ファイヤーガール

「ファイヤーガール」(トニー・アボット 白水社 2007)

訳は代田亜香子。
これで、ダイタアカコさんと読むのだと、今回はじめて知った。

表紙の絵がじつにうまい。
原書のものをそのままもってきたそうだけれど、読み終わってから見ると、この表紙しか想像できなくなる。

内容は、ヤングアダルト小説。
主人公トムの1人称。

トムは7年生。
正義感は強いものの、気弱で、引っこみ思案。
両親が離婚し、母親とともに暮らす友人のジェフは、強がりばかりいう。
スポーツカーのコブラが好きなトムに、コブラに乗っている叔父さんがいるといい、乗せてやるよというが、あらわれたためしがない。

学校では、先生の提案で、選挙をしてクラス委員を決めることに。
コートニーのことが好きなトムは、彼女を推薦しようと考える。

また、ジェシカという名の女の子が転校してくる、と先生。
ジェシカはひどい事故にあい、ひどいやけどを負ったというが…。

トムの情けない性格や、ジェフの荒れた人柄がとてもうまく描きだされている。
とくにトムの情けなさは身につまされることしきりだ。

このあと登場するジェシカに接することによって、ジェフは変わるのだけれど、それは英雄的な行為をするとかではぜんぜんない。
ほんの少し、決定的に変わったので、それを読者に感じさせるために、全シーンが完璧に機能している。
デリケートな題材をリアリティを失うことなくあつかっていて、みごとの一言。

わずかしか登場しない人物も強く印象にのこるのは、シチュエーションと登場人物の役割が明快だからだろうか。

あと、訳者あとがきもすごい。
内容にはそう触れていないのだけれど、猛烈に本編を読みたくなる。
このあとがきに誘われて、一気に読んでしまった。

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夜のパパ

「夜のパパ」(マリア=グリーペ 偕成社 1980)

スウェーデンの児童書。
訳は大久保貞子。

2004年に復刊されたけれど、読んだのは1980年版。
素晴らしい挿画は、作者のご主人ハラルド=グリーペよるもの。
いま検索したら、「夜のパパとユリアのひみつ」という続編もあるのだそう。

内容はひと口にいうと、夜のパパとよばれる青年と、ユリアとよばれる女の子の交流の話。
その形式が面白い。
いままでのことを、相手がなにを書いたのか見ないで、ルーズリーフに交互に書きつけた、という形式なのだ。

この、相手がなにを書いたか知らない、というところがミソ。
おかげで、この作品は、とても演劇的になっている。

夜のパパというのは、ユリアのうちに夜だけ留守番にくる青年のこと。
ユリアの母は看護婦なので、夜勤のあいだだけ留守番のために雇われた。

最初こそユリアは、自分の部屋のドアに、「わたしひとりの部屋です! じゃましないでください! 立入り禁止!」なんて貼り紙をするのだけれど、フクロウを連れてあらわれた夜のパパがすっかり気に入り、翌日は「じゃましてください」なんて、貼り紙の文句を変えたりする。
「立入り禁止」は、消すと貼り紙っぽくなくなるのでそのまま。

ユリアは、夜のパパがくるのが待ち遠しい。
きたら、いっしょに菓子パンを食べようと思っている。

ここで、語り手は夜のパパに。
夜のパパはなかなかユリアの望みを見抜けない。
「台所にね、すごーくおいしい菓子パンがあるの」
と、ユリアがいうと、
「菓子パン、とってきてあげようか?」
といって、ユリアをがっかりさせる始末。

でもまあ、最後にはうまくいく。
おなかがすいてきたと、夜のパパがいうと、ユリアは大喜び。
「おなかがすいたといわれてこんなにうれしそうな顔をした人は、見たことがない」と、夜のパパ。

子どもはひとり合点をして、ものごとをそのとおりにはこぼうと振る舞うものだけれど、その感じがよくでている。

後半は、夜のパパがいることを信用しないユリアの友人たちとユリアの確執や、「夜の女王」という夜に咲く花、また、フクロウのスムッゲルをめぐるエピソードなど。

とにかく、エピソードがつねに具体的な行動であらわされ、それが作品の広がりに貢献ししているその手際には感服する。

登場人物の気持ちがよく書かれているせいか、地に足がついている感じがするのだけれど、道具立てはおとぎ話のよう。
ここのところも、魅力のひとつだ。


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ハードボイルド雑感

好きな作家を追いかけて読むということはするけれど、好きなジャンルを追いかけるということはしない。
だから、ある特定のジャンルに精通しているひとには感心してしまう。
そのひとたちは、自分の関心があるジャンルにひっかかれば、それがどんな駄作であろうと目を通すのだ。
とても真似できない。

