た日」→「Pの悲劇」と逆転するところだ。
ネームの解説となると、指摘はより細かくなる。
すみずみまで意図がわかっている自作を先に解説したほうが、ネームというものを読者にわかってもらうのにいいだろうという判断が、ここでされたのかもしれない。

セリフにかんしては、著者はこんな注意をしている。

「セリフを書くときには、説明をしなければいけないこと、どうしてもしゃべらなければいけないことが箱書きの段階でありますが、くれぐれもベタにならないように気をつけて下さい」

「逆にベタでやるとどうなるかを、必ず1回考えてみると、そうならないための工夫を何か考えつくかもしれません」

さて、「Pの悲劇」の冒頭は、団地のロングショットから。
まず、ペット飼育禁止の規約をだし、つぎに引っ越し作業中の情景をだす。
登場人物は、引っ越すおばあちゃんと、主人公、主婦A、それに引っ越し業者のみ。
それ以外は、だれも描かない。

「見送りがいたら、その見送りの人にも何か言わせたくなります。「おばあちゃん、お元気でね」といった要らないセリフが出てくると、シーンが濁ります」

「我々は、余計なものが入っているのを見つけると「シーンが濁る」という言い方をします。ここは情報を純粋に情報として感情をまじえずに読者に伝えようとしているところですから、画的にも必要以外のことを描いてはいけないのです」

こういうことも、ただ作品を読んでいるだけでは気がつかないだろう。
「ベタでやる」とか「シーンが濁る」ということばも実感がこもっていて一読忘れがたい。
現場でつかわれていることばには力がある。

それから、著者はペンギンがやってくることになった事情説明を、高橋さんが1コマでこなしているのをみて感嘆している。

「旦那が会社の関係者からペンギンを預かってきたという事情説明はそれだけで2ページぐらいはかかりそうで気が重くなるところです。しかし高橋さんは、そこを抜群に上手く切り抜けています(わずか1コマで!)」

この章のタイトルは、「事情説明の超絶技巧」だ。

第4部は、「ネームを推敲する」。
ここからは、著者の自作ネームをもとに、具体的な推敲の仕方が語られる。
本書をはじめて読んだとき、推敲の説明のために部をひとつ立てるというこの構成に感心した。
これは、つくづく実作者の発想ではないかと思う。

それに、ここにおいて、いままで長ながとストーリーづくりを解説してきた意味が明らかになる。
プロットをつくり、箱書きをし、ネームをつくるというのは、要するにマンガを描く作業を意識的にやるということだろう。
ことばの力を借りて、製作過程を意識に浮上させるといったらいいだろうか。
では、なぜ意識化する必要があるのか。
おそらくそれは、そのほうが推敲が容易になるからだ。
推敲するために、ここまで述べられてきたような、さまざまな技術があるといっていい。

そして、なぜ推敲の必要があるのかといえば、だれかに読んでほしいからだ。
読んでほしくなければ、推敲の必要などないのだから。

それはともかく。
著者の実作者としての経験は随所にあらわれて、本書のあちこちで光を放っている。
たとえば、著者は電車のなかで、自分の作品を読んでいるひとに出くわして、自信作の見開きをそのひとが1秒もみなかったことにがっかりする。

「それ以来、ここは最低3秒見てほしい見開きや大ゴマなどでは、3秒なら3秒、10秒なら10秒かかるだけの文章を置くようにネーム段階で意識してやっています」

ほかにもこんなことを。

「私の場合はネーム第1稿にはまったく画を入れません。(…)画を描いてしまうと、その描いた画に惚れてしまって、変えたくなくなってしまう場合があるからです」

「私が長年やってきて、伏線について一番いいと思うのは、わざわざ伏線など張ろうとしないことです。自分がいま描いたことが伏線になるように次のシーン、その次のシーンを作ってしまえばいいのです」

「詳しく描けばなんでもクライマックスになる」

「私ももう30年ぐらいマンガを描いていますが、ネームは今でも必ず最低2回はやりますし、2回目のネームは担当者に見せて感想を聞いて微調整の直しを入れることもあるので、ざっと2回半から3回はやっています」

最後のことばは、最前線にいるひとがどれほどの努力をしているのかをよくあらわしている。
こんなことも、作品を読んだだけではわからない(わからなくていいのかもしれないけれど)。

これはいささか本書からずれるけれど、第4部「ネームを推敲する」において、画の入っていない、コマ割りと吹き出しだけ描かれたネームが掲載されていたのは個人的に面白かった。
というのも、
――マンガに画はいらないんじゃないか?
と、よく思っていたからだ。

