地下鉄サム

「地下鉄サム」(ジョンストン=マッカレー 東京創元社 1959)

訳は乾信一郎。
創元推理文庫の1冊。

短編集。
短篇というより、コントといったほうがふさわしいような軽い内容。
収められた作品は以下。

「サムと放送」
「サムと厄日」
「サムと指紋」
「サムと子供」
「サムとうるさがた」
「サムの紳士」
「サムと名声」
「サムと大スター」
「サムと贋札」
「サムと南京豆(ピーナッツ)

「世界短編傑作集」を読んでいたとき、巻末にあった創元推理文庫の広告を熟読した。
そのとき、これは読んでみたいと思ったのが、「地下鉄サム」。
載っていた紹介文はこう。

「地下鉄専門のスリの名人サムと、これを追う名探偵クラドックのユーモア推理コント集」

読みたいなあと思っていると、本はたいてい読むことができる。
先日、古本屋でこの本をみつけて、めでたく読むことができた。
読んだ感想は、正直にいうと、「賞味期限が切れてるなあ」。

舞台はニューヨーク。
地下鉄サムは、地下鉄専門のスリ。
退役強盗「鼻のムーア」が経営する下宿屋に居をかまえ、日々仕事にいそしんでいる。
サムの容姿は書いてないのでわからない。
なんとなく、小男のような感じがする。

サムを追うのが探偵クラドック。
探偵というけれど、「警察本部のクラドック探偵は…」なんて書かれているから、警官なのかもしれない。
サムがマディソン・スクエアのベンチでくつろいでいるところに、クラドックがやってきて、軽口を叩きあうというのが毎度のパターン。
その軽口が、プロローグになる。

サムがスリだと確信をもっているクラドックは、いつも現場を押さえられない。
「いつか川上の別荘に長いことぶちこんでやる」というのが、クラドックの口ぐせ。
そんなクラドックに対し、サムはのらりくらりとことばをにごす。
このあたりがユーモアのタネ。

で、いつもの軽口のあと、クラドックがサムの指紋をとろうと罠をしかけたり、地下鉄で子どもを助けてやったら、周りからひとさらいだと思われたり、地方でほんのちょっと知りあった田舎者に押しかけられて閉口したり、「高架線のエルマ」というライバルがあらわれたり…といったストーリーが展開する。

作品の古さを感じさせるのは、やはり語り口。
サムは江戸っ子のような口ぶりで訳されている。
クラドックへの軽口の一例を引くとこう。

「だんなのまずいつらあ生まれつきだからしょうもねえが、きょうはまた特別あつらえのまずいつらだね。ええだんな、クビでもちょんと切られなすったのかね? とうとうだんなのまずい腕が部長さんに認められちゃったってえわけかな。まあいいや、クラドックのだんな、しょげるこたあねえよ。トラックの運転手の口が一つあるが、そいつでもあっしが紹介しましょうや」

地の文も、例ははぶくけれど、ずいぶんと戯作調。
これはひょっとすると、ニューヨークを舞台にした都会的ユーモアを訳出するために、わざわざ江戸っ子口調および戯作調を採用したのかもしれない。
逆にいうと、当時はユーモアを表現するのには戯作調しかなかったのかも。

「地下鉄サム」は軽い読み物だけれど、訳者あとがきを読むと、作者は毎週この短篇を雑誌に載せていたらしい。
この生産力には感心。

また、この作品、原題を“Thub-way Tham”という。
Subwayではない。
「たぶんニューヨークの下町っ子のなまりだろう」と訳者は推察している。

ところで、賞味期限切れ小説というのは、つまらない小説のことではない。
ひとはどうか知らないけれど、賞味期限の切れた小説はのんきに読めるので楽しいくらい。
「地下鉄サム」も楽しかった。

「世界短編傑作集」の巻末広告にあった作品で、あと読みたいのはヘンリ・セシルの「ペテン師まかり通る」。
これも、そのうちきっと読めるだろうと思っている。

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レムラインさんの超能力

「レムラインさんの超能力」(T・ミヒェルス 岩波書店 1980)