ハードボイルドについてもおなじ。
ハメットは好きだけれど、チャンドラーは好きではない。
マーロウには、小説ではなくて報告書を提出してほしいとよく思う。
ハードボイルド・ファンが聞いたら噴飯ものかも。

ジャンルを念頭において本を読むくせがないせいか、あまり関係のない本に、かってにジャンル性をみつけることがよくある。
ハードボイルドというと、思い出すのは、「踏みはずし」(ミシェル・リオ 白水社 1994)だ。
殺し屋を主人公にしたフランスの小説で、切り詰めた文体が印象的だった。

もうひとつは「灰色の畑と緑の畑」(ウルズラ・ヴェルフェル 岩波書店 1979)。
これはドイツの児童文学。
どうにもならない状況にいる子どもを、淡々と描き出した短編集だ。
子どもの孤独は、大人のそれより小さいということはない。

ハードボイルドの特長のひとつが孤高さにあるとすると、ジャンル外の作品にそれを多くみいだすのは、あたりまえのことなのかも。


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私のハードボイルド

「私のハードボイルド」(小鷹信光 早川書房 2006)

副題は「固茹で玉子の戦後史」。

ハードボイルドの第一人者である著者が、ハードボイルドの導入とその推移を、個人史をからめながら書いた長編エッセー。

全体としては年代順。
前半はトピックス中心、後半は毎年ごとの時系列。
後半は、著者自身がハードボイルドの紹介者・研究者として大活躍するのだから、この形式が書きやすかったのだろう。

なんといっても、著者の執念を感じさせる考証の部分が面白い。

現在つかわれているような意味で、ハードボイルドということばをはじめてつかったのは、映画評論家の双葉十三郎さんらしい。

「彼は、昭和21年3月号で復刊を果たした大判(A3)の映画雑誌《スタア》の復刊第2号の巻末で、レイモンド・チャンドラーの長編デビュー作「大いなる眠り」をくわしく紹介し、その長文の記事のなかで、「ハードボイルド」という言葉を3度用いた。探偵小説の新しい流派を指す用語としてこの言葉が日本で記されたのはこれを嚆矢とする」

「3度」というところが、細かい。
じっさいに現物を指でなぞって調べた感じがする。

また、「ジッドはハメットをいつ、どこで褒めたのか」という章。
ジッドがハメットをほめたという有名な話は、じつは誤報なのだという。

乱歩などが引用したこの挿話は、岩波の雑誌《世界》の創刊号に掲載された記事がもとらしい。
その《世界》の記事のもとは、《ニュー・パブリック》1944年2月7日号。
この雑誌に、ジッドの、架空のインタビュアーとのやりとり(ダイアローグ)による文芸批評「架空会見記」が訳出されており、《世界》の担当者はこの記事が「架空」であるとは気づかずに紹介してしまった…というのがことの真相のよう。

この件は、「ほぼ半世紀にわたって、何度も誤認情報をそのまま引用することになった」。

架空会見記とはいえ、ジッドはハメットをほめていた。
ただ、ジッドはハードボイルドの安っぽさについても指摘していたのだけれど、こちらは「ジッド、ハメット絶賛説」により駆逐されてしまったという。

さらにまた、「私の知るかぎり、ハードボイルドをヘミングウェイ文学の全容を読み解くキーワードとして論を展開させた評論家は存在しない」のだそう。
ハードボイルドの文脈でヘミングウェイが引用されるのは、日本側の事情が関係しているらしい。

「日本では、「ハードボイルド」という用語の流行が先行し、それにあわせてヘミングウェイがひっぱりだされたのだろう」。

巻末につけられた研究篇はさらに考証色が強く、ほとんど論文。
レポート1、「「ハードボイルド」の言語学」で、ヘミングウェイの「日はまた昇る」をサンプルに、さまざまな「ハードボイルド」の訳例を列挙したところなど、とても面白かった。

個人史についても少し触れよう。
まず、小鷹さんのものもちのよさに驚かされる。
小学生時代の日記まででてくるのだ。

また、仕事のやりかたを身につけるきっかけは、ワセダ・ミステリ・クラブの大塚勘治(仁賀克雄)編集の《Waseda Mystery》に載せてもらった小論がきっかけだったそう。

