「花の館・鬼灯」

「花の館・鬼灯」(司馬遼太郎 中央公論社 1994)

本書は、司馬遼太郎による戯曲を2編おさめている。
司馬遼太郎が戯曲を書いていたとは知らなかった。

最初、この本のことを知ったとき、
――司馬遼太郎と戯曲は、あんまり相性がよくないんじゃないの?
と思った。
司馬遼太郎の面白さは、随筆的な面白さだから、構成とセリフで魅せる戯曲はむいていないのではないか。
司馬遼太郎作品の解説本は山ほどでているけれど、この2作品に言及している本というのは聞いたことがない。

それはともかく。
まず、「花の館」から。
舞台は、室町時代。
日野富子や、足利善政がいた頃。

プロローグで、3人の地獄の使者というのがでてくるのが目を引く。
地獄に落ちた現代の人間が、客に室町時代の光景をみせる――というのが、この戯曲の枠組みなのだ。
一体なんだってこんなことをしたのかと思うけれど、たぶん、作者が戯曲を書く上で必要な仕掛けだったのだろう。

そして本編。
足利義政や、日野富子や、義政の弟である義尋や、僧や、能役者や、家族を捨てて盗賊になった男やらがでてくる。
でてくるのだけれど、これらの登場人物は、なにか行動を起こしたり、その結果としての、「一体このからどうなるのだろう」といったような展開をみせてくれたりはしない。
日野富子は、自分の子どもを将軍の世継ぎにしたがっている。
足利義政は寺を建てたがっていて、その金を富子に無心する。
京の都が焼けているときに、こんなことをしている。
地獄の使者がみせてくれるのは、無残な光景ばかりだ。

「花の館」のあとがきには、どうしてこの戯曲を書くことになったのか、その経緯が記されている。
そこに、こんな一文がある。

「私はいまの世の中に対してえたいの知れぬ恐怖と怒りと、かといって発言する気もおこらぬほどの無力感のような、つまりいったい世の中においてなにが邪悪なのかということが自分でもわからぬような感じのなかにいる」

この感じを芝居にしたいということで、この戯曲を書いたという。
その意図は達せられたと思うけれど、それが面白いかどうかは、また別の話。
ちなみに、「花の館」は1970年、文学座により上演されたとのこと。

次は「鬼灯」
舞台は戦国時代。
主役は、荒木摂津守村重。

荒木村重は織田信長の家臣で、明智光秀が本能寺の変をおこす4年前に謀反をおこした人物。
一国を挙げて信長に対してたたかいを挑んだのだけれど、結局はほろぼされた。
そのさい、女子どもはみな信長に虐殺された。
が、村重はひとり落ちのびた。
信長への叛逆をひとりで決定した村重は、一族郎党を巻きこんだあげく、ひとりで逃げだしたのだった。
その後、畿内を放浪した村重は、もと朋輩の秀吉にひろわれ、御伽衆として余生をすごしたという――。

戯曲はこの史実にもとづいて書かれている。
中心になるのは、「毛利の援軍」がくると信じて篭城を続ける村重と、その家臣や妻とのやりとり。

「花の館」よりも、具体的で、切迫した状況をあつかっているためか、劇的な集中の度合いが高い。
そのぶん、より面白い。

この作品にも、あとがきに当たる「鬼灯創作ノート」という文章が巻末にそえられている。
そこでは触れられていないけれど、司馬遼太郎の頭には、太平洋戦争のときの軍人の振る舞いがどこかにあったのではないかという気が、ちらとする。
あの戦争のとき、軍人や公務員の一部は民間人を見捨てたのだけれど、それが念頭にあったのではないか。

より技術的な面では、この戯曲でも「花の館」の地獄の使者のように、「ただ見ているだけ」という、幽霊のよう登場人物がでてくる。
それから、ト書きが面白い。
後半、亡霊にさいなまれる村重についてのト書きはこうだ。

「村重の心境は、一要素としては諸亡霊から売れる恐怖もある。また一要素として、自分は悪くなかった――自分は、毛利の援軍を待っていただけだ、それだけだ――という政治的レベルでしか、自他の物事の善悪を考えられない男。このことは、村重における欠落というへきもので、天性、そういう意味での倫理的無神経さがある。安見野のいう、片身の削げたような男、もしくは背中のない男だというべきか」

安見野(やすみの)というのは、劇中にでてくる村重の妻の名前だ。
それにしても、「……というべきか」というのはなんだろう。
このト書きは、村重の人物解説に終始している。
司馬遼太郎の地のスタイルが顔をだしているという感じで、とても面白い。
「鬼灯」は1975年、文学座により上演されたとのこと。

「花の館」と「鬼灯」の共通するテーマは、退廃といえるだろうか。
あるいは政治的退廃と、それがもたらす惨事。
この戯曲だけみると、司馬遼太郎は、人間集団の退廃に格別の興味があったように思える。