訳は上田真而子。
岩波少年文庫の一冊。

ドイツの児童書。
ドイツらしいというべきか、主人公はひとりもののおじさん。
ある事務所で帳簿係としてはたらいているレムラインさん。
出勤途中、乗っていた市電がトラックとぶつかるという事故に遭遇。
さほどのけがではなかったのだけれど、この事故以来、壁を通り抜けられるように。

というわけで、これは「壁抜け男」の話。
マルセル・エーメの短篇「壁抜け男」にヒントを得て書かれたそうで、訳者あとがきによれば、原書にはエーメへの献辞があるとのこと。

「壁抜け男」(マルセル・エイメ 角川文庫 2000)は読んだことがある。
でも、「レムラインさん」を読んだあとまた読んでみたくなり、書棚から引っぱりだして読んでみた。
けっきょく面白くて、一冊ぜんぶ読み直してしまった。

さて、エーメの短篇では、主人公の壁抜け男は、壁を抜けて人妻のところに忍んでいったりするのだけれど、児童書の主人公であるレムラインさんはそんなことはしない。
超能力を得たものの、レムラインさんはいつもと変わらない暮らしを続ける。

ところが、ある日、玄関のまえに捨て子が。
夜中、具合が悪くなった赤ちゃんのために、レムラインさんは壁を抜けて薬局に侵入。
その後、捨て子は自分で育てることに。
テオと名づけたその子をあやすために、壁抜けの術を披露してよろこばせたりする。

テオは大きくなり学校へ。
そこで友人たちにうっかり父親の超能力を自慢してしまう。
ここから、テオの友人たちとレムラインさんの交流がはじまる。
それからまあいろいろあって、レムラインさんはエーメの主人公同様、銀行に侵入。
お金を無断で拝借し、用事がすんでまた返しにいったところ、警備員にみつかり牢屋に。

レムラインさんは牢屋からもすぐ抜け出せる。
が、レムラインさんは自分の超能力にうんざりしていた。
たまたま、おなじ部屋の囚人モーントシャインが超能力を消す薬のつくりかたを知っていたので、それを教わる。
テオと仲間たちは薬をつくるために奔走する。

薬で超能力がつかえなくなるところも、エーメと一緒。
ただ、大きくちがうのが、男の子たちとの交流があるところと、レムラインさんの実直な性格。
レムラインさんは牢屋から逃げ出さず、真面目に裁判にかけられるのだ。

それから、すぐれた児童書すべてにいえることだけれど、ストーリーが停滞することがまったくない。
傑作というわけではないけれど、愛すべき佳品といえる作品。

おなじアイデアでも、書きようによっては子どもむけになったり、大人むけになったりする。
エーメの短篇とくらべるとそれがよくわかるところも面白かった。


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しんせつなともだち

「しんせつなともだち」(方軼羣(ファン・イーチュン)/作 村山知義/画 福音館書店 1965)

訳は君島久子。
《こどものとも》傑作集の一冊。

これはすでに古典となった絵本。
雪が降り、野山はすっかり真っ白。
食べものをさがしに出たこうさぎは、かぶを2つみつける。
ひとつは自分で食べ、もうひとつはろばさんのところへ。

「ゆきが こんなに ふって、とても さむい。ろばさんは、きっと たべものが ないでしょう。このかぶを もっていって あげましょう」

ろばさんの家にいってみると、ろばさんは留守。
そこで、こうさぎはかぶをおいてくる。

ちょうどそのころ、ろばさんはそとでさつまいもをみつけてきたところ。
家に帰ってみると、かぶがあるのでろばさんは不思議に思う。
さつまいもを食べたあと、食べものがないと思われるやぎさんのうちにかぶをもっていくと、やぎさんは留守で…。

以下はくり返し。
ラストはこれ以外にない、予想どおりだけれど嬉しいラスト。

絵は、ちょっとロシア風の朴訥とした感じの絵。
鹿の歩いている絵など、脚をくりだすリズムが感じられてうまい。
絵を描いた村山知義というひとはどんなひとだろうと思い、奥付をみてびっくりした。
このひとは、「忍びの者」(全5巻 岩波現代文庫 2003)の作者だ。