「できるだけ多くの資料を集め、それを年代順に並べて、内容を分類・考察する方法をおぼえたのもこのときだった。創作よりもこのほうが性に合っていたのか、それ以来ずっと私は同じ手で、“解説屋”をやってきたような気がする」

あと、田中小実昌さんの発言が忘れがたいので、最後にメモ。

1981年、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はジャック・ニコルソン主演でリメイクされる。
その公開に当てこみ、当時4種類の訳書がいっせいに書店にならぶという珍事が。
訳者は、中田耕治、田中西二郎、田中小実昌、そして著者。

公開に先立ち、著者は海外ミステリ研修会主催によるパネルディスカッションを企画。
ゲストに片岡義男、田中小実昌を招き、田中小実昌訳の吟味をすることに。

さて、そのパネルディスカッションの席上でのこと。
小鷹さんが、田中訳のわかりにくい箇所を原文で示すと、片岡さんがすらすらと、「男をそういう気持ちにさせてくれる女というのは、そうめったにいるもんじゃない」というような意味だと教えてくれる、というひと幕が。

田中小実昌さんは困りながらもこういったという。

「翻訳とは裏切り行為であるなんて書いてるひともいるけどさ、だから私はしないというのは上等けっこう…。だけれども、そんなこと言ってるやつというのは、ほれ込みようが足りないんだよ。本当にほれてごらん。訳したいもの」

「堂々と開き直ってみせたのは立派だった」
と、小鷹さんはあたたかい言葉をよせている。

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賞味期限切れ小説礼賛

「趣味は読書」といっても、ひとそれぞれで、話があうことは案外まれなものだ。

小説ばかり読むひともいれば、小説を読まないひともいる。
ベストセラーばかり読むひともいれば、それを避けるひともいる。
現代ものしか読まないひともいれば、時代小説しか読まないひともいる。

世の中には、話題の本ばかり読みたいひともいるのだということが、最近、ようやく呑みこめてきた。
かれらは芥川賞や直木賞の受賞作が発表されると、即座にその本をもとめるのだ。
賞には、販売促進効果がやはりある。

いつのころからか流行りの小説を読むのが、すっかり苦手になってしまった。
流行りの小説は、流行っているだけあって、読むと面白いのだけれど、なんでこれが流行っているのだろうと、よけいなことも考えてしまい、面倒くさい。
それに、いま生きていて、元気に活躍しているひとには、面白かったとかつまらなかったとかあまりいいたくない気もする。

読むなら、作者が亡くなっているほうがいいし、作者に会ったところでなにもいうことはないような海外の作品のほうがいい。
また、賞味期限が切れたような、そこそこ古い作品のほうが、のんきに読めていい。

とまあ、以上のような理由で、こんな読書傾向を身につけてしまった。

最近読んだ賞味期限切れ小説はこれ。
「シャークに気をつけろ!」(コンスタンティン・フィップス 1987 早川書房)。
訳は長野きよみ。

内容は、ユーモア・スパイ小説とでもいうべきもの。
〈わたし〉、ハーマン・ニュートンは盗聴器開発の専門家。
また、一身上の都合からひそかに媚薬の開発にも精をだしている。
ある日、英国情報部のシャーク大佐から、極秘任務の依頼をうける。
バルセロナの研究所に潜入し、開発中の媚薬の秘密を探り出すというのが、その任務。
ハーマンは、勇躍、バルセロナにむかう。

一人称で、ハーマンの、自覚のとぼしいドジぶりが描かれ、読者はそれを楽しむという趣向。
訳者あとがきには、ミケシュの「スパイになりたかったスパイ」の系列に続くものだとしているけれど、「スパイ…」にくらべて切れ味は落ちる。
極秘任務の顛末を書きたいのか、ハーマンの半生を書きたいのか判然としないためだろう。
面白くなりそうでならないところが、じつにもどかしい一冊だ。


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世界短編傑作選3

「世界短編傑作選3」(江戸川乱歩編 創元推理社 1960)

手元にあるこのシリーズは、あんまり汚れているので、本にすまないと思いながら短篇ごとにちぎって読んでいた。
ところが、当時の本は、ページが糸でかがってあるのでちぎりにくい。
結局、ちぎるのはよすことに。

最近の本は、こんな堅牢なつくりではない。
手近の本を分解してみたら、やはりボンドでくっつけてあるだけだ。
これは文庫本だけではなくて、ハードカバーのもそう。
ハードカバーの紙は丈夫だから、紙がちぎれるまえに本体がこわれてしまう。
昔の本のほうが最近の本よりも、物体としての寿命は長いかもしれない。