画のうまいマンガ家であれば、画をみるのは楽しみだ。
でも、画のうまいマンガ家はほとんどいない。
それに、あるマンガ家をあるていど読むと、演出の見当がつくようになってくる。
ここはアオリ、ここはロング、ここは人物をナメてモノローグを挿入と、事前にわかるようになる。

マンガはまず人物の芝居から古くなっていくし、マンガ家の描く画はどんどん変わっていくものだから、好みの絵柄から次第に遠ざかっていってしまうのもさびしい。
それに、「この作家の画がダメ」という理由で、面白いマンガを薦めても読んでもらえないことも多々ある。
マンガでもっとも重要なのは、コマ割りと吹き出しの位置と擬音のつけかたで、それさえあれば画はいらないんじゃないのか…。
とまあ、こんなことを考えていたのだった。

で、じっさい本書に載っていた、画の入っていないネームを読んでみてどうだったのか。
前言を撤回することになるけれど、
――やっぱり、画がないときびしいかあ
と、思った。
でも、場面のことば書きと、あらかじめキャラクターの絵柄がわかっていれば、7割ほどは想像で補える。
あと、3割をマンガ家が埋めてくれるかどうか。

本書には、ネームをもとにした完成稿も載せられている。
それを読むと、「ここはこちらが想像したよりも案外くだけた印象で描かれているな」とか、「ここは思った以上に盛り上がってるぞ」というのがわかって面白い。
さすがプロはちがうと感心する。

話をもどして――。

じっさい、この本を読んで、面白いマンガが描けるようになるのだろうか。
面白さというのは、この本で語られているような、理屈の外からやってくるような気もするから、それはちょっとわからない。
でも、マンガを描こうというひとに推敲の道具を手渡してくれることは間違いない。
道具箱につかえる道具が入っているのは安心なものだ。

マンガを描く気のない読者にとっては、作者の細心さに触れることができるのが一番の魅力だろう。
作り手は思ってもみないところまで考えを尽くしているし、努力をかさねている。
著者の人柄があらわれたのかもしれないけれど、誠実な本だ。


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エゴイストたち

「エゴイストたち」(J.G.ハネカー 奢灞都館 1978)

訳は、萩原貞二郎。
出版社の名前がすごい。
これで、サバトカンと読むのだろうか。

これは、あんまりきれいな本だったのでメモしてみた。
小ぶりの(たぶん17、8cm)正方形の本。
薄い本で、ページ数は140p。
じつに瀟洒なできばえ 。
装丁者の名前はない。
製本は、須川製本所。

この本は奢灞都叢書の一冊。
この叢書の監修は、生田耕作。

ちなみに、内容は文芸評論というか、文学エセーというか、そんな本。
とりあげられている人物は、ボードレール、ユイスマンス、リラダン。
去年、ユイスマンスの本を一冊読んだので、その興味から手にとってみたのだった。
この著者も、「ユイスマンスは画家になるべき人であった」といっている。
ユイスマンスを読んだら、だれでもそういいたくなるにちがいない。

奢灞都叢書の本はどれも大変美しい。
内容よりも、本の物体としてのできばえに感動。


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笑死小辞典に載っていたペトリュス・ボレルの墓碑銘

「笑死小辞典」(フィリップ・エラクレス/編 リオネル・シュルザノスキー/編 ケルルルー/挿画 河盛好蔵/訳 立風書房 1988)という、墓碑銘や死についての逸話などをあつめた本を読んでいたら、ペトリュス・ボレルの墓碑銘がでてきたのでメモ。

「君が死んで、君の骨を
 土のなかに運ぶだろうとき、
 蛆でも嫌う死骸のあることを
 人は初めて見るだろう」

この墓碑銘のタイトルは、「ある批評家のために」。
作者は不明。
「リカントロープ(狼人)」と称したひとにふさわしい墓碑銘だ。

ボレルの小説は、「解剖学者ドン・ベサリウス」(ペトリュス・ボレル 沖積舎 1989)だけ読んだことがあって、以前メモをとった。
読んだら、こんどは主人公のヴェサリウスが気になって、「謎の解剖学者ヴェサリウス」(坂井建雄 筑摩書房 1999)を読んで、またメモをとった。