こんな童画めいたものも描いていたとは、いままで気がつかなかった。
絵本、「おなかのかわ」(瀬田貞二/再話 福音館書店)の絵もこのひと。
ハンチング帽をかぶった、粋な格好をしたネコの絵が描かれていたと記憶しているけれど、どうだったか。

タイトルだけおぼえて知った気になっている絵本も、ちゃんと読んでみるといろんな発見があるなあと思った次第。

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せかいいち大きな女の子のものがたり

「せかいいち大きな女の子のものかだり」(ポール O.ゼリンスキー/絵 アン・アイザック/文 冨山房 1996)

訳は落合恵子。

これは絵本。
タイトルどおり、とても大きな女の子のお話。
女の子の名前はアンジェリカ。
どれくらい大きいかというと、2歳のとき、父さんからもらった斧で丸太小屋をつくってしまったほど。
それからも、空をゆく鳥を手でつかんだり。
雲をしぼって、雨を降らせて、小屋の火事を消したり。
裏表紙をみると、帽子のリボンのところに白頭ワシが巣をつくっているみたいだ。

さて、ある夏のこと。
とてつもなく大きなクマが、食べものをねらい、あちこちの村を襲うという事件が起こった。
ひとびとは相談し、力自慢をあつめて、クマを退治することに。
名乗りを挙げる男たちにばかにされながらも、アンジェリカも参加。

アンジェリカをばかにしていた男たちは、クマに手もなくひねられる。
そこで、いよいよアンジェリカの出番。
世紀の大格闘が幕をあける。

大格闘はこんなふう。

「アンジェリカが クマを むんずと つかんで、たかくたかく、空の はるか かなたへ なげとばしたので、 クマは よるに なっても おちてこなかった」

しかし、クマの毛皮を手に入れると心にきめていたアンジェリカは、竜巻をつかみ、それでクマをひっかけて、地上へと引きずりおろす。

これはまさにホラ話の話法。
あまりのありえなさに、読んでいて心が躍る。

また、絵がいい。
アンジェリカとクマの巨大感はすばらしい。
それに細部までていねいに描かれていて、細かい仕掛けがほどこされているので、見飽きない。
たとえば、アンジェリカの頭のあたりにいつも白頭ワシが飛んでいるとか。
表紙を模写して思ったけれど、アンジェリカの赤毛はお母さんゆずりらしいとか。

でも、なによりいいのはアンジェリカが生き生きと描かれていることだ。
クマと相対したとき、アンジェリカは余裕で寝そべり、不敵な笑みを浮かべる。
この本のページをひらくとすぐあらわれるのは、肖像画なのか、すまし顔をしたアンジェリカだ(手につまむようにもっているのはヒマワリ!)。

さきほど、帽子に巣をつくっている白頭ワシについてふれたけれど、そのとき日本の絵本「八郎」(斉藤隆介/文 滝平二郎/絵 福音館書店 1980)のことを思い出した。
これは、大きな男の子の話。
たしか、八郎の頭にも鳥の巣があったと思う。

アンジェリカも八郎も、ともに皆のためになることをするのだけれど、その印象はずいぶんちがう。
八郎は、悲壮かつ自己犠牲的。
いっぽうアンジェリカは終始ユーモラス。
このちがいなんだろう。
主人公の性別がちがうと悲壮になりやすいのか、それともお国柄がそうさせやすいのか。
そんなことも、ちょっと考えてしまったけれど、まあたんに作者たちの作風のちがいなのかも。

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いま、なぜディベートなのか

「いま、なぜディベートなのか」(ピーター・ミルワード 英友社 1999)

訳は森内薫。

本を開くと、まずディベートというものの説明がある。
つぎに、本書の大部分を占める、さまざまな論題についての賛成反対双方の例文がつづく。
例文は、賛成も反対も著者がひとりで書いたのだそう。

で、この本、冒頭のディベートの説明が面白い。
ディベートには、「イギリス式」と「アメリカ式」があるのだそう。
そんなこととは知らなかった。
日本はアメリカ式一辺倒だと、イギリス人である著者は憤っている。