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ベストセラーだけを売ってみると

「人文会ニュース」の2011年6月号通巻110号の巻頭に、リブロ商品部の野上由人さんというひとが書かれた、「ベストセラーと基本図書」という文章が載っている。
それによると、去年、実験として、ある店舗で売上ランキング至上主義売り場をつくってみたのだそう。

「余計なことは考えずただひたすらランキングに従って上位商品のみを揃えて売り場を作ってみる実験です。店頭から売れた本も、それがランキング下位に落ちていたらもう補充しません。平積みも棚差しも、上位を置き、下位を外す作業を徹底し、品揃や発注に関する考え方を一元化したのです」

こんなことをしてどうなったのか。

「結果はすぐに表れました。最初の1ヵ月で、売上は前年比で10%以上落ちました」

そりゃそうだよと思うけれど、実際に試してみたところはじつに偉い。
売上を確保するにはベストセラーだけでは駄目で、コンスタントに売れる「基本図書」が必要。
ただ、「いま売れている本」と、「コンスタントに売れている本」をどのような割合でもつのが最も効率的なのかは、まだ難問として残っているそうだ。


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トッティの本

以前、井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」を読んでメモをとった。
そのときは書かなかったのだけれど、この本に、「トッティについての笑い話のすべて」(モンダドーリ社)という本が紹介されている。
ちょうど、井上さんがボローニャを訪れたとき、本屋の店先に平積みになっていたそう。

トッティというのは、セリエAのASローマでMFをしていたフランチェスコ・トッティのこと。

「サッカーをするために生まれてきたような天才選手で、とびきりの美男子、もちろんイタリア代表でもあって、「ローマの王子様」というニックネームを奉られている」

…という、すごい選手らしいのだけれど、いかんせんアタマは空っぽだという噂が公然とささやかれていて、この「ローマの王子様」がいかにバカでマヌケかを巧妙にからかった笑い話を詰めこんだのが、「トッティについての笑い話のすべて」という本。

「この本を読んだローマ市民は、「だからトッティはかわいい上にすばらしい」と、ますます彼をひいきにするし、ローマ市民以外は、敵軍のエースを笑いのネタにして溜飲を下げる。そしてこんな本が何週間もベストセラーの首位を独走するところに、イタリア人のサッカーにかける情熱がよく見えています」

と、いつもながら井上さんはまとめ上手だ。
「ボローニャ紀行」には、いくつかトッティ・ジョークも紹介されている。
ひとつ引用してみよう。

〈トッティが練習場に現れたとたん、チームのみんなが笑った。少しむっとなって、トッティが云った。
「なにがおかしい。キャプテンに対して、そういう態度をとっていいのかい」
 そこで僚友のマルコ・デル・ベッキオがトッティに云った。
「靴があっちこっちだから笑っているんだよ。片足がアディダスで、もう片足がナイキじやないか。取り替えておいでよ」
 するとトッティが云った。
「マルコ、おまえってほんとうにおバカさんだな。うちに帰ったって、アディダスとナイキのあっちこっちな靴があるだけじゃないか。なにをしに帰ればいいんだよ」〉

で。
なぜ、この本のことをもち出したかというと、先日読んでいた別の本にも、この「トッティの本」がでてきたからだ。
その本は、「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」(ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール 工藤妙子訳 阪急コミュニケーションズ)という本。

この本は装丁が凝っている。
松田行正と日向麻梨子による仕事。
本の天と地と小口がブルーに塗られている。
ただ、汗ばんだ手でさわるとブールの塗料が本文のほうに染みでてしまうのが難だ。

エーコはホローニャ大学の教授で、世界的な記号論学者で、いわずとしれた小説「薔薇の名前」(東京創元社 1990)の作者。
カリエールは脚本家。
本書は、このふたりの愛書家による対談集。
タイトルから想像して、紙の本の終焉や、電子書籍について書かれている本かと思ったら全然ちがう。
訳者あとがきに書かれている原題の直訳、「本から離れようったってそうはいかない」のほうが内容にそっている。

それはともかく、トッティの話。
エーコはこんなことをいう。

「彼は世間をあっと言わせるような名案を思いつきました。トッティは、自分がネタになったいろんな話をすべて集めて本を出版し、その売上げを慈善団体に寄付したんです」

エーコは本のタイトルをいっていないけれど、これはきっと「トッティについての笑い話のすべて」のことだろう。
あの本は、トッティ自らが出版した本だったのか。
そして、こういうことをして、その結果どうなったか。

「自然と話すことがなくなって、誰もがトッティの評価を改めました」

それにしても、自分にたいする笑い話をあつめて、本にして、売上を慈善団体に寄付するなんて、じつにスマート。
結果として評価もくつがえったのだから、バカでマヌケどころではない。
素敵な王子様ぶりだ。

この話、おそらく井上さんは知らなかったのではないか。
知っていたら、本に書いたろうから。


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