メモをとるという行為はくせになるものだ。

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ロビン・フッド

リドリー・スコット監督作の映画「ロビン・フッド」をみた。
この映画では、ロビン・フッドはリチャード獅子心王ひきいる十字軍に参加している。
あちこちの城を攻め落としながら(略奪しながら)、帰国の途についていた十字軍だったが、途中、リチャード獅子心王はあえなく戦死。
「報酬はでなそうだ」と、ロビン・フッドとその仲間はさっさと軍を離脱。
ドーバー海峡を渡る船賃が高騰する前に帰国しようとするが、たまたま王の側近であるロクスリー伯爵が殺害される現場にでくわす。
ロビン・フッドは、ロクスリー伯爵の名前をかたり、ぶじ帰国。
伯爵のいまわの際の願いをかなえてやるため、彼の故郷へおもむく…。

映画をみたあと、
――ロビン・フッドってこんな話だったっけ?
と思い、「ロビン・フッド物語」(上野美子 岩波書店 1998)を手にとってみた。
ロビン・フッド伝説の変遷を追って、簡潔でわかりやすく、じつに興味深い。

この本によれば、どうもロビン・フッド伝説は相当融通がきくもののよう。
登場人物とその属性は、まあ変わらないけれど、そのほかは時代にあわせて如何様にも変化していく。
そもそも、ロビン・フッドの身分自体、ヨーマン(自作農)だったのが、貴族になったりしている(映画では、石工の息子だった)。
ロビン・フッドが活躍した時代すら、一様ではない。
こんなに幅のある物語だったのかと、勉強になった。

ところで、映画ではクライマックス直前、唐突に黒騎士があらわれる。
黒騎士とは、リチャード獅子心王のことだから、死んだんじゃなかったのかとびっくりした。
しかも、その正体はリチャード獅子心王ではなかったので、またびっくり。
――これはギャグなのか?
笑っていいものかどうか、いささか戸惑った。


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マンガの創り方

「マンガの創り方」(山本おさむ 双葉社 2008)

副題は「誰も教えなかったプロのストーリーづくり」

厚い本。
ページ数、496p。
裏表紙に書かれた惹句はこう。

「創作の迷路に入ってしまった
 次代のマンガ家
 マンガ原作者に遺したい!
 画を描く前までの
 作業のすべてを教える
 全く新しい画期的な教科書!」

なぜタイトルが「マンガの描き方」ではないのかが、これでわかる。
この本は、画を描く前までの作業、つまりストーリーをつくるところから、ネームをつくるところまでについて語った本なのだ。
「マンガの描き方」的本はたくさんあるけれど、こういう本はちょっと思いつかない。
ひょっとすると、前代未聞かも。

さらに、カバー袖に書かれた文章はこう。

「画を描くのが好きだ・上手いだけでは
 絶対プロとして生きていけない!
 『ぼくたちの疾走』『遥かなる甲子園』『どんぐりの家』等々、
 数々のストーリー漫画の傑作を描き続けてきた山本おさむが、
 “プロット”の立て方から、“箱書き”“ネーム”づくりまで
 誰も明かさなかった創作のノウハウのすべてを完全公開!」

この本は、教えかたが非常に具体的かつていねい。
それは、講師である山本おさむさんならではのことかもしれない。
あとがきで山本さんは、この本の企画は、旧知の編集者である本多健治氏よりもちこまれた書いているけれど、漫画が描けるからといって教えられるとはかぎらない。
このひとと見こんでの依頼だったのではないか。

さらに、あとがきによれば、本書は双葉社の「Webマガジン」で連載されたとのこと。
まず、原稿をつくり、それをしゃべってテープに録音し、テープ起こしをし、加筆訂正したものを構成し、Webにアップしたそう。
録音は、ひとりでしたのではないような気がする。
編集者が聞き手になっているような感じがあるのだけれど、どうだろう。
この本が、こんなに厚くなってしまったのは話ことばを生かしたせいだけれど、でも、おかげでとても読みやすい。

さて。
漫画のストーリーづくりを教えるといっても、どんなことが書かれているのか。
目次から、この本の構成をみてみよう。

・序論
・第1部「ストーリー作りを始める」
 「動機」(モチーフ)・「発想」(アイデア)から筋(プロット)へ
・第2部「ストーリーを組み立てる」
 プロットを箱書きにして全体の構成を見る
・第3部「ネーム(シナリオ)を作る」
 「箱書き」を具体的な場面に仕立てあげていく
・第4部「ネームを推敲する」
 第1稿を練り上げて完成稿を作る

山本おさむさんは映画の勉強をしたことがあるそうで、このマンガの創り方も、映画の方法を援用したものになっている。

こういう本の場合、作例を前にして著者が解説をおこなうのが普通だ。
その作例は、たいてい著者の作品で、この本の場合も著者の「UFOを見た日」という短篇がとりあげられている。
が、もうひとつ、高橋留美子さんの「Pの悲劇」という短篇がとりあげられているのが異色。
しかも、一部ではなく、「UFOを見た日」とならんで、まるまる巻末に収められている。
これはとても面白い。