では、イギリス式とアメリカ式はどうちがうのか?
第1に、アメリカ式ディベートは、審判員たちをまえにスピーチをおこなうものであること。
審判員たちは、いかに判定をくだすべきかの綿密な指導を事前にうけている。
「言葉をかえるなら、きわめて上品かつ競争的なディベートということです」

第2に、論題として選ばれるテーマは、たいてい政治や経済などの時事問題をあつかった専門的なものであること。

第3に、論者は制限時間内にできるだけたくさんの論拠を示すのがよしとされること。
となると、できるだけ多くしゃべったほうが得策。
すなわち早口が奨励される。

以上がアメリカ式ディベートの特徴。
こうなると、イギリス式ディベートのこともだいたい見当がつく。

まず、イギリス式ディベートでは審判員なるものが存在しない。
イギリス式の論者は、アテネでの人民会議のように、市井のひとびとに対して語りかける。

つぎに、論争のさい、専門的な知識が必要なテーマを選ばない。
専門知識は専門家にまかせておけばいい。
必要なのは、ごく一般的な知識と論理のつかいかた。
ただし、これは「修辞法や雄弁法の長きにわたる訓練なしにはとてもできない芸当でありますが」と著者はひとことそえている。
イギリス式は古代ギリシアからの民主主義の伝統を受け継いでいるのだと、著者はいいたいのだ。

さて、一般のひとたちにむかい、専門的テーマ以外のことを話すとなれば、事実や数字の羅列に頼ることはできなくなる。
説得力ある論理の裏づけをもちながらも、ひとびとの「お情け」に訴える必要がでてくる。
すなわち、「雄弁の花とユーモアの花をところどころに添えて披露されねばならないのです」。

イギリス式とアメリカ式で共通しているところもある。
参加者が論題にたいし、どちらの立場にもつく用意があるところがそう。
ディベートは個人的な意見の表明の場ではなく、論理の行使するための練習の場。
論者は、どちらの側に立ったときでも、説得力のある方法で論証をおこなえるようにもとめられる。
つまり、ものごとにはつねに2つの面があるということだ。

「民主主義の基本とは、裁決を下すまえに、問題のあらゆる面を見据えることにあるのです」

イギリス式が、専門的なことがらをテーマにしないということも、ここにかかわってくる。
まじめな論題より、ばかばかしい論題のほうが、自由にものを考えられる。
それに、ばかばかしい論題のほうが、賛成するにしても、反対するにしても心理的な負担が少ない。
どちらの側に立っても気楽に論じられる。

「逆説的ではありますが、ディベートの論題としては、不真面目なほうがまじめであるといってもよいでしょう」

以上の内容はユーモアにたいするすぐれた、また気の利いた擁護になっている。
このあと、例文がつづくのだけれど、どんなテーマを論じいるのか挙げてみよう。

「日本にも女性の首相が誕生してもよい時期だ」
「相撲を廃止せよ!」
「校則はいらない」
「君が代と日の丸は今日の日本にむさわしくない」
「日本にはもはや戦後補償の義務はない」
「長野での冬季オリンピック開催は環境破壊を招く」
「マンガは今日の日本の膿だ」
「日本に最適のシンボルは蝉だ」

こういってはなんだけれど、案外、テーマは真面目。
これらのテーマにそって、著者は賛成反対双方の意見を書いている。
その頭の体力と柔軟性には感心。
とくに反対意見について考えるのは、賛成意見について考えるより何倍もエネルギーが必要だろうから、著者の知的体力は大変なものだ。

でも、ディベート的思考は、例文よりも、冒頭のディベートについての説明により多く脈打っていると思った。
その、アメリカ式よりもイギリス式のほうがすぐれているという論理展開はとても面白く、かつ説得力があって、容易に反対意見が思いつかない。
でも、著者だったら、この反対意見もすらすらと書けるのかも。

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本の保存の話

先日から本の整理をはじめている。
うちには本棚というものがなく、代わりにあるのはホームセンターで買ってきた頑丈な網棚。
よく100円ショップやパン屋でつかわれているやつ。

いままで、この網棚に、買ってきた本をひたすら積み上げていたのだけれど、自分がどんな本をもっているのか把握しきれなくなってきた。
それに、いまでは置ける場所もわずかに。
そこで、本の整理。