さて、収録作。

「キプロスの蜂」アントニー・ウィン
「堕天使の冒険」パーシヴァル・ワイルド
「茶の葉」E・ジェプソン、R・ユーステス
「偶然の審判」アントニー・バークリー
「密室の行者」ロナルド・A・ノックス
「イギリス製濾過器」C.E.ベチョファー・ロバーツ
「ボーダー・ライン事件」マージェリー・アリンガム
「二壜のソース」ロード・ダンセニイ
「夜鶯荘」アガサ・クリスティ
「完全犯罪」ベン・レイ・レドマン

3巻は粒ぞろい。

のちに傑作「毒入りチョコレート事件」に発展(?)した「偶然の審判」
ノックスによる豪快な物理トリックの「密室の行者」
推理小説といえるかわからないけれど、みごとに不気味なダンセニイ卿の「二壜のソース」
クリスティの「夜鶯荘」もさすがの緊迫感。

なかには賞味期限切れが否めない作品もあるけれど、はじめてあのトリックがつかわれた作品など、歴史的に重要な作品もあり、興味深く読める。

そのなかで、いちばん読み応えがあったのは「堕天使の冒険」
パーシヴァル・ワイルドは、通信教育で探偵術を学ぶ迷探偵を描いた、爆笑必死のユーモア・ミステリ「探偵術教えます」(晶文社 2002)の作者だ。

「堕天使の冒険」は、いかさまトランプを題材にしたもの。
ヒマラヤ・クラブでおこなわれたブリッジ。
お調子者のトニイ・クラグホーンが、テリスのいかさまを見抜く。
いや、じっさいは見抜けなかったのだけれど、ヤマを張り、テリスがいかさまをしていると追及してしまう。

そのヤマが当たったと思いこんだトニイは、師匠であるビル・パーミリーのもとへ自慢しに。
ところが、ビルはすでにトニイの活躍を知っていた。
ビルは、トニイが見つけられなかったカードの印までお見通し。
この印は、ゲームの進行中につけられるようなものではない。
しかも、印はカードすべてにつけられている。
ブリッジでは、そんなことをしなくてもいいはずだ。
真相究明のため、ふたりはヒマラヤ・クラブへむかう。


トニイの悪気のないお調子者ぶりが楽しい。
ビルといいコンビになっている。
話は、ここからさらにぐんとひろがり、さまざまな人間模様にまでふれて味わい深い。

以下は余談。
各作品のまえについている乱歩の解説によれば、「偶然の審判」は「毒入り…」を圧縮したものだそうだけど、出版年からみると、「偶然の審判」のほうが先。
発展したのか、圧縮したのか、どっちなんだろう。

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黒衣の女

「黒衣の女」(スーザン・ヒル 早川書房 1987)

副題は「ある亡霊の物語」。
訳は河野一郎。

怖い小説は怖いから、普段は読まないのだけれど、ときたま気がむいて読む。
これは気がむいた一冊。

〈わたし〉の一人称。
再婚した妻と、その連れ子とともに〈修道士の館〉と名づけられた館に暮らしている弁護士のアーサー・キップス。
クリスマスの晩、家族で幽霊話に興じていたところ、ひどく取り乱す。
アーサーは過去に、亡霊に出会ったことがあった。
その晩、アーサーは亡霊の記憶から解放されようと、その話を記しはじめる。

これが冒頭。
日本で幽霊話といえば、夏に納涼のためにするものだけれど、イギリスではクリスマスにするものらしい。
「昔からのしきたりだもの」と、子どものひとりがいっている。

回想では、アーサーは23歳。
経営者のベントレー氏の指示で、亡くなったラブロウ夫人の遺産整理におもむく。
そこは〈うなぎ沼の館〉とよばれる館で、沼沢地にあり、引き潮のときだけ土手道を渡ってたどり着けるというところ。

ラブロウ夫人の葬儀に出席したとき、アーサーは黒衣の女性をみかける。
そして、〈うなぎ沼の館〉を訪れるのだが…。

読後感は、よみがえったゴシック小説という感じ。
おそらく作者は、典型的なゴシック小説を書いてみたいと思ったのではないだろうか。

筋立てはどうということもないけれど、沼地にかかる霧のように、じわじわと不穏さが醸しだされていく文章は抜群。
イギリスの小説らしい、素晴らしい描写力だ。

著者の本を検索してみたら、児童書も出版されていた。
どんな風に書かれているのか、そのうち読んでみたい。

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