作者による自作解説というのは、解答を聞いているような気分になる。
でも、製作過程が不明な他人の作品の場合、そんなことは起こりようがない。
「こうだったのではないか」と、推測を積み上げていくほかなくて、それが緊張感の維持にひと役買っている。
「Pの悲劇」を細部にいたるまで読みこんでいく過程は、じつにスリリングだ。

(ちなみに、この本には、赤青黄色と3つのヒモがついている。これは、巻末に収められた2作品を閲覧しやすいようにという親切な配慮から)

では、山本さんの話はどのへんが具体的でわかりやすく、面白いのか。
簡単に例をあげていこう。

第1部「ストーリー作りを始める」では、「動機」(モチーフ)と「発想」(アイデア)という言葉について、こんな風に説明している。
車が好きで、車のマンガが描きたいと思う。
これがモチーフ。
でも、モチーフにはなんらかのアイデアがなければいけない。
このことを著者はこんな風にいう。

「車が好きな人なら、しげの秀一さんの『頭文字(イニシャル)D』(ヤングマガジン)というお手本のようなマンガがありますが、あれをよく読んで、どこがあのマンガのアイデアなのかよく見ていただきたい。主人公が豆腐屋の息子で、豆腐を配達するのに、何とか峠をブワーッと走って、そしてその豆腐の水を一滴もこぼさないというふうにしています。これが主人公に関するアイデアです」

「かたや新人の作品を見ると“豆腐の水を一滴もこぼさないで走った”というようなアイデアは皆無です」

アイデアがないと、既存の、ありきたりなストーリーをただなぞったものになってしまう。
こういう、ありきたりなストーリー(ないしは展開、芝居など)のことを、本書では「ベタでやる」と表現している。
なるべく「ベタ」は避けなければいけない。

ところで、高橋留美子さんの短篇「Pの悲劇」は、ペット禁止の団地で、こっそりペットを買っているペット賛成派と反対派の対立をえがいたものだ。
この短篇の場合、アイデアはどこが秀逸なのか。

まず、主人公に賛成派でも反対派でもない、中立の人物をもってきたところ。
これで、どちらかを悪者にえがかなくてすむ。
それから、主人公が一時的にペットを預かることになったこと。
時間制限があるから終わりがみえるし、反対派の追求によるサスペンスも生まれる。
加えて、預かったペットがペンギンであること。
これで、話がぐっと派手になる。

山本さんは、実生活において似たようなことを経験され、これをマンガにできないものかと考えながらも、うまくいかなかったそう。
そのため、「Pの悲劇」を読んだとき、「なるほど、こうすればよかったのか!」と深く感心したとのこと。

そして、第2部「ストーリーを組み立てる」へ。
ここでの作業は、箇条書きのプロットを、場面ごとの箱書きにすること。
「箱書き」は、映画におけるシナリオ作成のテクニック。
「箱書き」をすると、全体の構成がみえやすくなるし、プロットを具体的な場面にすることもやりやすい、と著者。
ページ数もみえてくるし、静と動のバランスもみえやすい。

著者が本編から抽出した、「Pの悲劇」のプロットの、「起」の部分はこうだ。

・ペット飼育禁止の団地
・こっそり飼っている人がいる。それを摘発する人がいる(筧(敵役)を筆頭に)
・羽賀(主人公)がペンギンを預かることになる。

これをどう場面にしていくのか。

…長くなりそうなので、次回に続きます。


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トリガーマン!再

そういえば、去年の暮れ、「トリガーマン!再」(火浦功 朝日新聞出版 2010)が出版された。
デビュー30周年を記念したもので、内容は2002年に出版された「トリガーマン! 1 2/5」に新作と作者のサインを加えたもの。
新作はほんのちょっぴり。

――なんて商売をするんだろう

と、思ったけれど、ファンなのでもちろん買って読む。
面白かった。
ついでに、「奥さまはマジ」(角川書店 1999)も再読。
勢いづいて、「俺に撃たせろ!」(徳間書店 2001)も再読した。

火浦功に似た作風はちょっと思い出せない。
なんなんだろうこれはと、読むといつも不思議に思う。


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翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」に追加。

「バスカビルの魔物」(坂田靖子 早川書房 2006)を読んでいたら、「スクルージ・ビフォア・クリスマス」という、愉快な一編があったので、翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」に追加。


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一冊たち絵本も再開

一冊たち絵本」も再開。
ただただ、絵本を紹介するサイトです。
よろしければどうぞ。

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