整理するにあたって立てた方針ないし手順は、つぎのようなもの。

・だいたいジャンルごとに分ける
・だいたい出版社ごとに分ける(文庫本の場合)
・だいたい著者ごとに分ける
・既読本と未読本を分ける
・個人的殿堂入り本は別にまとめる

2日もあれば終わるだろうとたかをくくっていたのだけれど、これが甘かった。
そんなものじゃすまなかった。

だいたい、分けるという作業はむつかしい。
ジャンルに分け、出版社ごとに分けしていると、おなじ著者の名前が目につくようになる。
なら、この著者の本のまとめようと思うと、あっちの出版社の山や、こっちのジャンルの山にも何冊かあったななどと、おなじ著者の本をさがすはめになる。
まるで、トランプの神経巣衰弱をしているような気分。
さらに、この本はとっておくか、手放すか、そのジャッジが悩ましい。

こんなことをしていると、おなじ本を2冊みつけたりする。
これはまあ、覚悟のうち。
ところが、おなじ本が3冊でてきたときは、さすがに呆然とした。
こんなことをしでかすとは、どこで人生をど間違えたのだろうと、いささか考えこんだりした。

そんなわけで現在、支離滅裂となった部屋のなかで途方に暮れているところ。

お話変わって。
本の保存法について。

本を横に寝かせて、その上にどんどん積み上げていくと、小口のところにホコリがたまってしまう。
ホコリはすぐ染みになり、染みはとれない。
寸分の狂いもなく積み上げているわけではないから、表紙や裏表紙の一部もおなじ目に遭う。

その点、文庫本はいい。
表紙とページがおなじ大きさだから、小口にホコリがたまることはない。
カバーはコーティングした紙をつかっているから、ウェットティッシュでひと拭きすれば、すぐきれいになる。
それにひきかえ、コーティングされていない紙をカバーにつかった、ハードカバー本の被害はテキメン。
わが家では、積み重ねた本の上に布をかぶせていたのだけれど、それでもホコリはたまってしまった。
本の整理に時間がかかっているのは、この清掃作業もかねているからだ。
それから、日に焼けるという被害も見逃せない。

どうすれば、これらの被害を微小に食い止めることができるか。
ビニール袋に入れる、という方法がまず考えられる。
ビニール袋に入れて冷暗所において置けば、本は驚くほど長もちする(なんだか野菜みたいだけれど)。
本屋や古本屋が、本を袋に入れているのはダテではないのだ。

ただ、ビニールに入れると滑りやすくなるから、積み上げるのがむつかしくなるかもしれない。
ホームセンターで売っているケースなどを買ってきて、大事な本はそこに入れ、押入れに入れるなり、日よけの布でもかぶせるなりするのがいいのかなあと、現在思案中。
これだと、本がとり出しづらくなるけれど、なにもかもうまくいく方法はおそらくありはしないだろう。

ところで、本はビニール袋に入れておくときれいなまま保存できるというのは、経験から知った。
買った本をずっと袋から出さず、ほったらかしにしたまま、ある日読もうと袋からとり出してみたところ、ずいぶんきれいだったので、それに気づいた。
と、いま書いて思ったのだけれど、本は読むまで買った袋からとり出さなければ、きれいなままでいられるのかも。
いやでも、これでは、同じ本をさらに買ってしまうか。


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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

お正月はディケンズの「二都物語」を読んでいました。
いまも読み途中。
いやー面白い。
ディケンズの人物描写や風景描写はむやみと迫力があって、アクションシーンみたいだ。

さて、ことしの展望。
早川書房の「異色作家短編集」シリーズ(の手元にあるだけ)と、国書刊行会がだした「探偵くらぶ」シリーズ(の手元にあるだけ)の読破。
この両シリーズは図書館で捨てずにもっていてくれるだろうから、読んだあと処分しても大丈夫(だと思う。)
これがなくなれば、本棚にだいぶ余裕ができるぞ。

でも、ことしの展望なんかいうまえに、暮れにできなかった本の整理をこれからやります…。

ことしも週に1、2度、読書にまつわるメモをとっていきますので、よろしくおつきあい願います。

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